童謡「かごめかごめ」の信憑性について
- 童謡「かごめかごめ」は、本能寺の変の真犯人を示す暗号であるという説があります。歌詞の解釈から、犯人は柴田勝家である可能性が指摘されています。
- しかし、この説は断片的な情報や独自の解釈に基づいており、確たる証拠が存在しないため、信憑性には疑問が残ります。
- 童謡は歌い継がれることで伝承されており、その背景や意味が変化しながら伝わってきた可能性もあるため、一概に信憑性を判断することは難しいでしょう。
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かごめかごめ が本能寺の変の黒幕の信憑性
童謡に「かごめかごめ」ってのがあります あれが何と本能寺の変の真犯人を示す暗号だったと前に何かで見た記憶があります。 うろ覚えなんですが かごめ=籠の中の妾(つまり女って意味) ・冒頭の「かごめかごめ」って歌詞は「この妾さんが語るには」と言うことで ・籠の中の鳥はいついつ出会う=信長の子飼いの武将が会って謀議を重ねる ・夜明けの晩=夜明けは6月2日未明 晩=最後の夜 つまり信長にとって最後の夜 ・鶴と亀が統べった=鶴は光秀で亀は瓶割り柴田と呼ばれた柴田勝家の事で 統べるは天下を統一するという意味 ・後ろの正面=本能事の変の実行犯 光秀の本国丹波から見て背後の細川氏 その正面=北陸の柴田? と言うことは犯人は柴田勝家って事? なんせうろ覚えなのではっきり合ってるか分かりませんが この歌の信憑性ってどうなのでしょうか?
- あずき なな(@azuki-7)
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こんな解釈もあるようです。 つるとかめがすべった ⇒敦賀と亀岡を統べった。 敦賀は光秀ゆかりの地です。 光秀の祖先は駿河守を名乗ったことがあるので、つるがはするが? 丹波亀岡は光秀の領地です。 うしろのしょうめんだぁれ ⇒明智光秀が生まれたとされる美濃可児から日光の方向を向くと、「後ろの正面」はちょうど、日本で唯一、明智光秀の肖像画を所蔵している和泉の本徳寺があります。 つまり光秀そのもののことを唄ったという解釈のようです。 天海が造らせた日光東照宮の三神庫と呼ばれる建築物群や奥院に、鶴と亀が対になって飾られている所があります。 これと光秀が生き延びて天海になったという話を合わせて、天海坊主は一体誰だ、と言っている、という説もあるようです。 この唄は、言葉使いから見て比較的新しいものと考えられています。 文字資料としては文化文政期のものが残っています。 当時の江戸っ子は幕府をからかって楽しんでいましたから、光秀の黒幕よりも、「なんだいあの天海てぇ坊主は」というほうが楽しいと思います。 「とうりゃんせ」もなにかいろいろいわくのある唄のようですが御存知ありませんか?
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- kimari14
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うろ覚えのわりには 。。。。。 しかし、暇そうだね~ ゲームのし過ぎか 飛躍好きなのかね~ 柴田まで連れてきて 本能寺かよ 誰も解明のしようもないものだから なんでもありだけど こんな都市伝説とくっけて つまらんわ もっと、地に足の着いた どうやって 今日を生き抜くか に必死だった?昔の人の 息使いを 探し出す? なんかそんな 質問してよ 参考に一つ 加子地(今でいう不動産売買、戦国期の地侍たちのサイドビジネス) おもしろいよ。桶狭間のとき 西三河には尾張の地侍が銭で売買取得した不動産が結構あった。 大河には出てこないものだけどね
お礼
夜働いてるから昼間暇なの ニートのあなたと一緒です 笑
- chiha2525
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かごめ、って『かごむ』の命令形ですよね? と、ここで調べたら、かごむは方言らしく、かがむの変化したものらしい。でも方言は京言葉からだから、昔は中央の言葉だったのかもしれない。で、かごめかごめ、で真ん中のかごんで居る人の、その姿勢を強要しているだけですよね。 不思議な歌と言われることが多いけど、遊びをそのまま、ちょっとの呪文を加えて歌っているだけですよ。
お礼
自分も何かでみてうっすら覚えてるだけなので よく意味とかも分かりません 確かに昔の歌なので色んな意味があると思います まぁ 後世にどうにでもこじつけできますものね
- rabirabi88
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「鶴と亀が滑った」の言葉が着いたのが、明治以降(早くても江戸後期)だから時系列的に本能寺の変とは合わないと思う。
お礼
ありがとうございました
- jun-tsuboi
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こんにちは。 柴田勝家はかつて織田信行の側近でした。 天下を目指す信長と家督を目指す信行との器の違いに 勝家は信長に忠誠を誓います。 勝家の線は薄いと思います。
お礼
ありがとうございました
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遅くなりました ありがとうございました