• ベストアンサー

真の宗教と真の科学

日比野 暉彦(@bragelonne)の回答

回答No.4

 こんにちは。  哲学は 次のように区別して捉えると考えます。   信仰: 個人の主観内面にのみ生きる。非思考である。   宗教: 信仰から出たもの。思考の分野に降りて来た。      信仰にあって得られた観想(ヒラメキ)について      その内容を 経験合理性で思考し得て理解しうるか     たちに表現したものを オシエとする。      しばしば このオシエを守るべき教義・規範とし     て 組織をつくりその内外にも けっきょく《信仰》     をではなく 倫理規範などのオシエたる思想を広める。         科学: 経験合理性にどこまでももとづき世界を認識する      作業。   文学・芸術: 《オシエ》とすることはないが 世界認識      を 信仰や宗教や思想や科学などなどをすべて自由      に捉えまた交えて 想像力のかぎりで加工をもした      りして 提示する。手段は ことばに限らない。     *    *    *  エワという女が 光も曲がることに気づいたとか。わが心にちょっと逆らってみようかと思ったとか。  その前には 自分の感じや思いをそのまま表わしていたかも。夫のアダムに逆らう場合にも わが思いをそのまま表出していたから 言ってみればまだまっすぐであった。      言いかえると 言葉は 人が物心のつくにつれて わが心・わが思いをそのまま表わすとは限らないものだと知る。もっと早くいえば ひとはウソをつくことができるし 実際に つくことがある。そういう意味でも 表現は自由なのだ。と知った。  このことを やがてエワだけではなくアダムも知ったし そういう振る舞いにそれぞれ自由に及ぶこととなった。    *  ひとは 言語による表現をもって意思疎通を図る。その必要が現われたとも言い得る。その言葉の海を航くとき 大きなウソ・イツワリという嵐に遭い 難破することも生じ得る。  こうなると ひとは自由であろうと望む。そのときには この自由あるいは人の自由意志を擁護したいと考えるならば  たとえば《われ欺かれるなら われ有り》という考えをいだくようになる。これが 《哲学》である。  人が思惟をつうじて哲学を生んだ。――世界を知り 世界を変えることをも考える行為である。      《われあやまつなら われ有り》と堂々と宣言する。あやまちに気づいたなら われに還る。そこには 生まれつきそなわった自然本性の能力がある。そこには 自由意志とその自由がある。《われあり》なのだ。  したがって 表現の自由は そこに同時に 表現した内容についての答責性を帯びるものだという自戒を持たせた。と同時にその責任についての自覚が芽生え これが持たれた。自由と責任というもんだいである。      このとき もし哲学をもう一歩伸ばすなら――超哲学ないし超経験思考として――この自由を アートマン(霊我)ともブッダター(仏性)ともプネウマ(神の霊)とも言った。  《責任をともなう自由》が人には生まれつき自然本性としてそなわるということであれば その自然本性には 人間のチカラを超えた何ものかのハタラキがあるに違いないと見た。これは 思惟を超えて・という意味は あたかも哲学を超えて わが心に《非思考の庭》を捉えることにまで行き着く。思考に非ず なのに そこに何かチカラのハタラキがあるのではないかと。これが 《信仰》と呼ばれる。  アートマンあるいは仏性があらゆるものに宿るであるとか ひとには 神の霊が宿るといった見方である。      この個人の信仰を いわゆる観想・瞑想において それは思考に非ずであるにもかかわらず 人間の言葉で思考の次元に置きかえて言い表わすことが起こる。    神の霊の宿ると言われる身と心において その自由に従っている   ならば――つまりは へそを曲げウソをつくのではあるが これを   あやまちとして気づくときその自由に留まるならば―― ひとは    ひとを殺さない。ひとを殺すこともなければ むさぼることも裏切   ることもなかろう。  といった命題(判断)を得る。  この命題を どう思ったか 《殺すなかれ・むさぼるなかれ・姦淫するなかれ》という戒律としてまた道徳として抱き おのが心にやどる神の霊に代えて崇拝するやからが現われる。  《わが心の内なる非思考の庭》の問題ではなくそこから離れ 戒律や道徳としてその《人間の言葉》に代えた。つまりそのときしかもこれを神のおきて(法)として 説き始めた。これが オシエであり 《宗教》である。     *  宗教は 一般に 集団をつくりその集団の振る舞いにかんする規則をもこしらえ この倫理規範と組織運営上の規則という物指しで人間の自由を捌(さば)こうと言うのだ。  やがてこれが権威とさらに権力をも持つようになると――つまり それにあざむかれて従う阿呆な人びとがいるということであるが(われ欺かれるなら われ有り)―― 人間が人間を勝手に裁くというあやまちを繰り広げるようになる。  宗教は 早く言えば 個人の信仰の自殺行為である。そのセミの抜け殻である。自由から出発し 自由を問い求めて来たひとつの結果が このオシエをつうじて 何ものか上に立つチカラによってその自由がおさえつけられるということになった。  非思考という信仰にある自由が 倫理思想を生んだ。それを 規範としたところで そのオシエ経由による自由でしか無くなった。     *  《科学》は 哲学をさらに詳しく問い求めたものである。  それでも哲学と分けるのは たとえば人間の社会について・そして中でも殊に経済活動については 或る種の仕方でその活動領域として分立しうると考えられるからである。  あるいは だれの思考や行為であるかにかかわらず ひとしく認識しうるモノ・コトの世界がそれとしてあるとすれば この世界をやはり分立させそれに対しては 自然科学という領域を 設定している。  《芸術》は これらの定義や分野の設定などなどをすべて取り払ってまったく自由に表現の自由を追求する。  そのような人間の自己表出および自己表現なる行為である。  ゆえに手段は 言葉に限らない。哲学に通じる人間の真実――あるいは 稀には科学の問い求める経験的な世界の真実――が描かれていると人が感じ得るなら よいものだと言われる。     *  このようにして 世界のすべて・歴史上の人間のあらゆるいとなみについて考えこれを 認識し整理しておく仕事が 哲学である。つねに より妥当性のある認識をもとめてその仕事はつづきます。  ちなみに 哲学はこのようにしてあらゆるものごとを視野におさめ 想像上においても論理的に考え得るあらゆる可能性について考え尽くすことをもおこないますが このとき その時代やその社会に視点を絞り込む場合があります。  それは そのいま・その場(社会)で必要有益な事柄に集中して 認識をおこなうと同時にさらにはそこから問題を取り上げそれについての取り扱いを考えるものでありこれは 《思想》と呼ばれます。  もっとも思想も 哲学にもとづくものですから それほどの違いはありません。

関連するQ&A

  • 科学と宗教はどちらの方が高次元ですか?

    科学と宗教はどちらの方が高次元ですか? 科学があっての宗教なのか、宗教あっての科学なのか? どちらが基礎となるベースとなっている のでしょう?

  • 科学=邪教?

    宗教の側から見て「科学」=「邪教」である、という話しを聞いたことがあります。理由は欲望を際限なく増幅させ、満ち足りるということができないから…だったと思います。 私はその言葉を否定はできないと思うのですが、別に科学を否定する気もありません。皆さんはどう思いますか?ご意見を聞かせてください。 また、「科学」=「邪教」という言葉を論じているのは「~教」の立場だ!というのをわかればそれもお願いします。 できれば宗教に対する偏見のない方の回答をお待ちしております。

  • 現代では、宗教は科学をどのように捉えているのか

    ガリレオの地動説や今でも議論の続いているダーウィンの進化論など、 宗教と科学は度々対立の歴史を繰り返してきました。 そこで以前から疑問だったのですが、 現代では宗教は科学をどのように捉えているのでしょうか? どの宗教でも構いませんが、できればキリスト教、イスラム教、仏教のいずれかまたは全てについて教えていただきたいです。 例えば、世界は神が創造したと固く信じている聖職者でさえ 現在の世の中ではテクノロジーの恩恵の上に生きているわけです。 そしてテクノロジノーの土台には、 神の存在を含まないどころか宇宙はインフレーションやビッグバンで創造されたと主張する科学があるわけです。 過去にも現在にも神の存在を信じている科学者は大勢いましたが、 依然として科学理論は宗教的な世界観とは多くの点で対立しているはずです。 そのような土台を持つテクノロジーの恩恵をあやかることに聖職者や信者の方々は抵抗を感じないのでしょうか? また、以下の2chからの引用記事では 学校の理科のテストで"The earth was created by ...?"という設問に対して、 "Big Bang"と回答した生徒がバツをつけられています。 そして正解は"God"だと書かれています。 http://blog.livedoor.jp/kinisoku/archives/3615328.html この出来事に対するイギリスの牧師の反応は、 この採点をした教師を批判するものでした。 私のような宗教に関してほとんど無知のものからすれば、 むしろ牧師は教師をほめたたえるのが自然ではないかと感じます。 なぜ聖職者たちは神の存在を無視した科学と徹底的に戦おうとしないのでしょうか? 自分たちの聖典や信じる神が絶対だと思うのならば、 堂々と科学者たちと論戦をすればよいのではないでしょうか?

  • 宗教はあ このまま科学の前にやぶれさり衰退して

    いくのでしょうかあ? 釈迦も世界の中心に須弥山がありなどいう 明らかに世界を平面と認識している教えをいってましたし(世界は球体なので中心などはない) キリスト教の地球は平面だといっていました 所詮宗教は科学以前の無知な古代人によって作られたものにすぎません 神様がいるかいないかはしりませんけど このままでは宗教は滅びていくと思います みなさんはどうおもいますかあ?

  • 疑似科学の境界線って?

    疑似科学、トンでも科学といわれるものが 世の中には多々あることは認めています。 支離滅裂な理論や、商売のための胡散臭いデッチ上げ情報なんかも確かに氾濫しています。 私も趣味の範囲で似非科学、トンでも科学批判の本(カール・セーガンの著作など)を読んだりしてますが、最先端物理学の本なども好んで読んでいます。 最先端物理学/宇宙論の理論で注目を集めているのが、 11次元のエネルギーのひもが宇宙をつくるという「超ひも理論」や、宇宙のすべてのものは微細なエネルギーの海「量子真空」でつながっているといった理論や 私たちの世界はすべて、時空を超越したレベルからの投影であるという「ホログラフィック・ユニバース」 等なのですが、これらは、もちろん実験、検証したりできません。 が、これらの理論を唱えている人たちは一流の科学者、天才科学者と称されている人たちなのです。 また、常識を覆すような論文が権威ある論文雑誌「ネイチャー」などにも掲載されているようです。 選考を通ったってことは、それなりに一目おかれているというわけですよね? 常識を覆すような最先端物理学の理論は「疑似科学・トンでも科学」には入らないのでしょうか? それとも「疑似科学・トンでも科学」批判をしている人はニュートン物理学までの知識で科学を語っているのでしょうか? 「疑似科学」の境界線がいま一つわかりません。。 (私は別に似非科学、トンデモ科学を擁護しようと思っているわけではありません。純粋に質問してみたいだけです。)

  • 本当の宗教

    本当の宗教ってありますか? 昨今ではさまざまな宗教が「自分の宗教こそが真理を語っている。」 「私たちの宗教だけが幸せになる道を知っている。」 などと言っていますね。 でも、真理を扱っている宗教ってありますかね?僕は宗教は多かれ少なかれ、証明不可能な、こう言っては大げさかもしれませんが荒唐無稽な事を言っているように思います。例えば霊の存在、地獄の責め苦、輪廻転生などです。これらは科学的には立証されていませんが、宗教は公然と教理として教えています。 到底信じ得ないことも、その宗教に入るなら信じなくてはいけない。だから信仰なんでしょうか?僕はサイエントロジストですから科学を信じています。しかし科学では心の平安は得られませんでした。そこで宗教に希望があるのではと思い調べましたが、どの宗教も不確かな事を信じることを要求してきます。 みなさんは、なんらかの宗教に入っていて幸せだと感じていますか?その宗教は荒唐無稽な事は教えていませんか?そもそも完全な宗教を求めようとすること自体が間違いなのでしょうか? 散文的になってしまいましたが、回答いただけるとありがたいです。

  • 宗教について

    多くの宗教は信仰をして、人間性を高めたり、愛や思いやりの心を高めるという事をしていますよね。そういった事は尊い事だと思いますし、素晴らしいと思います。でも、信仰の対象となる特定の存在とか、波動や何次元がどうのだとか、生まれ変わりだとか、霊だとか、そういうのなくていいと思うんです。人間性を高め、愛情深くなり、思いやりの心を持つという事を目指しつつ、上記のような霊とか波動とか非科学的な事を取り入れていない宗教のような(宗教以外でも)団体は存在しないのでしょうか?ご存知でしたら教えて下さい。宜しくお願いします。

  • 宗教改革は可能か?

    現代に置いても宗教の持つ力は大きいのですが 宗教はその宗旨を時代に適応させようとしません いい事も言ってますが時代遅れな事も旧態依然としています。 科学、宗教、哲学がその役割を果たさないと世界は良くなりません。 科学の悪用を無くし 宗教の迷妄を無くし 哲学の硬直化を無くす為に まずが宗教改革や哲学改革が必要だと思うのですが 宗教改革、哲学改革は出来るでしょうか?

  • 宗教について教えて下さい。

    宗教について教えて下さい。 世界中には様々な宗教がありますよね、 なんで人間には宗教が必要なんでしょうか? 一応、我が家も一般的な宗派はありますが、 個人的には「無宗教」です。 宗教を否定してるわけではなく、 人にはなぜ宗教が必要なんでしょうか? たまにかんたんな宗教の教えの本とか読むと「なるほど~、うまいこというなぁ~」とか「おもしろいなぁ~」とか思うのですが、 私の印象としては「人が人としての道」の様なものを、はずさずに生きてくよう、 教えてる印象があります。 しかし、昔に宗教のせいで起きた戦争がありましたよね。 宗教というものがよく分からないから私は「無宗教」なのかもしれません。 分かりやすく説明すると、「宗教」とはなんでしょうか? そして世界中には様々な宗教が存在してますよね。 皆、同じ人間なのに、生まれた国、または家柄で宗派が変わってきます。生き方まで変えてしまいます。 決して否定してる訳ではなく、 皆、同じ人間なのに、なぜ世界中、または日本だけでも沢山の宗教が存在するのでしょうか? 「人、皆、それぞれ」だけではなく、遺伝子的に生まれた時から絶対的な「何か」を本能的に必要としているのでしょうか? デリケートな内容の質問ではありますが、ずっーーーーーと疑問に思っていました。 何かの宗派の方でも、無宗教の方でも、どうぞよろしくお願い致しますm(_ _)m。

  • モルモン教が唯一真の教会ってどういうこと?

     先日、私の友達が道でモルモン教の宣教師に声をかけられました。宣教師は、”私はモルモン教会が唯一真の教会だと知っている”と言ったそうです。彼は”そんなことあるもんか!知っているわけないだろう?不可能だ!”と反論しました。この友達はイギリス人です。  私たち人間は不完全ですよね? それなのに、なぜ不完全の人間が  唯一真の教えだと”知る”ことが出来るのでしょう?もし、ある人が何十年も世界をまわり、あらゆる宗教を経験してきたとしても、この人はやはり不完全です。  唯一真だと信じている  というのならわかります。信仰は自由ですから。 それに、その人にとっては唯一真、どの教えよりも自分には正しいと思えるのかもしれません。 しかし、これが全ての人にとって 唯一真の教えだ、と言い切るのは 不可能ではないでしょうか?  それは知っているのではなく、自分の気持ちを知っているのだと間違えているのでは? 私はマインドコントロールで言わされているだけだと思います。私もそうでしたから。 皆さんはどう思いますか?現役モルモン、そうでない人、意見をお願いします。