• 締切済み

小説家は何を目的に書くのですか?

Ganymedeの回答

  • Ganymede
  • ベストアンサー率44% (377/839)
回答No.9

ご質問者は「木に縁りて魚を求む」の弊に陥っているかも知れません。魚を求めるなら魚屋さんへいらっしゃるべきでしょう。 (1) 「月の夜が深いように思われる。深さが横向けに遠くへ感じられるのだ。」(川端康成 『山の音』) についてであるが、「この表現のどこが……」を知りたいなら、修辞法一覧のような本を読もう。それがこの場合の魚屋さんだろう。修辞法も勉強(独学も含む)せずに、感性で理解できると思うのは、横着者ではないか。 著者の川端も、東大文学部在学中、海外の名作小説の翻訳を読み耽ったという。彼は英文科に入学したのだが、英語力があまり伸びなくて国文科に転科した。講義には出席していたが、先生から見えないように座高の高い学生の後ろに座り、教科書ではなく翻訳小説を読んだらしい。それがすごい速さで次々に読了していたそうだ(彼のクラスメートの回想による)。 そもそも修辞法とは、古代ギリシャや古代中国などの昔から華々しく発達を続けてきたものであって、川端も西洋文学をたくさん読み勉強して身に付けた。 とは言っても、偉そうに書いてる私は学がないので、具体的に川端の『山の音』の表現が何という修辞法かまでは指摘できないが、「常識に逆らって言って伝える」レトリックだろうと思う。 だいたい、深いといえば闇夜だろうに、月夜が深いとは、これ如何に。少し月明かりがあるほうが、かえって夜の深さが感じられるということだろう。すなわち、「常識に逆らって言って伝える」技法である。 ここで想起されるのは、例えば芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」だ。セミが鳴けばうるさいに決まってるのに、かえって閑かさが感じられたのだった。 この句が詠まれたのは山形藩の山寺で、険しく切り立った岩々の横穴に古い人骨が納められているそうだ。したがって、「セミは今うるさく鳴いているが、その声もあの岩穴に吸い込まれていって、やがて静かになってしまう(亡骸になる)」という詩想だったのかもしれない。 しかし、我々は詩歌を解説付きで鑑賞するとは限らないので、やはり「うるさいセミのおかげで、かえって静かさを感じた」というレトリックの妙を大切に味わいたい。 また、深さといえば鉛直方向なのに、それが横向けに遠くへ感じられると川端がいうのも、これまたレトリックの妙である。いわば「縦のものを横にして」伝えているわけだ。俗にいう「鼻を摘まれても分からない」闇夜だったら、横の広がりも分かるまい。しかし月夜ならば、横方向の遠さに気付いて、かえって夜の深さが身にしみてくるだろう。 以上は、私なりの小理屈に過ぎないが、感性感性と言うひまがあったらちょっとは勉強してみたらどうでっしゃろっちゅう話である。 (2) それにしてもだ、川端文学はなぜ新感覚のレトリックをあれほど駆使したのか。答を求めて川端の精神遍歴をたどろう。自伝的な作品などが、この場合の魚屋である。繰り返し言うが、魚を求めて八百屋などへ行くな、魚屋へ行け。 例えば『十六歳の日記』という作品がある。川端が27歳のとき、伯父の家の蔵を整理していて偶然見つかった、16歳時の日記と伝えられている。 川端は幼少期から肉親を次々に失った。父が死に母が死に、祖母も姉も死んだ。川端少年は祖父と二人暮らしになった。その祖父は白内障で目が見えず、耳も遠く、寝たきりだった。 財産は多少あったらしく、通いのお手伝いさんもいた。しかし、住み込みではないから夜はいなくなる。川端少年が祖父の介護をしなければならない。尿瓶で排尿させる。健常者なら排尿時に爽快感もあるが、祖父は排尿のたびに強い痛みを訴える。そのうめき声。祖父は死期が迫っていた。 鋭い頭脳を持っていた川端は、こうして、早くから人生のはかなさを悟った。私たち凡人は、人生というものが確かに存在して、それを飾るのが文学などで、文章のレトリックなどふわふわしたものだと思っている。しかし、川端は人生よりも文章に命を懸けた。文章の美こそが命であり、人生ははかない。そんな思想の川端が、作品をほとんど書かなくなったのちに自殺したのも、避けられない運命だったと思われる。確かに、川端は死んでも、川端文学は死なない。 (3) 川端以外の小説家は何を言いたくて小説を書くか。それを知るには、それぞれの小説家の遍歴をたどったり、文学史を調べたり、文芸理論を勉強したりしてください。それがこの場合の魚屋さんだと思う。 芥川龍之介 『澄江堂雑記』(青空文庫) http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/3745_27318.html 〔引用開始〕 十五 比喩  メタフオアとかシミリイとかに文章を作る人の苦労するのは遠い西洋のことである。我我は皆せち辛い現代の日本に育つてゐる。さう云ふことに苦労するのは勿論、兎に角意味を正確に伝へる文章を作る余裕さへない。しかしふと目に止まつた西洋人の比喩の美しさを愛する心だけは残つてゐる。 「ツインガレラの顔は脂粉に荒らされてゐる。しかしその皮膚の下には薄氷(うすらひ)の下の水のやうに何かがまだかすかに仄めいてゐる。」  これは Wassermann の書いた売笑婦ツインガレラの肖像である。僕の訳文は拙いのに違ひない。けれどもむかし Guys の描いた、優しい売笑婦の面影はありありと原文に見えるやうである。 〔引用終り〕

rsemq819nl
質問者

補足

修辞法を勉強しなければ、彼の文章を理解できないとは、何とまた厄介な文章でしょう。修辞法を体得していなければ彼の文章が駄文に見え、体得していたら素晴らしい文章に見えるということですね。しかし、一応この文章の修辞法的説明を貴方から聞いたんですが、それでも尚、駄文にしか見えません。修辞法を知っても知らなくても、結果は同じですね。 西洋文学を読んだということと、彼の修辞法を結び付けて素晴らしいと結論されていますが、西洋文学を読む人はいっぱいいます。私の周りには2人いました。大学の4年間で日本語に翻訳されている欧米の文学哲学書を全て読んだ素晴らしい先輩がいました。彼の文章会話は明晰で川端とは全く違いますね。西欧文学をどっさり読んだことが、彼の文章が素晴らしいことの証明にはなりません。直接の関係はありません。 >>ここで想起されるのは、例えば芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」だ。 同じレトリックとのことですが、芭蕉はストレートで川端のようなもって回った言い方はしませんよ。「荒海や佐渡に横たふ天の川」勇壮でストレートです。川端の自然描写はゴテゴテとしています。 静寂に身を置くと、耳の奥でキ~ンかシ~ンかそういう音がするのを経験します。そういう経験が誰でもあるから、この句は修辞法ではなく、ストレートに読めは誰でもスッと入って来て理解できます。川端のものとは似て非なるものです。 芥川の文章も、時々こ難しいものがありますが、何について書いているものでも、川端のようにヘンなものはありません。ちゃんと理屈は通っています。 多くの作家は、作品を読めばその意図が理解できるのに、川端に限り、小説家の遍歴をたどったり、文学史を調べたり、文芸理論を勉強したりしなければ分からないとは何と厄介な作家なんでしょう。 ノーベル賞受賞が決定した翌日に、伊藤整と三島由紀夫と川端康成が談笑していました。今でもYouTubeで見ることができます。両人は川端にべた惚れで、アバタもエクボ状態になっていて、客観的な意見は聞けないなと思いました。川端の作品は「構成」のないのが特徴だといって褒めておきながら、その直後に、この作品は構成がしっかりしていると、また褒め、要するに、川端が何をやろうが全て褒めるのです。これを私は「アバタもエクボ状態」というのですが、貴方もその傾向があるように見えます。 奥野健男もそうですが、貴方も彼が自殺したとした方が、彼の人生を美化できるからそうしている。しかし、私がみるところ、実際は事故死の可能性の方が強い。老人がストーブの扱い方をよく知らずにガスが充満して死んでしまった。これでは余りに平凡過ぎてドラマがない。彼を素晴らしいと褒める人たちはどうしても自殺説を取りたがる。 >>(2) それにしてもだ、川端文学はなぜ新感覚のレトリックをあれほど駆使したのか。答を求めて川端の精神遍歴をたどろう。自伝的な作品などが、この場合の魚屋である。繰り返し言うが、魚を求めて八百屋などへ行くな、魚屋へ行け。 例えば『十六歳の日記』という作品がある。川端が27歳のとき、伯父の家の蔵を整理していて偶然見つかった、16歳時の日記と伝えられている。 貴殿は日記というものに真実が書かれていると無条件に信じているようだが、日記にすら人は自分をよく見せるための細工をすることを知らないようですね。自伝というものを丹念に研究して、その人間の全てを知ったような錯覚をしている研究者がいるが、滑稽だ。宮城音弥が漱石の妻の書いたものを読んで漱石を分裂病患者と見破ったが、私の手法もそうしたい。川端は京都に接する大阪の最北部出身でそこで18歳まで育った。人は誰でも育った土地の影響を100%受ける。村上春樹も似たような環境だ。私は彼のエルサレム演説を読んで、そのもったいぶった言い方に反吐が出たが、川端も彼と同類なのだ。俗世間の成功を求め、"格好いいもの"(川端にとってはこれが、美しいものに置き換えられている)を追い求める。 >>川端は、こうして、早くから人生のはかなさを悟った。 はかなさを悟った人間が、何故アレほどノーベル賞を有り難がるのでしょうか?合いませんね。YouTubeを見たら分かります。俗世間の賞を非常に有り難がっていますよ。ペンクラブの会長を勤めたり、彼は俗世間とのつながりを非常に喜んで生きた人間だと思います。漱石ならノーベル賞も辞退したと思いますが、彼は喜んで受け取りました。 >>文章の美こそが命であり、人生ははかない。 もったいぶった人間はこういう類の文章が大好きです。こういう風に書くから、当然川端の文章には美があるに違いないと思ってしまう。しかし実際に点検すると寧ろ逆であることがわかる。日本人の基本的性格はもったいぶったことが大好きな人種だから、川端のもったいぶりが見えないのだろう。しかし、私には見える。

関連するQ&A

  • 作家 あるいは芸術家の自殺について・・・

    芥川龍之介、太宰治、川端康成、ヘミングウェイ等は自殺したと言うことですが、彼らの作品の流れと、例えば、病気等で亡くなった夏目漱石らの作品の流れについての大きな相違点というのはあるのでしょうか? 私個人としては、自殺した人の傾向は一つのことにとらわれ過ぎている傾向がある←いい、悪いということでなく。自殺してない人は多角的な面から物事を捉え、客観的な物事の捉え方をすると感じてます。

  • 昔の小説

    昔の小説家、夏目漱石、森鴎外、芥川龍之介、谷崎潤一郎、志賀直哉等の作品で、読んで本当に面白い作品って何かありますか、教えてください。

  • お勧めの小説を教えて下さい。

    お勧めの小説を教えて下さい。 芥川龍之介の『秋』や、夏目漱石の『こころ』のような、 日本の典型的な三角関係であるとか、 森鴎外の『舞姫』みたいな感じの結ばれることのない恋愛小説が読みたいのですが、 彼らの時代のそういった作品で何かお勧めはありますでしょうか?

  • 読みやすい有名文学作品は?

    最近、読書の面白さがわかってきた40代男性です。 教科書にでてくるような川端康成や芥川龍之介などの有名作品を読みたいと思っています。 しかし、何となく難しそうでひいてしまいます。 読みやすい本をご教授お願いします。 (海外の作品でも構いません)

  • 純文学の面白さがわかりません

    純文学の面白さが理解できません、 「どこが面白いのですか?」などと野暮な事を聞くつもりはありません、 ただ、多くの人々に知られている 「夏目漱石」「川端康成」「芥川龍之介」etc... そういった物を理解できないのはつまらないのです、 昔と今ではセンスが違うのかもしれませんが、 できることなら面白く読んでみたいものです。 同じような経験のある方、もしくはこういった文学作品を読みなれている方、アドバイスをいただけたら幸いです。

  • 読書感想文

    高2です 夏休み課題に読書感想文が3冊分あり (1)夏目漱石、森鴎外の作品から1つ (2)太宰治、芥川龍之介、三島由紀夫、川端康成、開高健、大江健三郎、宮沢賢治、志賀直哉の作品から1つ (3)SF、漫画、推理小説以外から1つ の計三冊の読書感想文を1冊400字で書かないといけません なにかオススメの作品はありますか?

  • 明治の文豪について質問です。

    学校でも習う芥川龍之介や太宰治や川端康成。 明治の文豪が現在の芥川賞や直木賞などに応募したら賞をもらえるとおもいますか? また、もらえるとしたらどの作品でどの賞に入選すると思いますか?

  • 「村上春樹」って?

    「村上春樹」の小説には全く無知です。文学は純文学で夏目漱石・芥川龍之介・川端康成・三島由紀夫あたりで止まっています。 現代作家で特に「村上春樹」の名はよく聞きますが、最初「角川春樹」と勘違いしていました。「村上春樹」の小説の位置づけと申しますか、文学史ではどのような位置にあるのでしょうか?まず、彼は純文学の小説家ですか? 自分で調べろと言われそうですが、そこまでのエネルギーがありませんので、お教え願いませんでしょうか?

  • 日本文学の超一流の文豪をお教えください

     日本語を勉強中の中国人です。今日中国のツイッターである中国の作家は明治維新以降現在までに、日本文学の超一流の文豪として、夏目漱石、谷崎潤一郎、芥川龍之介、川端康成、太宰治、三島由紀夫の名が挙げられています。日本の皆様はいかがお考えでしょうか。  また、質問文に不自然な表現がありましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

  • 漱石と芥川

    夏目漱石と芥川龍之介は師匠と弟子の関係でしたよね?そこで、漱石が芥川の作品のどのようなところを褒めていたのか、そして、芥川は漱石の作品(漱石本人でも結構です)のどのようなところを尊敬していたのかを知りたいでんです。あと、漱石の作品と芥川の作品の違いも教えてください。お願いします。