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神と信仰者は一対一で向き合わねばならない

  神と信仰者は一対一で向き合うものであり、およそ信仰にあっては神の代理も信仰者の代理人もあってはならないのである。 神と信仰者の間には如何なる仲介者も必要ない。 だから預言者も、祈祷師も、天使も、教会も、牧師も必要ないのである。 唯一信仰者本人だけが神と一対一で向き合うのである。 そうでなければ信仰として成り立たないのではないか。  

質問者が選んだベストアンサー

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noname#214841
noname#214841
回答No.3

>>神と信仰者の間には如何なる仲介者も必要ない。 >>だから預言者も、祈祷師も、天使も、教会も、牧師も必要ないのである。 「牧師」は不要です。 だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。 (新共同訳聖書 マタイ福音書23章8節) 「神父」は不要です。 また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。 (新共同訳聖書 マタイ福音書23章9節)

hitonomichi33
質問者

お礼

  >「牧師」は不要です。 だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。 >「神父」は不要です。 また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。 確かに聖書にはそのよーに書かれているね。 正しい!!!  

その他の回答 (30)

noname#225664
noname#225664
回答No.31

こんにちは 私などは神さまの存在をまず宗教団体から言われて、あぁそうなんだ、しかし解らないけど、本気になってるなあ てなことが信心の始まりですね。未だに神さまの存在感はほぼ無いですが、人間的に弱い?せいか信じる努力はしていますね。自分が良くなるかもしれないと思っている自己中なんでしょうか。 人の道33さんのように、直接神を感じる人でしたら、大衆を見守るような、雰囲気を出せば、おそらく神さまも喜びますよ。

  • michael-m
  • ベストアンサー率50% (2725/5435)
回答No.30

そうだと思うのでしたら、貴方の信仰形態はそれでいいじゃないですか。 そうではないから世界の多くの信仰が成り立っているだけの事です。

回答No.29

君はそのソープランドアルケーで童貞を捨てたか?

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.28

>彼らは神を感じるとは言っていない。 神を信じると言ってるだけである。 「神 感じる」で検索するとゴマっと出て来るよ。 君の言っている内容は「俺だけが神を感じられて、俺ってすげぇ」なんだよね・・・ んん、まぁ、君が其れで良いと言う人生なのだから、其れは其れで別に良いんだよ? 私には。 で、君はとどのつまりはアルケーの神を感じられる唯一の人間で、他の全人類は救われないと。 別に良いんだけど、君一人しか助けられない程度の低脳の神を信じる無能は、何処にも居ないよ。 戦国期に日本での基督教布教が進まなかった理由の一つに、此のロジックの破綻があるんだ。 全知全能の癖に、洗礼を受けていない俺の祖先は助けられないのか?と、イエズス会の報告書に綴られているんだ。 君は社会性を成長させるだけの人間関係を築いてこなかったが為に、自己の承認に自分の存在だけを「無条件に愛してくれる存在」を「外」に求めているんだ。 だから君はあくまで「一対一」を強調するんだ。 君の言うアルケーが他人を助ける事は無いのだよ。 信じない者は助けない。 信じ方が足りなければ助けない。 間違っていれば助けない。 助かりたければ、俺の言う事を理解しろ。 ぼっち仕様の神なんて、根本的に破綻している事くらい気付かなきゃ。 君の都合に合わせた存在は「神」では無く、君の「願望」だよw

noname#214841
noname#214841
回答No.27

「お礼」と「補足」拝見しました。 >>「昼間あるけば人はつまずくことはないが、夜あるけばつまずく。」 >>これが聖書の中で最も重要ってことか? もちろん「あるけ」があるかぎり、最重要事項です。 >>ヨハネ福音書にアルケーが2回出てくることは分かってた。 私の聖書の読みが浅すぎました。 アルケーの法則は、言語学のグラスマンの法則やヴェルナーの法則などとは、格が違ひます。恐れ入りました。 アルケーの御告げは、教会の慣行とは相違があつても、聖書そのものの内容にはかなり近いのではないかと、私は思つてゐます。

回答No.26

一つ正しておく。 君は観念境と言う極楽の様な温泉で、ご指名のアルケーちゃんとチャプチャプしたりチュパチュパしたりする意思は無いのかね。

hitonomichi33
質問者

お礼

  君はジラーチちゃんと一緒にチャプチャプしたりチュパチュパしたいんだろ。 その前にジラーチちゃんに君のV字開脚見せて差し上げなさい。 君の言う観念境と言う極楽の様な温泉はアルケー温泉っていう。 で、そこに行けばアルケーちゃんと一緒にチャプチャプしたりチュパチュパしたりできる。 ピチュピチュしたりもできるよ。 今のところアルケー温泉に入れるのはこのわし一人だけだ。 悔しいか、ひれ伏してV字開脚しろ。      

回答No.25

 ★ (No.21お礼欄) 非思考の庭に漬かる  ☆ 漬かれないから 非思考の庭と言う。  思考に非ずゆえに どうもがいても観念の世界に入浴することはかなわない。意味がない。    また 観念の神を漬けたりこさえたりすることも いっさいかなわぬ。非思考 非思考と何度繰り返せば 内容を理解できるか。  たとえ《神に対して 一対一で向き合う》ということが 表現の問題であらそわないというかたちで 受け容れられたとしても その関係は ヨコの水平的な関係ではないことを知るべきである。それについて きよらかなおそれを持つのが のぞましい。  そうでなければ 人間がつくった思考・想像ないし観念の神だとなる。

回答No.24

「犬も《あるけ》ば棒に当たる」 レベルの話か。 まっ、 《人の道・歩け~教》だっけ、 このレベルの話か。 犬を神と崇め、拝むのがピッタリだわさ!!

hitonomichi33
質問者

お礼

  だから言ったでしょ、聖書ってのは所詮この程度のものなんだよねって。  

回答No.23

あっ、ごめん。 3:14は違うは。 オレの間違い。 3:14に《アルケー》という単語は使われているけれど。 いけない、いけない、 《嘘つき》になるところであった。

hitonomichi33
質問者

お礼

  嘘つきってのは正直者を嘘つき呼ばわりする人間のことをゆー。 分かったか。  

回答No.22

No20のプラポタさんに続きます。 イエスは、 黙示録の中で  「われはアルファにしてオメガ、《アルケー》にしてテロス」   黙示録1:8、3:14、21:6、22:13 と言うておろが!! 「ego eimi alpha kai O 《arche》 kai telos」 えご~ えいみ あるふぁ かい お~ 《あるけ~》 かい てろす 「I am alpha and omega, 《arcke》 and telos」 ~~~~~~ ヨハネ福音書にアルケーが2回出てくることは分かってた。 11:9 イエスは答えられた、「一日には十二時間あるではないか。昼間あるけば、人はつまずくことはない。この世の光を見ているからである。 11:10 しかし、夜あるけば、つまずく。その人のうちに、光がないからである」。 ~~~~~~ 念のため調べてみたが、ここには使われて《い・な・い》!! ウソを吐いては、いけないよ。 ヨハネ福音書では、たぶん9回使われているはず。

hitonomichi33
質問者

お礼

  >念のため調べてみたが、ここには使われて《い・な・い》!! ウソを吐いては、いけないよ。 よく見てみい。 2回使われている。 1回目 → 昼間あるけば 2回目 → 夜あるけば

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