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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:認識論のみでは 《しゃべる蛸壺》に終わる。)

認識論の限界と哲学の役割

kanto-iの回答

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.16

お久しぶりです。 再度チャレンジです。 お礼は、長ければ不必要です。 哲学は、思考における図面を引く基本的手法。 概念構築に必要なもの。 一人で何かをする時は、割と簡単なことが多いが 自分以外の人が関わり合い、何かをやる事や共に過ごす時間など 共有を必要とする時、常に修正が必要になる。 つまり、共有している間その相手との関わりに 適切な関係でいるために、常にその場で哲学を使います。 相手とどういう関係を構築したいのか? 例えば仕事なら、信用・信頼・協力・成果など 自身が望むことに向かうために、言動の選択をしますよね。 その時必ず、私は哲学を使います。 互いにいい状態になるよう、その場で自身の言動の選択肢を 常に検討しながらコミニュケーションを取るようにしています。 例えば家族、家に帰って夜くつろいでいる時に 嫁さんが毎晩お茶を出してくれたとします。 相手を見ずに無言で、ただ飲むのか。 新聞やテレビから眼を移さず、ありがとうだけ言うのか。 毎回、相手の眼を見て、にっこり笑顔で 「ありがとう。君が入れてくれたお茶を飲むと、心の底からホッとするよ。」 などの感謝を添えて伝えるのか。 それは個人の選択であり、自分がどういう哲学的背景から選択をするのかは それぞれが主体としての自由裁量に任されています。 その選択の根拠が自分の中に明確に無ければ、今の私でも選択はおそらく気分でぶれます。 根拠も哲学なら、言動も哲学をその場で臨機応変に使います。 一人で哲学なら、例えば片付けに三段論法とか使いませんか。 哲学は思考のための構造でもありますから、分解すれば考えの中に 手法は沢山含まれます。 そういう事を、一つ一つ丁寧に認識に上げて行く人と、そうでない人がいます。 私も以前は認識していませんでした。 自分で自分がどうやらまずいと気がついてから、選択を変えるようにしてきました。 が、普通は黙って気がついて、黙って変えていきますよね。 選ぶのは、個人の意思の自由裁量ですから。 やっていって分かったのは、日常の生活で適切な選択を積み重ねるのが 大切、あるいは重要な場面での選択にも全て反映されると言うことです。 そういう概念を、自分で日々構築するする訳ですから。 他者に向け愛や誠実で常に対応しているのか 見下したり、バカにして過ごしているのか 人とは直接会ってやりとりすれば、おおよそ見えてきます。 その人全てに、反映がにじみ出ますから。 だからはっきり気がついている人も、通常はその話しは出しません。 それは、おそらく自分で気づく必要があるからです。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  先に 認識および思考があって そのあと 実行がある。  実行としては認識論で得られた問題を解決するための選択肢 ここから選択することである。  この選択としての意志決定が 往々にして 表示されていない場合があるようだ。  または 選択肢を考えるにしても その前提としてすでに大枠となっている現状を変わらないし変えないものとして決めてしまっている。のではないか。  そういう問いとして ご見解の内容と絡み合っていましょうか?

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