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何か仏教ネタを頂戴

noname#207067の回答

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noname#207067
noname#207067
回答No.20

まず、Flareonさんのことではありません。 buddhāをパーリ語の男性名詞の複数形・主格ではなくて 女性名詞だといってくる人がいて驚いています。 しかもスラング扱い。 たんに皮肉を言っているのかもしれませんが ブッダが女性だったとでもいうんですか? ~~~~~~~~~~~~~~ 語義の変遷  仏陀とは、サンスクリット語の「buddha」の音写語である。この「buddha」は「知れる人」という意味であり、古代インドから「経験的に知る」ことをさす√budhという語根の動詞で示される。  また、「目覚めた人」という意味もあり、このように考えるときには、√budhを「眠りから目覚める」という意味でとる。この意味では、ジャイナ教でも仏陀という言葉を使っている。さらに発展させて「覚った人」というように理解され、「the enlightened one」と英訳され、漢訳でもしばしば「覚者」と訳されている。 仏教以前、さらに仏教の興起した時代における「さとり」については、特定の宗教に限定されるものではなかった。古ウパニシャッドにおいてはbuddhaとは「真理をさとった」というだけの意味である。  ジャイナ教でも古い聖典では、他の宗教の人であったとしても、聖人・賢者はすべて「ブッダ」と呼んでいた。ジャイナ教の聖典一般では「ブッダ」といえばジャイナ教の祖師(TirthaMkara)を意味するが、仏教に言及している湯合には釈迦に言及していることもある。  釈迦に叛逆したと伝えられる提婆達多(Devadatta)も仏陀を自認し、かれに従う徒衆も彼を仏陀と呼んでいた。  スッタニパータのような古い聖典では「仏陀」とはただ聖人・修行者のことであり、どの宗教の人についてでも適用された。若干の漢訳仏典では仏陀を「学者」「明人」と訳しているのは、この意味であろう。  この「budhha」とは、仏教が起こった時代‥‥諸宗派も同時に興起した時期でもあるが‥‥さまざまな宗教で「覚った人」を「buddha」と呼んだのを、仏教も採用したものだと考えられる。このような経緯で、初期には仏陀とは「さとれるもの」「目ざめた人」「完全な人格者」「絶対の理をさとって理となった人」「師」「尊敬されるべき人」という意味の普通名詞である。ことに初期の経典では、仏陀が人間であることが特に強調されている。 http://www.wikidharma.org/jp/index.php/%E3%81%B6%E3%81%A3%E3%81%A0 ~~~~~~~~~~~~~~~ >ジャイナ教でも古い聖典では、他の宗教の人であったとしても、聖人・賢者はすべて「ブッダ」と呼んでいた。 ~~~~~~~~~~~~~~ それに今回のポイントは仏教の過去仏ではない、 ブッダが複数いて、仏教のゴータマ・ブッダはこれといって 特徴のあることは言ってなかったということでしょう。

Flareon
質問者

お礼

いやー、照れるね。 > 初期には仏陀とは「さとれるもの」「目ざめた人」「完全な人格者」「絶対の理をさとって理となった人」「師」「尊敬されるべき人」という意味の普通名詞である。 私はこれに該当する。 私が解き明かしたいのはそもそも、 「仏陀と言う言葉の現代語訳は人間という言葉」 そのためにな、仏陀を解説し、日本において無の悟りの内訳を誰にでも判るように解説しようと考えている。 そんなネタ探しだ。 今回の回答では、あんた自身の考察がうかがい知れないが、いい研究をして、仏教に冷静なようだね。 なかなかだよ。

Flareon
質問者

補足

私の「仏という言葉の現代語訳は人間」これと、あんたがほじくり返した論説で共通するのだが、古来仏陀とは人の中でも自分自身を自覚した人間そのものと言ってもだ、語源から解釈してもそんな感じだと言ってもだ、仏を神と並べて拝んできた伝統をうまく言い含める説明をしないと、仏教以前や以外の仏陀は人間を指しても、仏教では仏とは神であるとか何とか言いだしかねないね。 ここも何とかしないといけないだろーなー。 ところで今回は締めるよ。 あんたは面白かった。

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