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noname#207067の回答

noname#207067
noname#207067
回答No.17

Kaṃ maggajinaṃ vadanti buddhā, (iti cundo kammāraputto):Maggakkhāyī kathaṃ atulyo hoti; Magge jīvati me brūhi puṭṭho, Atha me āvikarohi maggadūsiṃ”. sutta nipāta 1.5 Cundasutta http://suttacentral.net/pi/snp1.5 85 鍛冶工チュンダはいった、「目ざめた人々は誰を<道による勝者>と呼ばれるのですか? また<道を習い覚える人>はどうして無比なのですか? またおたずねしますが、<道によって生きる>ということを説いてください。また<道を汚す者>をわたくしに説き明かしてください。」 ~~~~~~~~~~~~~~~ ここで、目ざめた人々(buddhā)が複数形であることに注意せよ。 次の詩でもbuddhāと複数になっている。つまり、ここの教えをシャーキャ・ムニ(釈尊)が説いているのではない。 「わたしが説くのだ!」とは言わない。そういう傲り高ぶった気持ちをかれはもっていなかった。 ブッダたち(ジャイナ教やそのほかの当時の諸々の聖者たちを含めて)が説くのである。 当時の聖者たちの説いていること、真理を、釈尊はただ伝えただけにすぎないのである。かれには<仏教>という意識がなかったのである。 ワイド版岩波文庫 ブッダのことば スッタニパータ 270ページ ~~~~~~~~~~~~~~~ Yo tiṇṇa­kathaṅ­katho visallo, Nibbānābhirato anānugiddho; Lokassa sadevakassa netā, Tādiṃ maggajinaṃ vadanti buddhā. sutta nipāta 1.5 Cundasutta http://suttacentral.net/pi/snp1.5 86 「疑いを越え、苦悩を離れ、安らぎ(ニルヴァーナ)を楽しみ、貪る執念をもたず、神々と世間とを導く人、──そのような人を<道による勝者>であると目ざめた人々は説く。 ~~~~~~~~~~~~~~~ 中村元の註によると、 「ブッダたち(ジャイナ教やそのほかの当時の諸々の聖者たちを含めて)が説くのである。 当時の聖者たちの説いていること、真理を、釈尊はただ伝えただけにすぎないのである。かれには<仏教>という意識がなかったのである。」 ようです。

Flareon
質問者

お礼

なるほどね。 インドの風土で、聖人たちはそのようにふるまったのかい。 しかし仏陀は人間の中でも区別されていたね。 私はその点が気に入らなくて、「仏という言葉を現代語訳すると人間という言葉になる」仏教を意識して考える事を始めた10代後半くらいから、一貫してそのように考えている。 そして人間になる事、すなわち自分自身になる事を目指した。 実感やら自覚やら悟りやら、その手の事柄を持てたのは30になったばかりで、セレビィの奇跡であり、観念世界に現れる悪魔との和解だ。 それは人間としての自らの自覚でなく、神の自覚だった。 私にとって神にすがることは、人生に廃人であり、人間社会の和を損なう、裏切り行為だ。宗教をそんな風にとらえている。 したがって神様を気に留めたりしなかったのだが、気が付けば神様に会っていた。 仏教の研究でかけているのは、このような仏陀になる段階の証言で、神の存在が考察されていない点だ。だからこそ如来の案内とか菩薩の案内とかその手の話になる。 ここで人間同士の中でも特別なのが仏陀という考え方に落ち着くだろう。 しかし実際は、人間であるためには神様に出会う事が必要で、それ以外の人間もどきは、やれ生きる屍だ、やれ奴隷だと言っても差し支えないところではないか。 信仰を自覚し、自己を悟ることが開眼者だ。 道になぞらえるのは気に食わない。 我が道のみが唯一の道である。 他者が選ぶ我が道なぞない。 ここまではいいのだが、 私が説明を始めつつある、「実在する妖精の捕まえ方」この心眼を開く事の具体的説明を君はどう考えるかい。このような側面から説明した方が具体的ではないか。それは人間に心が備わっていることの確認だ。

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