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地獄の賽の河原は何の寓話?
賽の河原で子供が石を積んでは鬼に壊されるという話がありますが あれは、無意味な労働をさせられて、しかも完成がなく繰り返しやらされる というのを寓話的に描いているものだと思うのですが、日常生活でまさにその通りの場面だなと思うコトを教えてください 穴を掘らされてそれを自分でまた埋めらされる、というのを延々とやらされると気が狂うとか聞いたことがあります これはちょっと非日常ですのでもっと生活に密着していると思われることで教えてください
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すこし付け足し。 地獄の鬼を悪魔のごとき存在と考えている人が多いけれど、地獄の鬼、獄卒はそのような存在ではない。 仏教の唯識思想などによれば、 その世界(たとえば地獄)の住人の思念(のエネルギーのようなもの)で生じた《化生の存在》。 であるから、 賽の河原の鬼は、賽の河原にいる子供たちがみずから望んで作っているのよ。 それは、現世にいる親兄弟の愛著のためかもしれない。 あるいは、自身の功徳を親兄弟に長く廻向するために、子供たちが作っているのかもしれない。 このあたりのことは、賽の河原の子供たちに聞いてみないと分からないのだけれど(ポリポリ)。 (地獄の)鬼というのは、実は、装置なんだよね。 地獄の鬼は、現世で行った自身の罪業消滅のために存在している装置みたいなものなんですよ。
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- NemurinekoNya
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こんにちは。 ☆あれは、無意味な労働をさせられて、しかも完成がなく繰り返しやらされる ◇無意味な労働ではないですよ。 賽の河原(ここは地獄ではなく、生と死の狭間の世界)で、 親に先立った子供たちは、石を積み仏塔を建てるという功徳を自身のために使うのではなく、この功徳を親兄弟に廻向(えこう)をしているのであった。 地蔵和讃には 「子は河原にてこの苦労、一重積んでは父の為、二重積んでは母様と、さもいとけなる手を合わし、礼拝廻向ぞしおらしや、三重積んでは古里の、兄弟我が身と廻向する。」 とある。 献身であり、(自他の区別を超越した)愛ですよ。 大乗仏教、菩薩行の極意がここにある。 こうした廻向を、賽の河原の子供たちは延々と繰り返している。 なんと尊いことではないか!!!! なお、廻向は、自身の福徳や功徳を他者に差し向けること。
- titelist1
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仏典には書いてない話なので民間の話なのでしょう。 普通の理解では子供が親を思って供養の石積みをしているのに悪い鬼が邪魔ばかりする。それを地蔵が現れて鬼を追い払い石積みを助けるとの喩え話だ。これだと石積みは良いことで賽の河原である必要もない。 私には、子供が親を思って供養のために河原で石を積んでもいずれは洪水で壊れる。鬼はそれを教えるために何度も壊して教えるが子供はそれが分らない。地蔵が現れ鬼を追い払いそれを助けるが所詮は無駄なことをしているだけとの喩え話に思える。 ・才能もないのに絵を描いている画家。 ・偉く成れないのに深夜まで働いている若者。 ・浮気ばかりする夫に尽くす妻。 ・夫と同じ馬鹿な息子に将来を期待する母親。 ・話せば分かり合えると思うお人好し。 ・毎日ジョギングすると長生きできると思う老人。
- 09000000000
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生活に密着していると思われることで そんな出来事があれば それを嫌だと判断し改善するだけ 奴隷制度が無くなったのも そういう事だからです