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国旗「日の丸」が一般民衆に周知されたのは。

昭和6年の第59回および第60回帝国議会で「大日本帝國國旗法案」が提出されましたが、廃案になっています。 そこで疑問に思ったのですが、村の隅々まで、子どもでもたいてい「日の丸」を知っているようになったのは、いつ頃からですか。 例えば明治政府は、積極的に「日の丸」を国民に周知徹底したのですか。 明治時代、小学校で「日の丸」を教えていましたか。 日露戦争では「日の丸」はどのように扱われたのですか。 よろしくお願いします。

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回答No.7

再々度、追加投稿失礼致しますm(_"_)m 焦点の絞れない=纏まりのない断片情報の垂れ流しの連続投稿に、 苦虫を噛み潰していらっしゃるかもしれませんが、 おぼろ気ながら私なりに輪郭が見えてきたように思います^^ >例えば明治政府は、積極的に「日の丸」を国民に周知徹底したのですか。 少なくとも明治前期は積極的とまでは言えず、 一部の府県(ただし、当時は中央政府の地方出先機関の位置付け)からの「伺」に対し、 一般人には祝祭日など限定的に「日の丸」使用を差許=許可する「達」を出した程度。 また、No.6投稿のとおり開港場県庁の掲揚も5年余りで廃止と消極的。 明治中期に至り大日本帝国憲法の発布(明治22<1889>年2月11日)、施行(同23<'90>年11月29日)と 国家体制が確立される最中、相前後して第二次小学校令(同23<'90>年10月7日勅令第215号、 地方の学校設置義務規定=義務教育化)、 第1回帝国議会開催直前の同23<'90>年10月30日 教育勅語発布、検定教科書「修身」の流れとなるものの、 No.5投稿のとおり「文部省令第四號(明治24<'91>年6月17日)/小學校祝日大祭日儀式規程」中、「御(真)影最敬礼・萬歳奉祝」「唱歌」は有れど「日の丸」記載無し。 明治後期になって、No.4投稿のとおり「明治37年<'1904>4月からの教科書国定制度導入以後は、 教科に関わらず日章旗の項目が顕著な様子が伺えます」が、 これも教科書の中・後半部の記述にとどまったりもします。(※後述、例外もありますが) 教科書内で明らかな変化=積極性が伺われるのは、日の丸の旗から始まる 第二期(明治43<'1910>年~)国定教科書『尋常小学読本』(「ハタタコ」読本) <5/8> からかも知れません。 http://libdspace.biwako.shiga-u.ac.jp/dspace/bitstream/10441/393/4/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%95%99%E7%A7%91%E6%9B%B8%E3%81%AE%E6%AD%A9%E3%81%BF%E3%80%80%E5%9B%BD%E8%AA%9E.pdf あとは、No.6投稿の「大正13年の次官会議の答申によって内務大臣官房より各県知事宛に 祝日大祭日の国旗掲揚の通牒」に伴う「官公庁の国旗掲揚」までは、どうやら確かだとしても、 『「君が代起立条例」について/神原敬夫』氏の見解 「明治期に、校門に国旗を掲げた学校もあったが、官公庁が国旗を掲げないので、 全国的にはほとんど掲げなかったと想像できる。」との想像部分は、 No.4投稿の『尋常小学修身書.第2学年用/文部省編/熊谷久栄堂[ほか]/明37.1』の 「祝祭日には、學校にても、家家にても、皆この日の丸の旗を立つ。」の記述と相反するため、 再検討を要します。 なお、〇『新聞集成明治編年史. 第七卷 /新聞集成明治編年史編纂会 編/林泉社/1940.9』 明治二十二年二月(皇紀2549/西暦1889) ・<137/302>(219頁) 4段目 〔二・八、讀賣〕國旗が品切れ http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920380/137 などからは、政府よりも一般人側の積極性が伺えます。 >明治時代、小学校で「日の丸」を教えていましたか。 No.4投稿で「明治20年代は日章旗にはあまり触れられず、 明治30年代に入ると一部には日章旗の項目が有る反面、触れられないものも多数」とカキコミ、 また前記のとおり、教育勅語発布、検定教科書「修身」の流れとなるものの、 「文部省令第四號(明治24<'91>年6月17日)/小學校祝日大祭日儀式規程」中、 「御(真)影最敬礼・萬歳奉祝」「唱歌」は有れど「日の丸」記載無しとしましたが、 改めて近代デジタルライブラリーにてキーワード「修身」→「1890~1899」の433件の一部を 確認しましたところ、修身限定で限られた範囲に過ぎませんので断定は出来ませんが、 また見落としの可能性も残りますが、明治28年9月の下記修身訓では本文項目には無いものの 巻頭で日の丸・旭日旗が描かれています。 〇『尋常修身訓. 巻1/文学社編輯所編/文学社/明28.9』 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/757286/3 明治30年代になりますと、No.4投稿既出分など以外にも、 〇『教授細目/静岡県田方郡第二区小学校長会 編/静岡県田方郡第二区小学校長会/明31.9』 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/810014/11 ・ 脩身科(1~54頁) 〇第一學年第三小期 <11/137>(15頁下段)第五週 大祭祝日ノ心得…「一 大祭祝日ニハ國旗ヲ軒ニ掲クヘキコト」の記述が見出せ、 また下記では巻頭本文で「日の丸のはた」が図柄とともに記述されています。 〇『新編修身教典:尋常小學校用.巻3/普及舎編輯所編/普及舎/1900(※明治33).12』 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1874146/3 検定教科書時代ゆえ、一つで全ては語れませんが、遅くとも明治30年代には 修身の本文内で「日の丸」項目が設けられる傾向にあったとともに、 既出『尋常小学修身書.第2学年用/文部省編/熊谷久栄堂[ほか]/明37.1』のとおり 学校でも「日の丸」掲揚の傾向にあったことが推認出来ます。 >国旗「日の丸」が一般民衆に周知されたのは。 No.4投稿のとおり都市部では東京府下など早いところで明治6年前後、 また皇室の行幸、行啓などにともなう各地での催事などを通して、 ・『明治天皇行幸年表/明治天皇聖蹟保存会編/大行堂/昭和8』 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1121017/8 地方部でも遅くとも明治10年代には相当程度には周知されていたものと考えられます。 ただし、当時の行幸・行啓での一般人側の対応は敬礼と定めれていましたから、 「日の丸」の掲揚・飾付は有り得ても、兵士の送別などと違い手持ちの小旗などは 考えられません。 あと残された問題は僻地・寒村… 地縁団体の村組の情報伝達とか、明治10年後半から地域毎、全国的に発足したとされる 「徴兵慰労会(※名称は多様)」とかを掘り下げれば、 義務教育化以前の「日の丸」周知状況がより分かるかもしれませんが、 これ以上手を広げても収拾がつかなくなるかもしれません(><) (何しろ私は研究者ではなく、ただのド素人ですから^^) よって誠に勝手ながら以下は学校関連にとどめたいと思います。 教科書から少し離れて、学校行事で真っ先に思いつくのは運動会ですが、 …僻地・寒村とまでは言えず、また尋常高等小学校の例ですが…下記によれば ・「近代日本農村の初等教育事情:広島県賀茂郡下黒瀬村の事例/梶井一暁」 『鳴門教育大学研究紀要.教育科学編18/2003-03-07』(13-29頁) http://ci.nii.ac.jp/naid/110000954623 <10~/17> 参考資料 下黒瀬尋常高等小学校沿革 の「学校レベル」欄(※表右側)には、 「明治22<1889>2.11/憲法発布大典奉祝」「明治22<1889>11.3/皇太子宣下式奉祝」 「明治27<1894>3.9/天皇成婚25周年奉祝」などの皇室関連行事も行われ、 また、「国・県・郡・その他レベル」欄(※左側)には、 「明治26<1893>1.10/小学校祝日・大祭日参拝者心得」と児童・生徒以外の参拝も想定、 限られた断片情報とは言え、東京など都市部だけでなく、 地方部でも「憲法発布大典奉祝」等が学校で挙行されていた事実が浮かびます。 児童・生徒以外の参加者構成の問題が残りますが、仮に不参加でも口コミで情報は得られかと。肝心の「日の丸」は?と問われれば、さすがに明治20年代に至れば、 学校関係者等であれば、明治5・6年頃からの都市部の状況は認識していたと思われます結果、 通常の祝祭日の掲揚の有無は別にしても、 催事それも皇室関連となれば「日の丸」掲揚・飾付はあった考える方が自然です。 (都合の良すぎる解釈でしょうか?) 上記のように(都合良く)考えれば、単発的とはいえ何度も挙行されたであろう学校での催事、 また徐々に増加に向かったであろう通常の祝祭日の学校での「日の丸」掲揚を思えば、 教科書掲載の有無、就学率などとは関係なく、 地域住民であれば直接・間接の見聞には、さほど時間は要しなかったと思われますので、 たとえ僻地・寒村の情報弱者でも、遅くとも明治23年の義務教育化以降の数年内には 「日の丸」を認知し得たのではないかと考えます。 断片情報の垂れ流し量のわりには、何とも中味の薄い回答となりましたので、 ツッコミどころ満載ですが^^)現状で纏めるならこれが精一杯です(><) 以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

kouki-koureisya
質問者

お礼

丁寧に纏めて下さってありがとうございます。 助かりました。 疑問1.例えば明治政府は、積極的に「日の丸」を国民に周知徹底したのですか。 よく解りました。 >『「君が代起立条例」について/神原敬夫』氏の見解 >「明治期に、校門に国旗を掲げた学校もあったが、官公庁が国旗を掲げないので、 >全国的にはほとんど掲げなかったと想像できる。」との想像部分は、 >No.4投稿の『尋常小学修身書.第2学年用/文部省編/熊谷久栄堂[ほか]/明37.1』の「祝祭日には、學校にても、家家にても、皆この日の丸の旗を立つ。」の記述と相反するため、再検討を要します。 再検討を要するという個所についてですが、 本文は、「天長節紀元節等の祝祭日には、學校にても、家家にても、皆この日の丸の旗を立つ。」となっており、祝祭日だけ掲揚し、平日には降ろしていると解釈できます。 これでいいのではないでしょうか。 国旗・日の丸は、大切に扱うものですから、毎日揚げていると変色し、傷みますから。 わが家でも明治生まれの父が居たころは、朝飾り、日没とともに仕舞っていました。 この20年ほどは、近所で国旗を揚げている家はないですね。 次に、下記の「日の丸記載無し」についてですが >明治中期に至り大日本帝国憲法の発布(明治22<1889>年2月11日)、施行(同23<'90>年11月29日)と国家体制が確立される最中、相前後して第二次小学校令(同23<'90>年10月7日 >勅令第215号、地方の学校設置義務規定=義務教育化)、 第1回帝国議会開催直前の同23<'90>年10月30日教育勅語発布、検定教科書「修身」の流れとなるものの、 >No.5投稿のとおり「文部省令第四號(明治24<'91>年6月17日)/小學校祝祝日大祭日儀式規程」中、「御(真)影最敬礼・萬歳奉祝」「唱歌」は有れど「日の丸」記載無し。 これは「儀式次第」についての規定ですから、「日の丸に敬礼」という儀式がなくても「御(真)影最敬礼・萬歳奉祝」で十分であると、決めたのでしょう。 御真影と国旗とでは、御真影が上位になると思います。 それに、国旗は、原則論で言えば屋外に掲揚または立てるものでしょう。 この省令には式場内部の設営についての指示はありませんから「日の丸記載無し」でも違和感はありません。 私は、「福井県史」をよく参考にしていますが、学校儀式について書かれています。 福井県史 通史編5 近現代一  第二章 日清・日露戦争と県民 第三節 明治後期の教育・社会 一 国家主義教育の推進 学校儀式の変容 http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-2-01-03-01-02.htm 学校における天皇礼拝儀式の開始は、直接には、二十三年ころからの「御真影」(天皇の肖像写真)の下付と「教育勅語」の発布を契機とするが、こうした儀式が普及する背景として、十年代の学校儀式の様相をみておこう。  十年代の開校式・卒業式などの学校儀式は、『福井新聞』でみるかぎり、また、すでに他県の事例で指摘されているとおり、一定の様式をもっていた(山本信良・今野敏彦『近代教育の天皇制イデオロギー』)。たとえば、丹生郡下氏家村の知新小学校の開校式の会場配置は、玄関に「御国旗二旒」「式場には御真影を懸け、神酒神饌を供し奉り、中央に大案を居え、上に紅氈を敷き、横に白布を垂れ、一瓶の叢花」がおかれた。郡長・郡書記・県会議員・戸長・父兄らが参観し、式後には祝宴が開かれていた(明16・10・17)。ここでは式場に「御真影」が掲げられていたが、これは、当時さまざまなかたちで流布していた天皇の肖像画と考えられる。 疑問2.明治時代、小学校で「日の丸」を教えていましたか。 よく解りました。 疑問3.国旗「日の丸」が一般民衆に周知されたのは。 都市部では早くから、地方ではそれよりも遅れて、そして地域によって“周知”に差があると予測していました。 >都市部では東京府下など早いところで明治6年前後、 >また皇室の行幸、行啓などにともなう各地での催事などを通して、地方部でも遅くとも明治10年代には相当程度には周知されていたものと考えられます。 この結果(まとめ)で私は十分です。 明治政府は、天皇と日の丸をセットで浸透させていったのですね。 >あと残された問題は僻地・寒村… >地縁団体の村組の情報伝達とか、明治10年後半から地域毎、全国的に発足したとされる >「徴兵慰労会(※名称は多様)」とかを掘り下げれば、義務教育化以前の「日の丸」周知状況がより分かるかもしれませんが、これ以上手を広げても収拾がつかなくなるかもしれません。 確かにそうですね。 都会の様子はかなり分かりますが、僻地・寒村のことは資料も少ないでしょう。 勝手な言い分ですが、調べる過程に意義があると思います。 断片的であっても新聞記事は面白いです。 記事から想像すれば結構楽しいです。 お陰さまで多くの新事実を知ることができました。感謝申し上げます。

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回答No.8

最終報告m(_"_)m No.7投稿お礼欄の御言葉を拝見する前に作成完了していた最後のボツネタを一つ^^ その前に、 >本文は、「天長節紀元節等の祝祭日には、學校にても、家家にても、皆この日の丸の旗を立つ。」 肝心の部分を見落としていました、大変失礼いたしました。 >「日の丸記載無し」 仰せのとおりですね。 >「福井県史」 この背景色と書式、以前見た記憶が蘇りました^^ 貴重な情報をありがとうございます。 ----------以下(ボツネタ)---------- またまた追加投稿失礼致しますm(_"_)m 中味が薄くツッコミどころ満載と自認する我が身としましては、 少しでも空白?部分を埋められないものかと思案し、 断続的に明治前期の政府・地方行政の検索作業をしてみましたところ… トンデモ文言に出会しました。 〇『秋田沿革史大成.下/橋本宗彦/橋本宗一/明31.11』 <254/531>(482頁4行目~) http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763199/254 ○國旗ヲ揭クルハ明治十年彼ノ鹿兒嶋戰爭ノ際九月二十四日賊ノ城山ヲ攻メ落シタリ 此ノ報ヲ得ルヤ政府ハ全國一般國旗ヲ各戸ニ揭ケ大勝ヲ祝シヘシト 此トキ本縣各郡區長ニ令シテ國旗ヲ揭ケシム 爾來祝祭日及ヒ自己ノ祭日ニモ之ヲ揭クルモ防ケナシト 卽日ノ丸ニ地白ノ竪二尺五寸巾三尺位ヲ法トセリ 後大ナルモノヲ製スルモ随意トス(大喪ノ際ニハ國旗ノ上ニ同巾ニシテ竪三寸位黑布ヲ付ク) 上記が事実なら明治政府の積極性を示す傍証となるはずですが、 残念ながら当時から20年経過し編集・発行も個人名の一般書籍ゆえ、 裏付け作業に入りましたが、足取りが掴めません。 明治10年9月以降明治10年内と11年の太政官布告・達にとどまらず、 内務省達、陸軍省達などまで範囲を広げましたが、WEB上では見当たりません(><) 私の見落としも有り得ますので、視点を変え、他府県を当たってみました。 WEB限定のため、止むを得ず編集・発行個人名書籍や出所不明分等も含みます。 ※布告=明治19(1886)年2月26日公文式制定以前に発布された命令・法律の類、太政官布告など。 ※布達=明治19(1886)年公文式制定以前に太政官の発した法のうち各庁を対象とする達、 縣から区長戸長等への達など、また官公庁等が広く人々に知らせること。 〇『愛知県布達索引:沿革備考.第一巻/村木鶴次郎編/村木鶴次郎/(明治17出版)18再版』 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/788157/38 <38/176> 第三編 條規 第貳章 祭祝日 ・明治06.09.15/無號布達/御祭祝日ハ日章國旗ヲ揭クヘシ ・明治06.10.22/無號布達/御祭祝日及國旗揭揚方ヲ示シ最前ノ日並ヲ取消ス ・明治11.06.12/甲第112號布達/六年十月無號布達國旗揭揚日ニ春秋二祭ヲ追加ス 〇『岡山県布達類集全書.上/岡山県/明30.12』 <4/245> 第一類 祭日祝日 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/788347/4 ・丙第20号/明治08.12.26/(省略) ・甲第106号/明治09.09.22/是迄國旗揭表區々有之候處  以來ハ左ノ御祝祭日ニハ一般揭表可致此旨普達候事 年中國旗揭表日 (省略) ・大和文化研究 http://www3.kcn.ne.jp/~hata6144/HUKOKU72.htm 明治七年/祝日に旗を掲揚すること 第八十七号 歳中祝日ニハ別紙雛形之旗ヲ各大区会議所並学黌エ可致掲表 其他区戸長始家々ヘ同様之小旗ヲ掲候義ハ可為適宜 尤掲ケ方ハ短キ竹竿ニ付シテ各家之軒先ヘ斜ニ差出置可申候事 右之趣管内無洩相達者也   明治七年三月 奈良県権令藤井千尋 (図省略) など祝祭日に関する明治一桁年の「日の丸」掲揚は見出せますが、 現時点では秋田事例と同等内容は見出せず確認が取れません。 各府県全てを検索するのは時間的に無理ですが、 明治10年以前の他県布達状況から察すれば、秋田事例は採用出来兼ねます。 でも、開港場県庁は5年余りでの掲揚廃止措置に、 明治中央政府の当初の消極性を疑わなかった私は、 明治一桁年の地方行政の状況を全く調べもしていませんでしたが、 秋田事例により、明治一桁年の地方行政側の積極性の有り様が見えてきました^^ 一つで全てを語るのは無理があるのは承知していますが、 明治6年頃の東京府下の周知状況から数年の間には、 畏まった国旗と捉えるか、祝祭日・催事の飾り物の一つ程度の捉え方かを別にすれば、 他府県下でも周知は進み、学校の義務教育化(明治23年)を待つまでもなく、 明治10年前後には概ね認識されていたのではないかと。 またNo.7投稿の行幸・行啓等にともなう催事などは限られた地域とはいえ、 それ以外の学校とは限らない奉祝催事や一般の家々も含めれば、 徐々に「日の丸」掲揚・飾付を見る場面も増えていったのではないかと。 あと、子供も含めた情報弱者問題につきましては、 No.7投稿「遅くとも明治23年の義務教育化以降の数年内」部分を削除、 「早ければ東京府下と変わらず明治6年頃、遅くとも明治10年前後」に変更したいと思います。 もちろん、布達ですから行政側からの奨励に過ぎないため、 各戸への伝達には地域毎の温度差はあったかもしれませんが、 見慣れない物を見れば話題にのぼるのは世の常、口コミを馬鹿にしてはいけません^^ また周知・認識し得た事とは別に、 御指摘の「そんな時代に通達・布告が徹底できたのか疑問です。」の件は 確かに(国旗か飾り物かの捉え方は別としても) どの時点で、どの地域で、どの程度受け入れられ祝祭日等に 家々の「日の丸」で埋め尽くされるに至るかまではハッキリしませんが、 何しろ「表札」よりは高値でしょうから^^ 今の世でも、維新前後や明治期の遺恨を語る人々がいらっしゃいますから、 熱さめやらぬ当時ならば、なおさら、地域によっては反発が強かったのは確かだと思います。 当時直接関わった人々やその親族なら、中には生涯反目を通した方々も居たかもしれません。 でも一般の民はどうでしょう?善くも悪くも民は「したたか」、 本音とは裏腹でも新政府との付き合い方の術は心得ていたのではないかと。 (誠にもって都合の良いフレーズですが…苦笑) まだまだツッコミどころは有ると思いますが(><) 以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^ ----------以上---------

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 『秋田沿革史大成』記載の 「國旗ヲ揭クルハ明治十年彼ノ鹿兒嶋戰爭ノ際九月二十四日賊ノ城山ヲ攻メ落シタリ 此ノ報ヲ得ルヤ政府ハ全國一般國旗ヲ各戸ニ揭ケ大勝ヲ祝シヘシト…」について。 「西南の役」は、「鹿兒嶋戰爭」と呼ばれていたのですね。 それがいつしか中央集権が進んで、東京から見て西南の辺りの戦争となったのでしょうか。 つまらぬことばかり気になっています。(独り言) 「政府ハ全國一般國旗ヲ各戸ニ揭ケ大勝ヲ祝シヘシト…」ということは、明治10年9月当時、わが国の家々には国旗があったと、政府は認識していたことになりますね。 #5のご回答に、明治7年2月 筑摩縣で「旗日布告畫とき 國旗を製して戸毎にくばる」の郵便報知の記事がありますが、もしかすると全国あちこちでこんなことがあったのかも知れません。 小さな疑問は尽きませんが、「日の丸が一般民衆に周知されたのは」の疑問は、#7のご回答で解決したと喜んでいます。

  • dayone
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回答No.6

再度、追加投稿、失礼致しますm(_"_)m 官公庁、学校等での日章旗掲揚について調べる中、前回投稿でも少し触れましたとおり、 「明治五年三月太政官(無號)〇三月二十八日(達) 自今開港場縣庁ヘ國旗ヲ可揭事 但祝日ハ大旗平日ハ中旗ヲ可用事」以降、次に来るのは、 「明治十年○第九十四號(十二月十八日 輪廓附) ※太政官(達) 自今使府縣廳並ニ税關等國旗揭スルニ不及候條此旨相達候事」 『法令全書.明治10年/内閣官報局/明23.8』明治十年十二月太政官 達 <153/546>(222頁) http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787957/153 僅か5年余りで國旗掲揚に及ばずとは…何とも当時の世間とは逆方向、解せません。 やはり後が続かず、気になる「次官会議」関連を調べる中、 地方自治体の「君が代・日の丸」関連の議会議事録などによれば、 明治27年ではなく、どうやら大正13(1924)年が正しい事が分かりました。 そして、「君が代起立条例」について/神原敬夫」に出会しました。 http://homepage3.nifty.com/kkam12/kimigay.pdf II 日の丸・君が代の歴史/1 戦前における日の丸<4~5/22> 日の丸が広く、大衆化していくのは「日清戦争」である。 マスコミの煽動もあって、出征兵士を送る集いにはのぼりや日の丸が打ち振られ、 小学生たちも「日の丸」の小旗を作って参加した。 戦勝記念の旗行列、ちょうちん行列が行われるのもこのときである。 しかし、明治期には政府官公庁の「日の丸」掲揚は禁止されており、 特例処置の開港場の官庁もやがて、掲揚が禁止されていったことはあまり知られていない。 官公庁に日の丸が掲げられるようになるのは大正13年の次官会議の答申によって 内務大臣官房より各県知事宛に祝日大祭日の国旗掲揚の通牒が発せられてからである。 明治期に、校門に国旗を掲げた学校もあったが、官公庁が国旗を掲げないので、 全国的にはほとんど掲げなかったと想像できる。 大正13年の次官会議以降から、祝日等に校門に掲げる尋常小学校が多くなってきたが、 それは歓迎の誠意を表して掲げられているものであって、 掲揚されている「日の丸」に誰ひとりとして拝礼しなかった。 上記の全ての裏付けを取ったワケではありませんが、これらの記述を信じれば、 官公庁、学校等での掲揚時期は、都会などの一般世間への普及より、 また明治37年度以降の国定教科書よりも遅かった事になりますから、 仮に日の丸を知らない情報弱者が僻地・寒村に存在したとしますと、 子や孫の教科書等を通じてあるいは祝祭・催事で「日の丸」を見る機会の方が 先に訪れた可能性が高いと言えそうですね^^ そうなりますと、僻地・寒村での催事等は望み薄ゆえに、新聞はどうか?とも思いましたが、 日清戦争以降販売が拡大を始めたとされるものの、 日露戦争の起きた明治37(1904)年でも全国主要日刊紙63紙の1日あたり総部数163万部、 大正13(1924)年になって総発行部数推計625万部で普及率「9.28人/部」の割合で、 2世帯に1部に到達、これでは官公庁、学校等での掲揚時期と変わりません(><) 暦(カレンダー)も少し調べましたが明治期には旗印等までは確認出来ませんでした。 その結果、口コミなどを除けば、僻地・寒村では教科書は有力な情報源の一つのようですね。 だったら、もっと教科書を重点的に…との御言葉も聞こえそうですが… 以上 疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 「日の丸が一般民衆に周知されたのは」の質問は、対象とする範囲が曖昧ですから、解答はある程度、困難であることは予測していましたが、なかなか難問のようですね。 官は、積極的強引に推進したのでしょうが、日の丸を掲げて、日の丸に敬意を表せよと言われても、素直に従わなかった民も多かったでしょう。 戊辰戦争の遺恨がまだ色濃く残っていたでしょうし、新政府のやり方に反抗する勢力(例えば秩父事件)もあったでしょうし、何より政権内外の権力闘争もありました。 そんな時代に通達・布告が徹底できたのか疑問です。 市制・町村制は明治21年、府県制・郡制は翌年です。 ますます、混乱して焦点がぼやけて来ました。 そこで、“従う・従わず”に関わらず、日本国には旗が必要であって、それが日の丸であるということを、一般民衆のほとんどが知ったのは、いつ頃だったろうか、と置き換えて考えてみました。 が、これでも難問です。 「君が代起立条例」について/神原敬夫」を読みました。 大変参考になりました。 日の丸に関して衝撃的な事実を知りました。 軍人の将校を養成する超エリート学校である「陸軍士官学校・海軍兵学校・陸軍幼年 学校」の校地内で日の丸が掲揚されることはなかったし、君が代が歌われることもなかった。 戦前の陸軍士官学校、海軍兵学校のエリート学校の卒業式で国歌「君が代」を斉唱していなかった実態は、想像も出来ないだろう。 さらに、dayone様ご指摘の部分でも。 >しかし、明治期には政府官公庁の「日の丸」掲揚は禁止されており、 特例処置の開港場の官庁もやがて、掲揚が禁止されていったことはあまり知られていない。 >官公庁に日の丸が掲げられるようになるのは大正13年の次官会議の答申によって 内務大臣官房より各県知事宛に祝日大祭日の国旗掲揚の通牒が発せられてからである。 このお礼を書いている途中に#7の投稿がありましたので、後日、纏めてみます。

  • dayone
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回答No.5

追加投稿、失礼致しますm(_"_)m 「明治五(1872)年九月十二日~明治22(1889)年2月11日」の間の調査に着手しました^^ 下記『新聞集成明治編年史.第二卷』(※明治6年1月~9年6月)の、 明治六年十一月〔一一・二、東京日日〕記事、同〔一一・…、新聞雜誌一六二〕記事などから、 明治六年時点では、少なくとも東京府下では概ね周知されていたと言えそうですが、 一方、明治七年二月〔二・九、郵便報知〕記事では、 筑摩縣の僻地寒村に至っては周知されていなかったように記述されています。 ただ、ここで一つの疑問が生じるのですが、 明治九年三月〔三・二三、東京曙〕「布告の速達配布」記事は東京府下の事ではありますが、 布告を知らなかった云々と、 隣組が組織されるのは戦意体制下の1940年とは言え、 江戸期の五人組とまでは言わないまでも、地域毎のいわゆる「組」組織は明治期になっても ある程度は機能していたのではないかと思うのですが… 出入りの激しい町場ならば隣近所は誰か知らないは有り得ても、 逆に僻地寒村などでは従来の村組のネットワークは機能していたのではないかと… 私の個人的な疑問はさておきまして、僻地寒村の周知に関しましては、 新聞記事からだけでは限界があります。 やはり官公庁、学校関連が近道かも知れませんね^^ たとえば、『法令全書.明治5年/内閣官報局/明22.1』 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787952/282 <282/768>(450・451頁) 明治五壬申年三月 太政官(無號) 〇三月二十八日(達) 自今開港場縣庁ヘ國旗ヲ可揭事 但祝日ハ大旗平日ハ中旗ヲ可用事 などは直ぐに見つかるのですが、後が続きません。 「明治二十七年(1894)には、官庁が祝祭日に国旗を掲揚することを次官会議で決定し、 学校でもこれに倣うことになった。」とのWEB情報も散見されますが、 現時点では裏付けがとれておりません。 また、「わが国の国旗・国歌の歴史的意義とその法的位置づけ/大西斎」 http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/10124/1/25-6_n.pdf 2 わが国の国旗・国歌の歴史と意義/(3)学校での国旗・国歌に関する教育の経緯 <5/15>部分を読んでみましたが、ハッキリしません。 ・『官報 第二千三百八十八號/明治二十四年六月十七日』 「文部省令第四號/小學校祝日大祭日儀式規程」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2945650/1 でも日章旗との関連付けはありません。 またまた課題を残したままで申し訳ありませんが、 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸い^^ 余談:某独り言コーナーの超難問と比べれば、 こちらの方が楽なので逃避してきました^^ あちらは賢者の方の御登場・再登場に期待したいと思いますm(_"_)m 以下参考URL 〇『新聞集成明治編年史.第一卷/新聞集成明治編年史編纂会編/林泉社/1936.10』 明治五年九月(皇紀2532/西暦1872) ・<275/295>(489頁) 〔九・…、郵便報知一八附〕 2・3段目画像 日章旗点在 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920323/275 ・<276/295>(490頁) ※上記の続き 2・3段目画像 不鮮明も左側日章旗らしき旗横列 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920323/276 〇『新聞集成明治編年史.第二卷/新聞集成明治編年史編纂会編/林泉社/1940.11』 (※明治6年1月~9年6月) 明治六年二月(皇紀2533/西暦1873) ・<34/317>(18頁) 5段目 〔二・…、新聞心得草六〕  http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920332/34 國籏揭揚を奬勵せよ 洋行歸朝人の雜話○歐米諸洲にては、國家の大禮日或は海外珍客の馳走等に諸人各門戸に 其國旗章を揭げて之を祝するなり。吾國にも當一月廿九日神武天皇御卽位日には、 市井稀れに日の丸の旗を戸口に揭げたり、後は市中一般同様に旗章を揭げて祝し奉る様、 各戸長より説諭ありたきことなり。 明治六年六月 ・<36/317>(48頁) 5段目 〔六・一三、郵便報知〕 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920332/49 日の丸の濫用嚴禁 お祭の軒提燈にも日の丸使用は不可 番外第四十六號〔市在區々戸長へ〕 御祭典等の節、日章御國旗相揭候儀は差許置候處、市在諸祭日に付、 日章軒提灯等差出候向も有之哉に相聞へ不都合の事に候。 以後右様猥に日章相印候儀不相成候條、區々扱所に於て厚く注意可致事。 明治六年六月十二日 東京府知事 大久保一翁 明治六年十月 ・<65/317>(80頁) 3・4段目 〔一〇・一七、日新眞事誌〕 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920332/65 第三百四十四號○年中祭リ祝日等ノ休暇日左ノ通候條、此旨布告候事 明治六年十月十四日 太政大臣 三條實美 (後略) 明治六年十一月 ・<67/317>(85頁) 4段目 〔一一・二、東京日日〕 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920332/67 天長節は御祭禮にあらず 明三日天長節に付、府下一般門には旗章を揚げ擧て之を祝せり。 去年迄は思ひ思ひにて出すもあり、出さゞるもありしが、 本年に至りては横町小路の別なきに至る。…(後略) 明治六年十一月 ・<70/317>(91頁) 1・2段目 〔一一・…、新聞雜誌一六二〕 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920332/70 天長節を辨へざる者あり 天長節ハ恐コクモ聖上ノ御誕辰ナレバ、此日ノ本邦率土ノ濱ニ至ル迄、 萬民業ヲ休ミ、軒毎ニ日章旗ヲ揭ゲ、正衣ヲ着ケ、酒筵ヲ設ケ、老若男女打集リ、 上ハ天長無窮ヲ賀シ、下ハ我身聖恩ニ沐浴スルヲ感佩シ奉ルベキニ、…(後略) 明治六年十二月 ・<74/317>(98頁) 2・3段目 〔一二・二六、東京日日〕 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920332/74 海軍旗章 増補更正 第百四十六號 (中略) 明治六年十二月廿四日 右大臣 岩倉具視 明治七年二月(皇紀2534/西暦1874) ・<86/317>(123頁) 1・2段目 〔二・九、郵便報知〕 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920332/86 旗日布告畫とき 國旗を製して戸毎にくばる 聖上の威德を光昭するに、祝祭より大なるはなし、然るに僻地寒村に至りては舊態を存し、 往々右御祝祭日を知らざる者も有り、啻(※ただ)に布告のみにては細民了解しがたきものにして、 之を諭すに形を以てし、之を諭すに畫を以てす、 筑摩縣官員意を爰に止め、豫て許可を得て日章國旗を製し、(中略) 本年第一月一日戸々樹て並べ、萬竿空を指し、旗畫朝暾に映じ、 其旗影を被て人民正を賀し、戸々萬萬歳を唱したりといふ。 明治七年十一月 ・<138/317>(226頁) 4・5段目 〔一一・四、郵便報知〕 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920332/138 國旗揭揚日 番外〔市在區々長戸長へ〕 御祝日等の節下方申合にて、毎戸軒先へ御國旗の雛形を相揭候儀は差許置候處、 右定日は昨六年太政官第三百四十四號御布告に基き、 左の御祭日御祝日に限り候儀と可相心得、此旨一般へ可相達候事。(後略) 明治八年一月(皇紀2535/西暦1875) ・<157/317>(265頁) 1段目 〔一・五、東京日日〕 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920332/157 淺黃地や紫地で 妙な日の丸の旗 (後略) 明治八年九月 ・<223/317>(397頁) 4・5段目 〔九・一八、東京日日〕 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920332/223 國旗揭揚不徹底 (後略) 明治九年三月(皇紀2536/西暦1876) ・<277/317>(505頁) 2段目 〔三・二三、東京曙〕 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920332/277 布告の速達配布 (中略) 是では今迄のやうには御布告を見た事も無く しらずしらず違令になるやうな事はありますまい。(日日新聞) 明治九年六月 ・<301/317>(552頁) 1・2段目 〔六・五、東京曙〕 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920332/301 草加宿で 田植天覽 (中略) 同宿にては毎戸の軒先に日章の國旗を揭げ、同じ提灯を燈したる景況にも 人民の喜悦思ひ知るべきことにこそ。(後略) ・<301/317>(552頁) 3・4段目 〔六・六、東京曙〕 道に御輦を留めさせられ 今日も田植を天覽 (中略) 御道筋へ拝見の老少男女群集し、 毎戸日章の旗を揭げしはいづれの宿驛もかはることなし。

kouki-koureisya
質問者

お礼

いつも的確な情報を教えて下さって誠にありがとうございます。 今回もこれだけ多くの有意義な情報を頂いたのですから、きちんと纏めなければdayone様に申し訳ないと思っています。 ところが『新聞集成明治編年史』が面白くて寄り道ばかりしていたものですから、お礼を申し上げるのが遅くなってしまいました。 私の質問は、「村の隅々まで、子どもでもたいてい知っているようになったのは、いつ頃からですか」ということですが、この質問は、大人は知っていることを前提としていました。 まず、この前提の間違いに気付きました。 子どもは学校で教わって日の丸を知っていたが、農山漁村に暮らす大人たちは、子どもから聞いたのではないか、あるいは村役場で日の丸を見る機会よりも近くの学校の行事で日の丸を見たことの方が多いのではないか、と思いつきました。 もちろん、dayone様の回答を読んでのことですが。 そのように考えていた矢先に#6のご回答が来ました。 まだ情報を整理しきれず、答えを出していないのですが、子どもたちに焦点を合わせてみようと、次の資料に注目しました。 〇『尋常小学修身教本.巻1,4/育英舎編輯所編/育英舎/明34.6』 <30・31/33>(27丁裏~28丁裏)「第二十八課 日の丸の旗」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/757299/31 明治33年8月に改正教育令が発布され,授業料が無償化されたので、その後就学率が急速に90%以上に上がっています。 途中で退学することも多かったようですが、それはさておき、この「修身教本」で日の丸の教育が行われていたはずですから、この頃には村の隅々までたいていの子どもが日の丸を知っていただろうと推測できます。 さて、主題は質問テーマのとおり「一般民衆に周知されたのはいつ?」ということですが、 #4,5、6のご回答をよく読みながら、これから纏めてみようと思います。 とりあえず、現状を報告しました。

  • dayone
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回答No.4

連続投稿は控えようと思いながらも、いつも興味深い御質問が続きますので、 ついつい投稿に至った次第でございます^^ 明治時代とおっしゃりながらも、日清ではなく日露戦争とありますことから、 既に下記URLなどは御確認済かもしれませんが、今回は下記を叩き台にしてみました。 (ただ下記URLの論旨は・・・ですから、事実部分のみ拾い上げるのが無難かもしれません) ・「戦争における日の丸と新聞報道―1937年から1945年を中心に―/高潤香」 『東アジア研究(大阪経済法科大学アジア研究所)第58号/2013年』(1-21頁) http://www.keiho-u.ac.jp/research/asia/bulletin/pdf/asia_58.pdf 第1章 明治、大正時代の戦争における日の丸と新聞報道 <3~5/116> 上記で言い得る事は、明治6・7年頃には日章旗には使用制限があったこと、 日清戦争当時少なくとも外地では日章旗ではなく旭日旗が主であったこと、 日露戦争当時に至っては日章旗が主になったということでしょうか。 (これだけでは、明治7~27・28年の間と明治27・28~37・38年の間の状況が何も分かりません) 続きまして、少しでも空白期間を埋めるべく、他(WEB限定)を当たってみましたところ、 幾つかの断片情報が得られ、どうも内地では上記とは違った風景も見えるようです。 ・写真は出来事をどのようにとらえてきたか/木下直之 写真の中の出来事 <7/14> (※残念ながら肝心の写真は無いようですが、文章から日の丸が浮かびます。) http://www.himoji.jp/jp/publication/pdf/symposium/No01/001-014.pdf もう1点の写真は、明治22年(1889)2月11日の大日本帝国憲法発布を祝う東京市内の様子を 撮影したものである。ファルサーリの遺品(個人蔵)の中から見つかった。 …憲法発布の祝典写真は、東京のどこで撮影されたかは分からない。 …通りいっぱいに渡された日の丸の扇面、その背後に交差するやはり大きな日の丸の旗、 両側の町家の軒先にずらりと吊された提灯(そこにも日の丸)、… 〇野田市立図書館>電子資料室>所蔵資料紹介>錦絵 日清戦争 http://www.library-noda.jp/homepage/digilib/bunkazai/b.html ・b46 聖賀還幸市民奉迎之図<発行:刊年不詳> ・b47 凱旋御着輦之図<画:楊斎延一/発行:並川善六/(明治28年)刊) 〇ミスター労働運動>奥が深いぞ、労働運動(明治時代の労働運動史) http://roudouundoumeiji.com/rekisi-1.html ・労働者大懇親会(明治34年4月3日 東京・向島)『風俗画報』 明治34年の写真2枚のうち上の方の写真には日章旗が点在している様子。 〇『尋常小学修身書.第2学年用/文部省編/熊谷久栄堂[ほか]/明37.1』 <29・30/40>(50~52頁)「第二十一 日の丸の旗」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/811275/29 上記によれば(日露戦争開戦以前から)既に祝祭日には学校、家々では日の丸を立てていたと。 限られた範囲内の断片情報ですから即断は禁物ですが、 No.3の ichikawaseiji 様の御回答のとおり、 当時の現実社会では思いの外、早くから日章旗の普及が伺えますので、 明治五(1872)九月十二日(新暦10月14日)の新橋・横浜間の鉄道開業式から 明治22(1889)年2月11日の大日本帝国憲法発布の間の期間を重点的に 調べる必要がありそうですね。 ただ如何せん、この期間は写真が一般的ではありませんので大変です(><) あとは、尋常小学校の教科書・教本等を大雑把に調べた上での管見に過ぎませんが、 明治20年代は日章旗にはあまり触れられず、 明治30年代に入ると一部には日章旗の項目が有る反面、触れられないものも多数、 明治37年4月からの教科書国定制度導入以後は、 教科に関わらず日章旗の項目が顕著な様子が伺えます結果、 現実社会よりは少し後れていたのかもしれません。 (※さすがに調べた全てを貼り付けることはできませんので、 下記URLはほんの一例に過ぎないことに御留意下さい。) ・『尋常小學讀本:小學校教科用書.1/文部省編輯局/大日本圖書/(※明治20)1887.5』 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1735728/19 <19/49>(17丁裏)第十四課 …その舟は、ほかけ舟にて、日のまるのはたを立てゝあります。<挿絵> ×『尋常小学修身訓.「生徒用」/大和田建樹著/有正館/明25.9』 <19/21>(28丁裏・29丁表)第十六 ○てんしさまは。つゝしみて はいすべし。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/756422/19 〇『尋常小学修身教本.巻1,4/育英舎編輯所編/育英舎/明34.6』 <30・31/33>(27丁裏~28丁裏)「第二十八課 日の丸の旗」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/757299/31 〇『新定尋常小学毛筆画教授書. 上巻/肥後盛熊著/弘道館/明43.5』 尋常科第一学年 ・(19頁)<12/124>第一学期 第四週 第一図 一の四 旗 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/811928/12  <34/124>第一図 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/811928/34 ・(51頁)<28/124>第三学期 第一週 第八図 三の一 門松と国旗 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/811928/28  <41/124>第八図 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/811928/41 尋常科第二学年 ・(98頁)<62/124>第三学期 第一週 第八図 三の一 正月 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/811928/62  <74/124>第八図 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/811928/74 尋常科第三学年 ・(142・143頁)<94/124>第一学期 第十一週 第六(※十)図 国旗 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/811928/94 肝心の「明治五年九月十二日~明治22(1889)年2月11日」の間は未着手ですが、 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

noname#224207
noname#224207
回答No.3

1872年(明治5年)8月3日に学校制度が定められ順次全国に小学校(尋常小学校)が設けられました。 それに先立ち1870年2月27日(明治3年1月27日)に商船規則(明治3年太政官布告第57号)が布告されました。 その中で「御国旗」として記載されています。 学校では、藩幕制度に替わる「日本」という国家制度を教えました。 その「日本」という国家の旗印として日の丸が教えられたと思います。 紋章や旗印というのは、当時の人達にとっては最も理解し易い象徴であったでしょう。 まさか官軍の象徴である錦の御旗という訳にはいきません。 菊花の紋章を私的に使用することは慶応4年に既に禁止されています。 明治元年十一月に天皇から庶民に対して酒が下賜されました。(御酒下され) この際の錦絵に日の丸をデザインした祝賀の幟が描かれています。 日の丸というのは非常に古いデザインで、交易に携わる船舶が所属国を表す旗として、記録的には17世紀の絵画に既に認められます。 外国と接触したときに、国旗というのは必要であるとともに最も強く意識される象徴です。 ということで、明治以降非常に早い時期に普及していたと思います。 普及が進んでいた結果、ごくごく当たり前のことだったので、敢えて記録されることもなかったのかと思います。 日の丸が神聖視されるのは、昭和初期の軍閥が喧伝していた僅かな期間だけです。 フランス料理店やイタリヤレストランが気楽に国旗を店の前に飾ったり、星条旗を洋服や装身具のデザインに使うように、国旗というものは本来極めて身近なものです。 反日運動などで象徴として扱われる現象や、昭和初期の日本史上も異常な時代を基準に考えると誤判断の基になるかと思います。 外交上他国の国旗を丁寧に扱うのは、あくまでも相手国の象徴であるということに依ります。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >外国と接触したときに、国旗というのは必要であるとともに最も強く意識される象徴です。 >ということで、明治以降非常に早い時期に普及していたと思います。 同感です。 しかし、官の認識はそうでしょうが、電気も新聞もない田舎暮らしの「民」にとっては、国旗など、なんの必要性もないでしょう。 日の丸の意識が、「村の隅々まで、子どもでもたいてい知っているようになったのは、いつ頃からですか」という疑問です。 都会では、「明治以降非常に早い時期に普及していた」でしょう。 >その「日本」という国家の旗印として日の丸が教えられたと思います。 同感です。 しかし、小学校ができても初期は就学率が低く、wikiによれば1890年(明治23年)に49%です。 もし、小学校で日の丸を教えておれば、この頃、村の子どもたちのほとんどが日の丸を知っていたと推測できるのかな、と思っていました。 そこで、小学校の教科書とか、国旗掲揚ポールとか、村役場に日の丸があったとか、そんな事実を積み重ねて推測できれば、という願いです。

  • mm058114
  • ベストアンサー率30% (102/337)
回答No.2

こんにちは。 >村の隅々まで、子どもでもたいてい「日の丸」を知っているように、いつ頃からですか。 日露戦争戦勝の帰国の時には、完全に周知されていたでしょう。。 日露の出征時は、スパイ防止の秘密秘匿の為、日中戦争の様な盛大な見送りは、禁止されていましたが、日露戦争の凱旋門周辺で、日の丸の小旗を振る市民の写真があります。 東京市電の前身では、花電車も走っています。 日清戦争後の臥薪嘗胆の新聞イラストにも、日の丸が書かれて気がしますが、正確な資料が見当たりません。 日露戦争中の日本軍の進軍イラストに、日の丸が使われていたかもしれません。 全国人の周知と言うと、やはり、日露戦争の凱旋門パレード、観艦式ではないでしょうか。 >明治時代、小学校で「日の丸」を教えていましたか。 資料がなくてゴメンナサイ。 でも、天皇陛下の御真影には、日の丸ついていたのではないでしょうか?! >日露戦争では「日の丸」はどのように扱われたのですか。 海軍では、完全な消耗品です。 これは、昭和に至るまで、そのままです。 陸軍では、見方識別、勢力圏の象徴。 旅順要塞陥落時に、兵士達が日の丸と万歳している写真があります。 また、時期は不明ですが、大隊旗としても、日の丸が用いられました。 出征兵士の為に、日の丸に寄せ書きする様になったのは、満洲事変以後の事ではないでしょうか? 答えになっていなかったら、ゴメンナサイ。

kouki-koureisya
質問者

お礼

数々の事例を教えて下さってありがとうございます。 図書館に「明治の写真集」がありますので調べてみます。 家に居て、パソコンだけで解決しようとしたのは、虫が良すぎますね。 日露戦争の凱旋門パレード、東京の花電車、陛下の御真影、旅順要塞陥落時など興味があります。 これまでにも度々見た写真集ですが、今度は「日の丸」に注目して探してみます。

  • ssssan
  • ベストアンサー率18% (132/730)
回答No.1

正確には分りませんが日清.日露戦争の頃からと推測します、旭日旗と日章旗は国民一丸で無いと国が消滅するかの状態ですので出征兵士を送る時は皆小旗持って送り出しただろうし、戦果上げたり、凱旋帰国すれば日章旗を振って歓迎しただろうし、この二回の大戦で国旗は認知されたンジャないかなー、もう昭和に入ったら殆どの家は祝日に国旗を立てるし家にも小さい時は有りました。 日ノ丸はソモソモ貿易船の万国に日本船と知らせる為の物で国際基準で何らかの旗掲げる必要有ったからです通商の場で。 で日ノ丸デザインは日高見国からです、日本の由来も勿論太陽がモチーフですが。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 日清、日露戦争の写真や絵をwebで探してみたのですが、旭日旗はよく見かけますが、日章旗(日の丸)は見つからなかったので質問しました。 出征兵士を見送ったり、兵士が凱旋帰国したりした場合には、日章旗の出番だと思いますが、なかなか見つかりません。

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