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今夢を見ているかを知ることは可能ですか?

こんにちは。A Dinner With Andreという映画を見てから、この疑問が浮かびました。 私は哲学や思想に全く詳しくないので、ご教示願えると有り難いです。 私、もしくはあなたは、今夢を見ているかどうかを立証できることはできますか?即ち、今体感している現実は夢ではないということを証明できますか? もし客観的に知ることができないのであれば、生きる意味や理由を人生で見いだすことはできても、それは幻想であるように思えます。人々に生きる義務/完全な理由が無いのだとしたら、私達はなぜ生きているのでしょうか?

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回答No.11

私が夢を見ているときに、これは夢ではないかと確かめることはできませんが、覚醒しているときは頬をつねって痛ければ夢ではないと分かります。 なにが現実でなにが現実でないかの分かれ目は感覚です。 デカルトは感覚は欺くことがあり、錯覚もあるから確実性がないと言いましたが、科学・物理学でも感覚で検証されたら、それが底であって、それ以上さかのぼることはありません。 つまり真理とは感覚で検証されることです。 もし、それが夢でないことを証明できますか、と問われたら、それを証明することはできません。 もし、それが証明されたとしても、今度はその証明がなぜ証明になるのかが問われ、証明の証明を持ち出さねばならず、さらに証明の証明は、証明の証明の証明が必要になるでしょう。 無限遡行に陥るのが避けられません。 無限遡行に陥るのが嫌だったら、感覚で確かめられることをもってそれ以上さかのぼれない底と考えるしかありません。 しかし、証明できないからと言って、生きる意味や理由を幻想だと断定することはできません。 もともと世界が現実に存在するとか存在しないとかとは無関係に、生きる意味とか理由は自分で設定するものです。 自分で生きる意味を考えてそれを生きることが生きる意味だし、自分で生きる理由を考えてそれを生きることが生きる理由なんだし、世界が客観的にどうあるかとは無関係です。 たとえ世界の存在が幻想であったにしても、私は私で生きてゆくし、生きる理由も自分で見つけるでしょうし、意味も見つけるでしょう。 私がなぜ生きているかと言えば、私が生きる理由や意味を自分で設定してそれを精一杯生きとおすことが私の人生の意味だと思うからです。 世界が客観的にどうあるかとは無関係です。

skellerklunch
質問者

お礼

皆さん、明確で分かりやすい回答を有り難うございました。

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その他の回答 (10)

回答No.10

可能です。 生きる意味、生きる価値、 止め処なく溢れ出てきます。 人間の素晴らしさ、 人間の美しさが、 よくよく観えてきます。

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  • kurinal
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回答No.9

ほほう。 夢の中でも、「主張」したりすることは、可能なんでしょうね。

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noname#210533
noname#210533
回答No.8

よく考えれば自明の理ですが、現実が夢かどうかは 大した問題ではありません。 つまり、一生覚めない夢ならば、それについて否定的に 考えることは、ありがちな現実否定、現実逃避の感情に 基づくものでしかないからです。 月曜日の朝、眠くて起きるのが嫌だ。 何で今が月曜日の 朝なんだ?、ようするにその次元の不満でしかない訳です。 哲学的な命題の皮をかぶった思考ですが、現実には 布団をかぶっている訳です。 出たくない。ああいやだ、と。 さて、そういう極めて個人的な厭世感を取り外して純粋に 件のご質問の最終段について見解を述べさせて頂くと、 現実が覚めない夢であるかどうかが本質的な問題なの ではなくて、自分の思い通りにならない状況の中で、 世界の中心として君臨し得ない自分という存在の あやふやさ、私って天井天下唯我独尊!と思いたいのに 全然、私って特別じゃないじゃん、凄くないじゃん、 こんなの生きてる感じがしないよ嫌だ嫌だ、という 「駄々」である、ということが見えて来てしまいます。 重要なのは、「私こそが絶対者」という幼い心理を 超えて、自分は他人と同じ、無数の個人の一人でしか ないんだな、私が消えようがどうしようが、世界は 何一つ変わらないんだな、夢だろうと現実だろうと。 ということをちゃんと理解できるかどうかがまず、 第一段階の成人式だと思うのです。 自分に何の値打もないということをドスンと理解 する、というのは結構やる気をなくすことでもある。 つまらない。何をしても意味ないじゃん。 言葉は悪いけれど、バカはそこで自暴自棄に なります。 でも、もう少し他人のことをちゃんと考えられる 人なら。 「自分自身としてはつまらない存在だけど、 誰かのためになら何か出来る。私のような 小さな存在でも、集まれば誰かに、社会に、 何かしてあげられる。」 という無私、他利の考え方になって行きます。 自分という存在がつまらぬものなら、この命、 誰かのために役立てよう、という訳です。 そこに至っては、この世界が現実なのか 覚めない夢なのかなど、大した問題では ないことに気が付きます。 本当の夢でさえ、他人は自分の思い通りになど ならないものです。 他人だけでなく、この世界自体が自分の 思い通りになどならない。 それどころか、自分自身さえ、思い通りに ならない。 そのことに足掻いてのたうちまわって 疲れ果てて、なあんだ、私は何もできない ちっぽけなんだ、と心から理解出来た時。 自分と同じ心と行き場のない気持ちを抱えて 彷徨する他人の気持ちが良く見えてきます。 同時に、社会のヒエラルキーの上下優劣とは 全く異なる価値観で、「判っている人」とそうで ない人が見分けられるようになって行きます。 自分を捨てて他人を識ることが出来る、という ことは、そういうことだと思うのです。 だから、あなたのご質問には有意な答えは 存在しません。 ま、禅問答の一つではありますが、ご質問の 陰に隠されている本当のお問い合わせは、 思い通りにならないあなたご自身の欲望充足が 中々得られないいらだちをどうするか、という 極めて個人的心理のご相談であるだろうな、と いうのが私の見解です。 個人の欲求充足を、絶対的な自己という存在の 証明だ、と錯覚するのは、本来の矮小極まりない 「生き物の個体」でしかない、という事実を何とか 無視して素晴らしい超人的な人生を謳歌したいと 欲する、よく有りがちな「超人願望」の普遍的な 不満の裏返し。 それを超えて、自分を大したものだと思う気持ちを 捨ててしまうことが、あなたがいる「閉じられた」 ダンジョンのワンステージを脱出するカギとなる。 生命の個体としてのあなたに、生きる意義など ありません。 それはあなただけでなく、幾億の民衆がみんな そうです。 もちろん、私も含めて、です。 そして、そんなことはどうでもいいことです。 身近な人々と誠実に愛し合い、すべきことをし、 人並に成功も失敗も重ねて禍福をあざない、 ただ、生きて、そして消えていくだけです。 そのことは実は虚しいことでも何でもないの ですが、まだ大切にする家族や歴史を持って いないうちは、そんな考えは平凡なつまらない 負け犬根性でしかない、と云う若者が昔から 後を絶ちません。 あなたの目に世界が幻に映るのは、あなたが 自分のことしか考えていないために自分は 実体がある、だから世界は幻なんじゃないかと 対立的にしか考えられなくなっているからです。 世界から見れば、あなたこそが正しく幻です。 あなたが世界から見た時に幻と同じ程度の 意味しかないことは、あなたが自殺でもすれば 容易に立証できることです。 世界は何も変わらない。 ただ、それをあなたが知ることは永遠にない。 あなた以外のすべての人々の目には明確に 立証されている。 あなたがほぼ、社会的に夢に等しい、ということを 立証することで、あなたが見ている「世界は幻想」と 言うことも証明できるのです。 何故なら、あなたが見ている世界、というものは あなたがあなたの目線で「解釈した」世界の一部の 「像」でしかないからです。 あなたの脳内に投影されている虚像としての世界は あなたにとって確固たる手ごたえに乏しいものでしょう。 それもそのはず、それはあなたが見ている幻であって 世界そのものではないからです。 だから、あなたが死ねば、その幻も消える。 でもあなただけがそれを確認出来ることはない。 それを、虚無、と人間は感じます。 この閉鎖ループ世界から抜け出すには、他人を 自分とは全く切り離された「別のリアルな存在」と 言うことをどうやってあなたが理解するに至るか、と いう若者の心理的な成長の突破口を見出す努力に かかっていると思います。 自分なんて、つまらないちっぽけな泡と同じ。 そして、同じように必死で自分を何とかしたいと 足掻いている無数の泡の中に、自分もいる。 だから? 自分も他人もはるかな上空から見ることが出来る 視線を得ることが、「殻を破る」ということでもある。 あなたは、肉体的な死を演じることなく、自分という 存在の消滅を受け入れることで、思想的に、死ぬ。 そのことで初めて、とてつもない巨大な命の海の、 つかの間揺らいだだけの泡、それが命の個体なのだ、と 理解できるでしょう。 泡だから、刹那、消えてしまい、あとかたもなくなる。 そうして無数の泡が生まれて消えてを永遠に繰り返す。 でも、泡だって水であることに違いはありません。 水としての命が、ある僅かな瞬間に泡という形を 取って、つかの間揺れて、そして消えた。 二度とあなたという泡は再生されることも記憶される 意味もありません。 でも、あなたを構成している命の水は、そのまま 海の中で水であり続ける。 ただ、それだけのものです。 あなた、という小さな小さな節穴から覗く世界が 虚像かどうかを悩む、という自己憐憫から抜け出して、 しゃにむに何かに邁進する「阿呆の一念」こそが、 あなたが実は求めている、生命の燃焼の実感を 生み出すものです。 どうせ何をやったって自分は大したものには なれない、という考えは、裏を返せば社会で脚光を 浴びてスーパーマンになりたい、という超人願望に 過ぎません。 その幼い視野を離れて、普通の人々の普通の人生の 凄みを理解できるように、あなたが内心軽蔑している 「普通の人々の普通の人生」について、若者故の 否定的視点でなしに、深く見つめなければ理解が 出来ない、人間の生き様そのものだ、と関心を 持って見つめて頂ければ、あなたの身近に多くの 人生の導きがあると思います。 普通に生きよう。 そのことに開眼してください。 それが、大人になる、ということなのですから。

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  • stmim
  • ベストアンサー率24% (57/236)
回答No.7

夢である可能性は低いですが、夢でないと証明できないと思います。 あなはその排除できない低い可能性にかけて、この世を夢だと思って生きたいですか? そんなことしませんよね。 これは確実だと思いますが、人生にもともと生きる意味は存在していません。 「生きる意味はもとから存在しない」というのが答えです。 でももし、あなたが、これが人生を生きる意味だと感じるものがあるならそれがあなたの人生の生きる意味です。 だから、あならが意味を感じるかどうかが重要であって、それが幻想でもいっこうにかまいません。

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回答No.6

ほっぺを思いっきりつねってもらって、痛ければ夢じゃない。

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noname#202739
noname#202739
回答No.5

思っただけで実現したり、シナリオのすべてが予測できた時は夢です。 空を飛んでいるなら、左へも右へも行けるとか。 銃撃戦でも、「なんだ、あんな銃素手で止められる」と思ったら、ほんとうに止められたり。 それから体に力が一切入っていません。 ところでそのことからなぜ生きる意味や目的の話になるかわかりませんが、 話がつながらないことでもないので、お答えします。 マトリックスでモーフィアスが言ってたんですけど、 現実ってのは脳が電気信号によってそう認識しただけなんですよね。 つまり、夢だって、現実だと思えば、現実です。 逆に現実だって、夢だと認識すれば、夢、幻想なのです。 そもそも「現実」が存在するかもわからない。 なぜ生きているのかはわかりません。 ただ、逆に聞きたいんですけど、「生きてる」ってなんですかね? 脳が「オレ、生きてるよーん」って言えば生きているのでしょうか? じゃあその「生きてるよーん」ってどういう状態なんでしょうね? ぼくらが幻想なら、脳も心臓も体も幻想ということになります。 「なぜ」より先にそこから問う必要があるかと思います。

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回答No.4

現実は夢である。 ただし、通常言われる「夢」は、肉体としての自己の 見る夢だが、現実は、宇宙(全ては脳内の現象)と しての自己の見る夢だという違い。 全ての存在は、量子的な不確定性=確率波動性に 基づき、無限につめ込むと存在確率の山が平らになっ て、無と等しくなる。 この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の 闇に、潜在的な認識可能性(認識体の仮定断面)の 運動を想定すれば相対的に無の風は光になり、認識 体はその光(量子相互作用パターン)の向うに、自己 の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識する。 自己による宇宙でありながら、自己の思い通りになら ないのは、その「思い通り」が、そうした自己存在の 本質に根差していない、現象表面的な肉体性に依拠 しているからであり、その本質的相補性=物理を自覚 化すれば、真の自由(自らに由る)は可能になる。 現実としての夢には、物理(自我成立の必要)が必須。

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回答No.3

夢みている中の意識はそれが夢だという気づきはできないでしょう。 だから夢なんですね。 私たちが現実という世界で夢ではないと思っている人生の中にいるが、もし神という意識が見ている夢だとしたら、そのことを現実人生の中私たちには気づけないでしょう。 それでもそれが夢だと判断するなら、必然当為という価値と理念の生き方ができていないという事なんでしょう。 価値と理念になりきれば、夢から覚めることになるのでしょう。つまり因果律(カルマ)の克服ですね。 このことをヒンドゥ思想は長く扱ってきています。 Self-Realization Fellowshipという団体の本や講義が役立つでしょう。 ネットでHPにアクセスできます。

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  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.2

私、もしくはあなたは、今夢を見ているかどうかを立証できることはできますか? ○できますよ。誰しも自身の霊性に目覚めるとわかります。誰しも6人の自分自身のグループで出来ていますので現在の自分を他の自分で観ればいいだけですね。舞台で演技しているあなたを舞台裏から観ているあなたが評価すればいいだけですね。夢の中のあなたを現実とすると現在のあなたは夢の中のあなたですね。夢の中の方が刺激的な人生と思いますよ。刺激的な人生は夢の中の死をもって終わりますが、それは単に舞台裏にもどるだけですね。舞台裏のあなたの評価があなたの人生の評価ですね。 要は、どちらも真実なんですよ。あえて肉体をもって不便で苦難の多い人生を選んで霊性を鍛えているだけですね。アクターも舞台に上がらないと名優にはなれませんからね。 つまり、夢の中で厳しい人生を選ぶことで鍛えているわけですが、楽な人生を選ぶこともできるわけです。まあ、単なる毛布で寒さに耐えるか、電気毛布で生きるかの差ですね。何を選ぶかは自由ですが、舞台は厳しい方がより鍛えられるということですね。 夢は、6つあるのですよ。その一つが肉体を持っているというだけですね。実はもう一つ肉体を持った自分がいるとは言われています。これは反空間の自分ですね。 摩訶不思議な世界の住人が霊体たる人間ですね。 こんなのが仏教的悟りの一部なんですよ。自身の教育的常識を白紙にし本当の自分の認識力を鍛えれば理解できるようになります。

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  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.1

それが「胡蝶の夢」です。 立証等は出来ません。 しかし夢であろうが現であろうが、どちらであれ、その場を全うするのが生きると言うことであり、修行です。

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    いつもお世話になっております。 タイトルの通りですが、少し補足を。 主人公が今、体験している出来事は夢なのか、それとも現実なのか。 そんな現実と夢の境界線がボヤけたような、白昼夢のような幻想的な物語を探しています。 SFというわけではなく、どちらかと言うと内向きの精神的・哲学的なお話になるかと思います。 ゲーム・小説・映画など、物語であればメディア媒体は不問ですが、ゲームは探すと結構ありそうな気がするので、出来ればゲーム以外でお願いします。 これだけでも分かりにくいかと思うので、自分が知っている中で幾つか具体例を挙げておきます。 未見のものについては、ネットで調べただけですので、もしかたら違う代物かもしれません。 ・既に見た事があるもの パーフェクト・ブルー(原作:竹内義和 アニメ映画)  魔王物語物語(フリーゲームソフト) ・未見の物 パプリカ(原作:筒井康隆 アニメ映画) ドグラ・マグラ(小説) 以上です。どうかよろしくお願いします。

  • なぜ哲学は神を捨てたのか?

    哲学と神の関係について古代から中世までは、哲学と神は切っても切れないほど密接な関係を持っていました。しかし近代以降、哲学は神のことを語らなくなってしまったように思います。 それはどうしてなのでしょうか? もはや神の存在を人々が信じられなくなったからとは聞きます。 でもこのことは語られない基準としてあいまいな気がします。 どのくらいの人が神を信じられないと神を語ることはできなくなるのか? 欧米では現在でも人口の50%以上はクリスチャンですよね。 たしかに無神論の人はいるでしょうが、どちらかと言うと変わり者と考えられています。 現在でもかなりの人が神の存在を信じていると思うのです。 哲学者の中にもかなりの数のクリスチャンがいるはずです。 彼らは神を信じているなら神の哲学をしないのでしょうか? 私は物理学者でクリスチャンの人の話を聞いたことがあります。 彼は神のことを心から信じていました。しかし物理学の研究では直接神が登場する機会はありません。ですが哲学者で神を信じているなら神の哲学を語ってもいい気もします。 デカルトの神の存在証明をカントは否定しました。 しかしそのことも神の存在が否定されたことにはなりません。 現在でも誰も神の存在を証明することも、存在を否定することもどちらもできないはずです。 自然科学で神が語られないのは明快な理由があります。 それは神は観察できないし、実験できないので議論するための根拠を示せないからです。 ですからもし根拠さえ示せれば神を語ることもあると思います。 哲学が神を語らない明快な理由がありましたらお教えください。 それから私が調べたところではベルクゾンという哲学者は神について語っていたと聞きます。 それは後半の神秘主義に傾倒してからの話です。 ベルクゾンについてはあっちの世界(神秘主義)に行っちゃった人が神を語ったという評価なのでしょうか?それとも哲学として神を語ったという評価なのでしょうか? このことについてもご存じでしたらお教えください。