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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:第二章 オシエは 考えるもの。信じるものではない。)

宗教のオシエは経験思考の対象であり、信じるものではない

daidouの回答

  • daidou
  • ベストアンサー率29% (491/1687)
回答No.5

お礼をいただきまして、ありがとうございます。 もう少々お付き合いさせていただきたいと思います。 端的に言いまして、私の考える信仰のあり方からみて、最も違和感を覚えるのが、 《オシエは つねに 考えるものであって 信じるものではない》という言葉です。 これは信仰の外側に立つ者の見方ではないでしょうか? 信仰を行う者の立ち位置から見れば、「教えは常に信じるべきもの」だと考えます。 そして「信じた上で教えを考える」事は、求道者としてあるべき姿。 《オシエは つねに 考えるものであって 信じるものではない》 これでは学究の徒が学問に相対する際の姿勢のように思えます。

bragelonne
質問者

お礼

 だいどうさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~  信仰を行う者の立ち位置から見れば、「教えは常に信じるべきもの」だと考えます。  そして「信じた上で教えを考える」事は、求道者としてあるべき姿。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ ええ。常識と言いますか これまで浸透して来ている通念ですね。  これに異を唱えています。  なぜなら オシエは あくまで思考において表現されており 受け取る人にとっても思考の対象であることに マチガイありません。  言いかえるなら 《オシエを無条件にただしいものとして受け取り受け留め受け容れてしまって その内容に 今度はそのオシエにちなんだ情況に遭うならば 条件反射のごとくして したがう》 このことは 思考の怠惰になりませんか?  思考をなまけるそのコトの前に ただただ洗脳されてしまったことになるのではありませんか?  つまり そのオシエの内容が 必ずしも自明ではなくいくらかは明確ではないと分かっていても それを押し切って その言葉に従う――このことは 人間の知性を麻痺させているという事態なのではないでしょうか?  それでよいというのは わたしは 精神錯乱に落ち入っているとしか思えないのです。どうでしょう。  ただしですね。敵を愛せなるオシエを そのまま実行している人に出会ったことは まづないですね。  となり人を 自分と同じように愛せなるオシエを 実行しようとしている人には会っています。《自分と同じように》という条件においては 実行が割り合い合点が行く内容として 実行に移すことにもためらいが少ないのだと思います。  ただしこの《となり人への愛》は オシエに関係なく ふつうに人びとが生活日常において 思いやりや助け合いとして 大昔からおこなって来ていることでもあります。  つまりは 要するに一方では 《オシエを神の言葉としてそのままうたがうことなく 受け容れなさい》と言いつつ 他方では 受け容れたのかも知れないけれど その内容の実践としては ほとんど成っていない。  これは 何が原因なのか? 考えるものであるのに《信じる》ものとして受け取る その時点の姿勢が そもそものボタンの掛け違いなのではないか。通念もしくは正式のオシエ〔にかんする注意としてのオシエ〕に対するこういう物言いです。

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