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哲学の本

alterd2001の回答

回答No.2

幼稚とは思いません。 そのような視点は色んな哲学者も持っています。 ただ、私にとってはウィトゲンシュタインの「独我論」的アプローチが 最もインパクトがありました。 彼の言葉で印象に残っているものを列記しますと 「私が本当に言わんとすることを決して理解してはならない事が他者の本質である」 「私の言語の限界が私の世界の限界である」 「自我は世界に含まれない、それは世界の限界である」 「世界の意味は世界の外部にある」 「言語ゲームをつらぬく本質など存在しない 家族が、似ている別々の点によりゆるくつながっているような家族的類似があるだけである」 等です。 因みに「ウィトゲンシュタイン入門」永井均(ちくま新書)が分かり易いです。

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