• ベストアンサー

神仏を尊び神仏に頼らず、これは信仰として成り立つか

asisai888の回答

  • ベストアンサー
  • asisai888
  • ベストアンサー率15% (11/73)
回答No.10

>神仏を尊び神仏に頼らず 尊ぶことも頼ることも、それら行為の対象が存在することを前提にしてます なのでこの言葉は神仏の存在を信じるという意味も汲み取れます なので言い換えるなら、私は神仏を信じ、かつ尊び頼らない となります 信仰とは辞書から引用すると 「神仏などを信じてあがめること」だそうなので 武蔵の名言は信仰を表していることになります つまり信仰として成立してます

hitonomichi33
質問者

お礼

  ありがとうございました。  

関連するQ&A

  • 信仰と宗教の違い

      「神仏を尊び神仏に頼らず」、これは信仰として成り立つかと問うてみた。 http://okwave.jp/qa/q8749349.html その結論として、「神仏を尊び神仏に頼らず」は立派に信仰として成り立つと結論できました。 しかしながら果たして神仏への願いを伴わぬ宗教がこの世に存在するであろうか。 わたしが知る限りではおよそそのような宗教が存在するとは思えない。 では信仰と宗教の違いとは何か。 神仏への願いを伴わぬ信仰は信仰として成り立つが、神仏への願いを伴わぬ宗教は有り得ないのであれば次のように結論できるのではないか。 信仰は神仏を信じ尊ぶが、必ずしも神仏に願うことはしない。 宗教は神仏への願いを伴う信仰である。  

  • 神仏に慈悲を願い、取りすがる事は信仰の自由の範囲内で完結するのか その4

    イタズラ回答を回避しながら断続的投稿です。 その一12月22日付 ​http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5539308.html​ 宗教と言う組織の特徴的な現象として「神様争奪戦」の弊害の原因として神仏に取りすがる姿勢を提起したつもりです。 その2 12月31日付 質問趣旨が誤解されてアラシにあったので削除されました。 その3 1月6日付 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5573063.html 自助と互助のバランスとして信仰の共同体(宗教)の役割を問おうとしました。 思いがけずA1さんより健全な信仰心の在り方についてコメントをいただいていますが、そのような感謝とは別にあらかじめ神仏に要求を突き付けるのはとりすがりと言うべきではなかろうかとも考えます。 宗教が健全な信仰をはぐくみより良く生きるための互助団体として機能すれば話は早いのですが、実情はご利益追求のための信仰とは無縁の欲望の成就を祈願するとりすがり団体の側面があり、肥大化した求心力ゆえの暴挙として、要するに神様争奪戦として歴史に現れる失点があるのではないか。 その原因の一つとして曲がった求心力を信仰に期待するとりすがりがあり、集団として暴力と化しているからこそ、神仏に取りすがる姿勢は個人の自由として容認せざる横暴ではないか。 私は平均的な日本人らしい生活をしており、信仰を表ざたにしたり意識的に生活に取り入れたりはしません。このような普通人にとって信仰を表ざたにする立場とは、とりすがりに代表される神仏への辱めを行う人間としての裏切り者、廃人、とも受け止められます。もちろんこれは偏見と判りますが、一般的に信仰におぼれる者の特徴として毛嫌いされる要素です。この点について信仰の内側よりの説明をいただきたいと思って質問しています。

  • 宗教、信仰とはなにか?

    辞書には、神仏など絶対的のものを信仰し安心を得ることとあるのですが、実際個人が何かの信仰なり、宗教を信じるということは、具体的にはどういうことを意味するのでしょうか?

  • 信仰とはどんな感覚なのでしょうか?

    自分は無宗教です。信仰に対して理解が乏しいですが、宗教を持っている人とうまく接していきたいので理解を深めたいと思います。 宗教を持っている人はむしろ多数派ですし、信仰心というものを持ったり神仏や宗教指導者を崇拝する性質を多くの人間が持っているのは疑っていません。自分も本当に追い詰められた時に「神に祈る」という精神状態になったことがあります。ただし、それは現存する特定の宗教の神仏ではありませんでした。 宗教指導者や教典にはまったくあこがれやありがたみを感じません。善悪や正義、愛といった価値観は宗教がなくとも養えるものであり、逆にそうした倫理の根拠を宗教に求めることで柔軟性を失ってしまうことには危機感すら感じるので、自分は受け入れることは出来ません。また、科学が世界の仕組みを明らかにしていく上で、宗教に基づく説明、たとえば「お空の上には神様がいる」といった説明がまったくウソであることが判明してしまったりして余計に信用に足らず、ありがたいどころか真実を見失わせる胡散臭いものとしか感じられません。そのためか、自分には信仰という感覚がまったく理解できません。信仰心を持つというのは、いったいどんな感覚なのでしょうか?とくに根拠のない宗教的な説明に価値や説得力を感じる人がいるのは、どんな理由によるものでしょうか? どなたからの回答も歓迎いたしますが、「以前信仰心を持っていたことがあるが、現在はあらゆる宗教に対してまったく信仰心を失っていおり、客観的に信仰を説明できる」「自然科学的な演繹に基づく事実と、宗教に基づく非科学的な概念の両方を受け入れ持ち合わせている」といった方のコメントを特にお待ちしています。

  • 神仏に帰依するという心構え

    俺はごく平凡な男です。何か特別な力があるというわけでもないのですが、これからは神様や仏様を信仰して行きたいと思っています。神仏に帰依するとは、すなわち何を意味するのでしょうか?そのような行いをすることなのでしょうか?いつかこの平凡な男でも神仏と対話することが許される日が来るのでしょうか?まずできることとは何でしょうか?どうか意見を聞かせてください。

  • 何故宗教は信仰されるのでしょうか

    今現在、世界には様々な宗教があります。ユダヤ教、イスラム教、ゾロアスター教、仏教、オウム真理教など種類も信仰の対象も様々です。 しかし、私には何故宗教が信仰されるのか今ひとつ理解できません。 世界史的に見ればほとんどの宗教は神権政治や民衆反乱によってできた、つまり人が人を動かすために都合のよいからという理由で生まれてきているということです。そして宗教は基本的に神と呼ばれるものを信仰しますが、今日に至る過程の間に宗教同士が混ざり、神が混ざり、新たな神、信仰が作り出されるといったことが少なからずありました。現在においても同じ宗教でも考え方に相違がある、等ということがあります。 人類はここまで宗教のルーツについて客観的な調査ができています。それなのに何故、人類は人類自らが人民誘導のために作り出した宗教を何の疑いもなく信仰できるのでしょうか? 現在キリスト教には20億人の信者がいると言われています。そしてその起源はユダヤ教にあるとされています。そのユダヤ教もバビロン捕囚によって精神的に追い詰められたイスラエル民族がまとまりを取り戻し再び歩み出す際に生まれた宗教です。実際に誰も神の世界を見たわけではないですし、世界を想像した主が信じるものしか救わない、それも必ず救われるわけでもない。(信じて救われるのなら人は死にません。)そんな確かな存在証明もされていない神を本当に20億人もの人が信じているのでしょうか?(例えば、まだ宗教のルーツが完全に把握できておらず、なおかつ神がいたという古代人による表記が多数見つかっている、とかならまだ神はいないという意見に確証性が足りないので理解できないでもないですが・・・) 私は無宗教ですので宗教を信じる人の気持ちを理解しているわけではありません。しかしこうも条件がそろうと神を信じている人の言うことよりも神が人為的に作られた架空のものであるという考えのほうが辻褄があうのでは、と思います。 宗教の自由についてとやかく言うつもりはありませんが、一体何人の宗教信者が史実を理解し、それでも神はいるという確証性のある持論を持ち信仰をしているのか疑問に思います。 どなたか詳しい方ご教授をお願いします。 また、私は世界史についての学があるわけではないですし、宗教についても見当外れな知識や、差別的な見方を持っている可能性があります。この文を読んで不快感を覚えた方には深くお詫び申し上げます。

  • 七福神の信仰に関して

    みなさま、初めまして。 宗教カテゴリーがないので、ここのカテゴリーで良いのか悩みましたが、とりあえずご質問。 七福神は、日本の神、インドの神、道教の神等が混在している信仰形態ですが。 神道から生まれたのでしょうか?。 仏教から生まれたのでしょうか? 私的には、民間信仰から生まれたと思っておりますが、解る方申し訳ありませんが、ご教示願います。

  • 洋の東西問わず、宗教施設って?。

    みなさま、始めまして。 西洋、東洋を問わずに、どの宗教も宗教施設って、 土地をたくさん持っていて、建物を豪華にしたり高くしたりするのでしょうか?。 土地や建物を豪華にしないと、神のご加護やご利益が得られないのでしょうか?。 私が思うには、神仏を信仰するのであれば、小さな小屋で祀っても 神仏はがっかりしないと思うのですが。 土地を広くしたり、建物を豪華にする意味ってありますか?。

  • 信仰について

    宗教を学問として学んでいる方は、 神様の正体の一部をご存知かと思うのですが、 日ごろ、神の存在をどのように捉えているの でしょうか。 私は比較的、神や霊の存在を信じている方 なのですが、最近、神道も作られた部分が かなり多いと知りました。乱暴な言い方ですが、 神様はいないと思ったわけです。しかし、 やはり年始には神社へ参拝したくなりましたし、 自宅の神棚に手を合わせる日もあるのです。 この神様の存在を信じる気持ちは、 どこから来るのでしょうか。 人の潜在的な死への恐怖からでしょうか。 以前、ダ・ヴィンチ・コードが話題になったとき、 アメリカ人の知人が、『キリストが誰であっても、 彼の教えが素晴らしいことには変わりない』と 言っていました。確かに、キリストは殺人や強盗が 当たり前だった時代に、人としての在り方を説き、 宗教が絡んだ人間同士の争いなどを除けば、 人々を平和な世界へ導いた優れた人物です。 彼が人間であれ、神の子であれ、彼の教えは 否定されるものではありません。 一方、神道に教義は存在しません。 かつて日本人は、木や岩などの自然に神秘的な 力が宿っていると信じていましたが、現代では、 天災や自然破壊による影響などの特別な場合を 除いては、自然が人の生死に直接影響を及ぼす 例は少ないことは誰もが分かっています。また、 例えば、樹木の多い神社に行き、すがすがしい 気持ちになる理由は、ある種の樹木には 精神を安定させる作用のある物質(香り)が 出ているからだと、私は考えているのですが、 そのように、信仰が人に与える影響も 科学的に証明できることが多いはずです。 それでも、合格祈願、厄払い、えんむすび、 ありとあらゆるお願いをしに、神社に行きます。 日本人は、神道からどのように安心感を得ている のでしょうか。

  • 信仰や精進って自己の為?

    信仰や精進。 此れって教えや教理を大切にし、自己の為(多様でしょうが)ということは直接目的としないと思います。 その自己の為っていうのが人さまざまで、レベルや性格も決して一義的ではないと思います。 でも信仰や精進って反省したり分析すると、自己の為に努力しているように思えてきます。 またどの宗教もご利益やら効益などをうたっています。 人類や自己の至福や幸福の為とか。 或は神とは至福であり、幸福であるという宗教もあります。 *その神たる至福や幸福って何たるかでしょうが。つまり酒や色欲などではないでしょうが。 宗教の信仰や精進って、結局、自己の為なのでしょうか?