• ベストアンサー

何か仏教ネタを頂戴

2014japanの回答

  • 2014japan
  • ベストアンサー率22% (35/159)
回答No.21

悟り、悟り、悟り、いりません。 大体悟りがなんだか解らないのに、悟った,悟ったと言われても、「へえ~そうなの良かったね」か「おめでたいね」の返答しかできません。 悟りなんてそんな程度ですよね? 私が思うのは、お偉いお釈迦様も、婦女暴行殺人者も行先は同じところということです、善人も悪人も結果は同じなんですよ。 社会において処罰されるか、されないかだけです、私たちは社会という枠の中だけで神とか、悟りとか、魂とか考えているだけだと思うのですが? 通りすがりのド素人の考えですが、どうでしょうか?

Flareon
質問者

お礼

野生動物の様に利己的に生きるのではなく、人間は社会的に生きるのだ。 その意図した共生を理解すると神が現れる。

関連するQ&A

  • 仏教で言う無分別を解説してください。

    無の論理と哲学はかようである。 神を語っておらず、無根の信仰だ」(まるっきり無い) 「神を語る言葉は無い。」(ありを隠し無と語る) この二つの無を使い分けて、信仰とそれの報じる神について、無であり彼我の一切が無と言う説明で、自己の信仰を表現するお釈迦様独自の悟りと世術である。 コレは有無の分別であり、彼我の分別である。 まるっきりない事に関しては、実はそれもあり得るのではないかとくよくよ悩んだりしない事。 有りを隠し無と語る事に関しては、何か確かな証明でもしない限りは無いも同然で無いかと悩んだりしない事。 このようにすっぱりと、有無の分別を付けることである。 無の悟りとは、このような分別がつく事である。 ところがこれを仏教では、分別でなく無分別と言うらしい。 仏ではなく仮面ライダーの私にはこの点がなかなか納得できない。 誰か説明してくれ。

  • 仏教についてです。

     こんにちわ。ijukoは今仏教について調べているのですが、資料が多すぎて混乱しています。 ですので、どうかijukoを助けてください。  ijukoがわからないのは、 ・仏教の始まりとはいつ? 仏陀が生まれた年、入滅の年にはさまざまな説があることはわかっているのですが、仏教というものが始まったとされるのはいつでしょう?仏陀が生まれたとき?出家したとき?それとも悟りを開いたときでしょうか? ・仏教の聖なる本を紹介しろといわれたら何を紹介する? さまざまな宗派があり、さまざまな経があることはわかりました。しかし、仏教の基本を最も多く含んだ書物・文献とはいったいどれでしょうか?阿含経? 1週間調べてわかりませんでした。どうか回答お願いします!!

  • 無の悟りとは方便であり、お釈迦様の無我は偽りである。

    無の悟りとは方便であり、お釈迦様の無我は偽りである。 無の悟りとは無いものは無いと明白にする、有無に照らした分別の身を指します。(持論) そこで無我について考えてみました。 煩悩を考察する例え話です。 たとえばテレビでフェラーリを見てかっこいいから欲しくなった。 冷静であればお金が無いからやっぱりやーめた。 このようになります。 ところがどうしても欲しいと、中古品の旧車で安いのは無いか、、いっそのことミニカーでも買ってみようか。 このようにくよくよします。 そのようなくよくよがなく、「そんなもんありゃしねー」とすっぱりと切るのが無です。 この場合の無とは、「我には無い」と言う意味です。 でも世の中にはフェラーリと言う車が流通しそれに乗る御金持もいます。 我には無い、されど世にはあるです。 無我に照らせばフェラーリはあるです。 我に照らせばフェラーリは無いです。 ならば無我に照らし、さらには無しとする「無」はあるのでしょうか。 世の中をあまねく照らせば全てはあるです。 無は信仰のみにしか無い。 ところがあまねく照らすアマテラスさんはほほ笑みかけます。 「私があなたを知らないわけがない」と。 そうすると想像の産物、想像の世界とは、人間にとっては無と言いうる側面がかつてあった。 しかし神に照らせば全てはある。 ならば無とは偽りであり、無の悟りとは神への反逆である。 お釈迦様は自らの信仰を他者に伝え仏教の始祖となりましたが、その信仰の内容とは無神論そのものであり、信仰の根ざす事柄は無への信仰である。 私は無我とは偽りであると主張します。 それでも無我を主張する仏教の教えについてご教授ください。

  • 救ってくださいとは、具体的にどういうことですか。

    やあ。 私は実在する仮面ライダー「黒き明星」だ。 初の男子プリキュアでもある。 私はすでに無の境地に達し、その悟りを君たちに知らしめている。 ところが君達はそれでも、私を救ってくださいと、懇願し痴漢行為をはばからない。 無が理解できてこそ君達は救われるという教えでは無かったかい? そんな約束を破って君達はいまだに私に対して醜く取りすがっている。 無の他に今度は何が救いだと言いたいんだね。 無の悟りで救えると言うのなら、私はすでに君たちを救っているよ。

  • 無の悟りとは、釈迦にとっては人生論だ。

    君達の信仰は神を表していない、すなわち無だ。 私の信仰は神を語らないことにある。すなわちこれもまた無である。 こうして一切が無である。 この無の教えは誤解された。 君達の信仰は神を語っていないと教えられ、自らの神を語るこそすら出来ないと、その絶望と信仰の到達がはるか彼方であることの無であることの内訳と誤解され、すべてが死に向かう宗教として仏教は誕生した。 私は実在する仮面ライダー「黒き明星」としてその死の罠を粉砕し新たな活路を見いだした。 別に語りたければ語ればいいじゃん。 無は信仰の様式の一つだよ。 無を理解するのは私の様な超人だけでいい。 君達の場合は、自らを考える事と神を考える事を区別しなければいいんだよ。 人間の思考が神に由来すると気が付けばそれで十分悟りだよ。 さて仮面ライダーである私は常に闘争と勝利を求めている。 旧人類の亡霊として私の前に立ちはだかってくだされ。

  • 無を求める心は何処からやって来るのか

    無の境地を求める仏教徒がいるとゆー。 悟りを開き無の境地に至るためだとゆー。 なぜ彼は無を求めるのか。 人は死ねば無になるではないか。 無を求めずともそのうち自然に無になるではないか。 なぜ今無を求める必要があろー。 無を求める者が飯を食うのは何故か。 飯は無なのか、有なのか。 飯を食うのは生きるためではないのか。 すると生きることは無を求めることなのか。 果たして無を求める者はその答えを備えているのか。 もし無を求めるのであれば何も要らないのではないか。 無を求めるものがお経など唱えてどーするのか。  

  • 無の境地について考察しました。添削してください。

    そもそも無の悟りは、 君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 お釈迦様のこの悟りを理解することである。 しかしだ、無の悟りで最も大切なのは、語る言葉はないしそもそもその必然がないという自覚である。 この自覚は、釈迦を理解することでは無くて、自らを理解することにある。 私は、「わが信仰の大道を行け」と推奨しているし、そのように自らの信仰に対して、悟りに至る事こそ仏陀の道だ。 現在の日本の仏教では、「語る言葉はない」コレが「語る言葉はないが私の心は信仰心で潤っている」こういう言い回しになって、それが空であるという事になっている。 この空の自覚であれ、本格的な無の悟りであれ、快楽主義者である君達はその心の快適さにばかりっ関心を向ける。 すなわち無の境地とは何ぞや。 悟りに至る道とは何ぞや。 無の悟りに無ではなく私の心と言う有りを見いだした私は、それこそが分別だと言うが、一般には無分別の事だとされているが、迷わない心を見いだすことにある。 自らの心が自らの自由となり、忙しく煩悩に焼けただれる事が無くなる。 無の境地と言う言葉のままに、思索の一切をやめて心も思考も平静となれる。 私はそんな感じに至っている。 快楽主義者の君達の関心事は、どうすればそうなれるかだろう。 答えは自らが仏陀になる事であり、そのためにはお釈迦様を追いかけるのはやめて、自らの心に向き合う事である。 そう言う訳で、 「わが信仰の大道を行け」 こうなる。 さて私は現在本格的に出版に向けた執筆をつづけていて、今回は新たに境地と言う言葉について考察しようと考えています。 そもそも私の一連の投稿で君達はすでに無を悟ってしかるべきなのだ。 しかし実感が無いだろう。 その実感を境地と言う言葉に置き換えて何が障害になっているか考察するとっかかりを探そうとしています。 サル踊りには慣れているのでそれでもかまいませんが、本格的な意見があると成果が上がりますので、常連さん以外で志のある方のご回答を期待いたします。

  • 平成仮面ライダーの個々の考察をお願いします。

    20の男子学生です。 仮面ライダーは平成のだけですが、クウガからずっと見てました。 仮面ライダーというのが、カッコ良くて好きです。 たまに、仮面ライダー関連で回答したりとかもするのですが、 仮面ライダーが面白いと感じて、他のも見たい。何から見たら良いのか? という質問に対して、個人的な考察を含めてお勧めしています。 ただ、自分なりに考察したりもするのですが、イマイチまとめられないんですよね。。。 それで質問したいのですが、平成ライダーに対する個々の考察。 全部じゃなくても良いです。 出来る限りで、平成ライダーのプレビューを、、 お手数ですが、お願いします。

  • 無の悟りとは、そもそも無を捨てることだ。

    私は実在する仮面ライダー「黒き明星」だ。 初の男子プリキュアでもある。 私は君達に無を知らしめるためここの降臨した。 無を捨ててこそ無を悟れる。 この手の言い回しはありがたい本などによく出てくるブチギレ論理だ。 仏教ではこの手のばか丸出しがありがたい教えであり哲学だと言う事になっているが、 よろしい。 私が教えてあげよう。 無である事こそ人間の全てだと教えられ、無に至る事こそ信仰だと教えられ、そして無を望む。 これだけだと、望みではないのだよ。 誰かから聞いた事を自らの望みだと解釈しているだけだ。 この場合、自らが無の結論に至り、無を望む、自分自身の願いではない。 誰か他者が望んだ事を、自分も望むと言う事は、それ自体が欲望だ。 たぶんうらやましいんだろうよ。 心当たりはないかい? 無の悟りは何か知らないと言う事なら、無の悟りを理解していないのだよ。 そして来世に期待しないかい。 それだけなら無の教えは聞き流しただけで、無を望んでいないのだよ。 今日はここら辺でやめとこう。 研究のために、正義を名乗る悪の勇者を募集しています。

  • 無の悟り、無の境地とはなんですか。

    基本的な事を確認しておきます。 無の悟りとは、あなたにとって何ですか。 何故無を悟ろうと志すのですか。 無の境地とはあなたにとって何ですか。 何故無の境地にいたろうと志すのですか。 私が考えるにそれがいいことだと誰かから教わったからじゃないですか。 ちなみに私は無の悟りに至った自称仮面ライダーです。世の中に対しては自称弥勒菩薩と言った方が受けがいい。 そんな私が元々願っていたことは人間になる事でした、無を悟る事でも仏になる事でも無かった。 でもそれが正解で、自己を自覚してこそ仏なのです。 お釈迦様を見習ってまねをすることは、自分らしくないのです。 それはともかく「無の望み」とはどのような経緯であなた方の場合望んでいるのでしょうか。