ベストアンサー 江戸時代の元号の文字 画像あり 2013/10/13 00:15 添付は、私の先祖(たぶん江戸時代の後期)が、将来の子孫のために、その子孫が亡くなった際の戒名を付けるルールを予め寺と定めたものです。大金を支払い、戒名の文字数の確保や、戒名の下二文字のルールを決めたそうです。 その寺からの許容書の実際の画像です。 左には、元号が見えます。十二月の前は 何と云う元号でしょうか 八良衛門 は 私の先祖の名前です また、他の文字も読めれば 教えてください 画像を拡大する みんなの回答 (1) 専門家の回答 質問者が選んだベストアンサー ベストアンサー ithi ベストアンサー率20% (1972/9601) 2013/10/13 00:45 回答No.1 rodste さん、こんばんわ。 たぶん、慶応二寅の年と書かれていると思います。 後半の部分ですが、「永世に○○○居士、大姉を許容せしむものなり。」でしょうか? 質問者 お礼 2013/10/20 00:39 寅ですね。慶応ということであれば、辻褄が合います 他の部分も回答ありがとうございます 通報する ありがとう 0 カテゴリ 学問・教育人文・社会科学歴史 関連するQ&A 戒名について 先日父が亡くなり、葬儀および初七日まで終わりました。 ここで質問させていただきます。 先祖代々戒名には清居士とついていましたが、父には清の文字がありませんでした。葬儀の翌日お墓参りにいって先祖の墓誌と見比べて、今までと一文字足りないと母が「取り返しのつかないことをしてしまった」と気に病んでいます。 葬儀の時に清の無い戒名でお経を読んでもらいましが、戒名はこれからお寺にお願いして、清をつけてもらえるでしょうか?ちなみにお寺の都合で葬儀後のお寺へのお礼参りはしていません。来週の日曜日に行くことになりました。 戒名に清をつけていただくことが可能であれば、どの時期にお願いすればよいか?また、お礼参りはいかほどなのでしょうか?地域により答えはないのはわかっていますが、どうしていいのか悩んでいます。 宗派は曹洞宗です。 よろしくおねがいします。 戒名の変更について 父の戒名についてですが、先祖より位が高すぎると言う理由で、母がお坊さんに変更を申し出ています。戒名は、「・・大心院・・・・居士位」であり、「院」の文字と12文字数が気になっているようです。亡き父は、お寺の総代(一般人)でもあり、いわば住職の育ての親のような存在であったため立派な戒名が与えられたと思います。私は現在の戒名を変えること自体が良くないと思っているため、母と意見が合いません。どっちが正しいのでしょうか。 戒名から家系調査をしています たまたま実家に帰ったときに過去帳を見つけたのをきっかけに、家系調査をやってみようと思いつきました。戒名から、先ず調べようと思い調べてみたところ疑問が出てきましたので皆様に御質問させてください。 過去帳の情報 宗派は曹洞宗です。過去帳に載っている、最も古い御先祖様は元文5年(1740年)没でした。この御先祖から、30年ごとくらいに10代分載っています。 ※庭にある祠?の中にあった木(8角形で20cmくらいの木の棒)には、戒名と宝永3年(1707年)という記載がありました。庶民が家に仏壇を奉り、先祖供養をするようになったのは、元禄時代1688~1704年くらいからだそうで、当時としてはハイカラな家だったのかもしれません。 最初のご先祖様の戒名は位号が耕司(6文字)となっていて不自然です。その次の代は禅定門(6文字)となり、以降2代が居士(6文字)。次に、明治に入って明治12年に「玉實もしくは、玉宝」という軒号がついて9文字居士、明治5年没のご先祖様は院号で9文字居士(記載の順番が逆になっておりこのような書き方です。)以降は9文字院号居士の戒名です。 以上から、ご先祖様についての類推をしています。私は、2代目の禅定門の方以降居士となっているので、2代目が出家か何かして徳を得て以降居士となり、明治に入り、当時恐らく裕福だった御先祖が寺にお布施をして院号をもらったのではないかと考えております。 長々と駄文申し訳ありません。本題の疑問です。 (1)調べたところ文久の時代くらいに、徳川家が法令で農民町民に居士をつけることを禁じたとなっていますが、代々農民と聞いている御先祖に江戸時代中期に居士がついています。これは、田舎だから法令があまり適用されていないということでしょうか。それとも、一応、私の家の苗字の鎌倉武士が近くにかつて存在し、調べたところ江戸時代には帰農していたとの事なので元武士ということで居士をつけていただいたのでしょうか。 (2)明治初期のご先祖様に一人、「玉實もしくは、玉宝」(二つ書いているのは前者が過去帳、後者が仏壇に書いてあったからです)という軒号がついているご先祖様がいるのですがこれは、単に金持ちだと言うことを示しているのでしょうか。 何でもいいので教えていただけないでしょうか。また、過去帳の情報から別の推測があるかたは教えていただけないでしょうか。長文、重ね重ねすみません。 現代日本の政治家でもっとも家柄がいいのは? だれでしょうか? ここでは家柄がいいと言うのは、父が総理とか、4代続けて国会議員とか言うようなことでなく、江戸時代以前に先祖の身分が高かったというような意味でお願いします。 だから大久保利通の子孫の麻生太郎も、江戸時代以前の身分で言うと、そんなに高くないと言うことになります。 ぱっと思いつくところでは細川護煕がいますが、彼はもう一線を退いていますので、現役議員で良血の方か、或いは引退したご存命の政治家で細川護煕以上に血筋のいい人を教えてください。 戒名にも通字はあるのでしょうか? 私事ですけど、江戸時代の直系先祖の戒名が道善.道臨.道意.道盛.道徹…と「道」の字が入っていて、諱の通字とは全然違います。 分家のほうは戒名に同世代の本家の道号が一文字入っているようです。 なんか住職の手抜きのような気もしないではないのですが…こういう事はよくあったのでしょうか。 明治以降はまちまちの戒名になってます。宗派は真言です。 詳しい方、教えてください。 供養塔 延享、江戸中期の供養塔。この供養塔には逆修、90歳と書いてあります 下のほうに本人の苗字ありで名前が小さく書いてあります 逆修となってますので90歳よりもっと長生きした可能性もあります 供養塔に書かれた文を読むと、どうやら、先祖と先に亡くなった奥さんのために建てられたものと推測します ただ親は伝承で武士だったと言ってますが、農村ですし、戒名の下に書かれてるのは信士ですし、実際の所どうなんでしょう? 寺の入り口の道の脇に建ってます 江戸時代の人は元号を言えたか 以前どこかで前世療法というものの動画を見た際、前世にもどったひとに「年号は何年ですか」と質問すると、「安永○年」とか「天明○年」と、“前世”の人が答えていました。 最近思い返してふと疑問に思ったのですが、江戸時代の人はその時々の元号を知っていたのですか? 知っていたとすると、元号が変わったときはどのようにしてその情報が伝わったのでしょう? ちょっと不思議に思いました。 ざっくりしていますがお答えいただければ幸いです。 江戸の元号について 江戸時代の人って元号・年号を元禄の前が何でと言う具合に暗唱してたのですか?まあ自分の生きてた元号ぐらい。 立正佼成会について よく分からないので教えてください。 主人の母が立正佼成会に入信しています。 これは結婚後に実家に行った時に日めくりとかに 「佼成」の文字が入っていることに気づき、 主人に確認したところ母だけ入信していて 他の家族は入信していないし、父はいまだに大反対している。 とのことでした。 その時は、母のみが入信しているだけなら「信仰の自由」と思い、 別に気にしませんでした。 父が病で入退院を繰り返し、一時退院で自宅療養している時に、 体が思うようにならない苛立ちともとからの亭主関白で母にワガママを 言っていたようなのです。その時に母の信仰友達(?)が何人か 父のベットの周りにきて「先祖を敬わないから良くならない」とか なんやらかんやらと寝起きもままならなかった父に説法を説いた らしいのです。 それを母が誇らしげに話していたのですが、 私はその頃から少し理解できなくなっていました。 なぜ枕元まで父が反対している宗教の方々が押し寄せて 説法されなければならないのか・・・ 父は亡くなりました。 それを機に母は信仰を表に出してきているような気がします。 お墓を作っている最中なのでまだ父の遺骨は自宅あるのですが、 父の遺骨の前よりも母の信仰の祭壇の方がお供えもののほかきれいに なっています。 父は父の実家の宗派である宗派の葬儀をし、お墓もその宗派の お寺の墓地に作っているところなのですが、僧侶が月命日などで お経をあげに自宅に来てくださるときも祭壇を大きく開き、 ろうそくをつけて一緒に拝んでいます。 これについては別の宗教の方が来ている時に そちらも・・・というのは私は失礼なのでは?と思っています。 あと、お寺がつけてくださった戒名の他に佼成会の方がつけた戒名が 存在するらしく、父の戒名とは全く別の戒名が供養されていました。 それだけでも理解に苦しんでいたところなのですが、 先日父の遺骨にてを合わせに行った時に見つけてしまったのですが、 主人の実家の先祖だけでなく、私の姓が書いてあり私の先祖も 供養されていたことです。 主人は婿養子なので私の姓を現在名乗っています。 母の信仰心をとがめたこともないですし、そのつもりもないです。 ただ、嫌がっていた父にそちらの戒名をつけたり、 全く関係のない私の先祖まで勝手に供養されるのははっきり言って 理解不能ですし、迷惑です。 亡くなった人の戒名以外にも生きている人にも別の名前を付けている ようなこともちらっと聞きましたが本当なのでしょうか? 私から直に母に聞いたことはありません。 ただ、どんどん装飾物が増えているような気がするのでお金が かかっているものでしょうから気になります。 何も知識がないので「立正佼成会」とはどのような活動を されているのか教えていただきたいと思っています。 時代と元号 江戸時代は年号が変わっても江戸時代と呼ばれ続けるのに対し、明治以降は明治時代、大正時代、昭和時代と呼ばれるのはなぜですか。天皇崩御で特に大きく変わったわけではなく、時代を分けるのなら1945/8/15で分ける方が理にかなっています。 位牌の一部に読めない漢字があり、気になっております。 江戸~明治期の位牌で読めない漢字があり、気になっています。 A:『上(かんむり)+爪+禾+弋(点無し)』 雰囲気は「氣」の異体字のような感じ 戒名:腰寛蜜A清信女霊位 B:『帝-冖真ん中のうかんむり(へん)+龍-立月(つくり) 雰囲気は「龍」の異体字のような感じ 戒名:B屋徹範清信女位 (いたらない説明で申し訳ありません。。。;;) 画像を添付しようとしましたが、どうやってもUPされないので 外部アップローダを使用しました。下記URLから見れると思います。 http://www3.uploda.org/uporg1932508.jpg 画像の漢字は自分が見た雰囲気で構成してます。 位牌自体は~幕末頃(推定) 近隣にあったお寺は禅宗だそうで、幕末に廃寺に なっているようです。 (先祖が禅宗だったかはわかりません。) 明治初頭から神道霊号にかわっています。 どういう意味を持つ漢字で 実際にその漢字は存在、使用されているのか(戒名の意味合いも) 気になります。 どなたかお詳しい方、ご教授願います。(-人-) 墓を返却したい・・・出来るでしょうか?(長文です) 実家の父からの相談です。 先祖代々の墓があります。 父は養子で、養子に入ってすぐ、こちら側の親類から「○○廟に、先祖代々の墓があるらしい」と聞き、その親類たちと○○廟の墓地に探しに行ったそうです。古くからある大きな宗派のとても広い墓地です。 それは昭和30年代初めの話で、その頃○○廟には、無縁墓を示す標識が付けられた墓石がたくさんあったと聞きました。(無縁墓は今でも幾つか見られます) そのたくさんの無縁墓の中から、親戚の人(故人)が見つけたのが今の実家の先祖代々墓なのです。 その墓石は江戸時代中期のもので、「先祖からの言い伝え通り」実家の菩提寺である寺の墓のそばにあったのと、墓石に刻まれている地名(旧国名)と人名(戒名ではない)が先祖の一人と合致すること、などから、 当時、その親戚の人が「この墓に間違いない」と届け出て、以降、実家の「先祖の墓」となってきた・・・という経緯があったことを、私は最近知りました。 それから半世紀以上たち、老いた父にとっては、この先祖墓が悩みの種になっているのです。 実は、墓石に彫られた屋号、家紋は、実家のそれとは異なっています。それで父は、母が亡くなった後、その墓地に納骨しませんでした。(一家の墓は、地元の共同墓地にあり、こちらの方が古いものです) 最近弱ってきた父が私に「あの○○廟の墓は返そうと思う」との相談をしてきました。 先祖墓になってからは、その墓には納骨は一度も行っていません。年に数回の墓参と、毎年の納金(管理費や協力金など)は欠かさず行ってはおります。 実家の次の代である弟(長男)も、墓を返却することに対しては、「自分には重荷になるし、無くても構わない」と言っています。 ただ、親戚の一部に「檀家総代をしたこともあるような家が、そういうことはすべきでない」と意見する人もいます。 だらだらと書いてしまいましたが、 「本当に先祖の墓なのか疑問がある、という理由で、先祖墓を返却することは可能なのでしょうか」 というのが、質問です。 宜しくお願いいたします。 輪+七宝+轡という家紋、または類似の家紋の情報、お使いの方の苗字、町村 輪+七宝+轡という家紋、または類似の家紋の情報、お使いの方の苗字、町村などを教えてください。 この家紋の詳細は、一番外側が、中輪、その中に、石持ち地抜きの七宝、中心に、地抜きの轡、を配置したものです。 じつは、私は群馬県西部のある村の出身ですが、先祖がどこから来たのか調べています。墓地にある先祖の墓石年号から、少なくとも江戸時代後期頃までには、その地に住み着いていたものと推定していますが、戸籍や寺の記録も手がかりなしです。 そこで今は、家紋や苗字を手がかりに調査しています。実家の近隣は農家で、同姓の親戚の家が集まって集落をなしています。他の地域からの移住を考えて、群馬県西部で同姓の同様の集落の家紋を、20集落ほど見ましたが、類似のものはありませんでした。 また、ネットでかなり調べても、部品は出ているのですが、家紋としては類似のものも含めて見つかりません。そこで今では、この家紋は、先祖が独自に採用したものかも、と思い始めています。この場合、家紋を手がかりにして先祖がどこから来たのか調べるのは無理になってしまうのですが。 そこで、この家紋の何かの情報が得られないものかと、期待している次第です。どうかよろしくお願い申しあげます。 八代将軍吉宗の母?側室?娘? 我が家の家系図を調べていたところ過去帳に下記人物が記載されていました 戒名「唯常院妙宣日説大姉」 中村平八祖母鳴尾 没正徳元年辛卯十二月十一日(1711年) 右ノ墓石ハ紀州五代太守八代将軍吉宗公ノ御建立 お寺は和歌山の報恩寺です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%B1%E6%81%A9%E5%AF%BA_(%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%B8%82) 先祖は紀州徳川家に仕えていた(らしい)のですが、調べようもなく困っております。 なにかの手がかりになればと思い質問させて頂きます。 関連があるかわかりませんが下記も記載されていました。 戒名「秋月院風山道雲居志」 唯常院様御志霊 没寛文六丙午八月二日(1666年) 過去帳に記載されている人物は古い順に 中村藤吉 中村※七 ※草かんむりに勝 中村平八 中村九右衛門 中村三郎兵衛 中村善良 中村新十郎 中村新十良 ※きりが無いのでこのへんで 江戸時代の絵文字? 江戸時代頃、文字を読めない人の為に、 「かまわぬ」の「かま」を農具の鎌の絵で置き換えたり、 「あります」の「ます」を升の絵で置き換えて わかりやすくした暦や文などがありましたが その絵を含んだ暦や、文献、あるいは、 この絵と文字との相関関係などが判るようなサイトを教えてください。 江戸時代の看板文字 江戸時代の看板文字は雨でにじんだり、落ちたりしないよう何か混ぜて書いてるのでしたっけ? 鎌倉時代の元号について教えてください。 鎌倉時代に天皇が変わっていないのに元号が頻繁に 変わっているのはなぜですか? 例えば 西暦1260年 文応元年 西暦1261年 弘長元年 西暦1264年 文永元年 と4年間に3つも元号が変わっています。この間、天皇は亀山と言う天皇だと思います。なぜこのような事が起こるのか詳しく教えて下さい。 江戸時代から明治時代なり江戸時代とどう変わったか 社会の調べ学習をやっていて、江戸幕府から明治維新への移り変わりを調べているのですが…分からないことがあるので分かる人は回答をお願いします。江戸幕府の時代から明治維新の時代になって、江戸幕府の時代とどう変わったのですか?お願いします。 江戸時代ってどういった時代でしょう⋯ タイトルにもある通り、どんな時代なのか分かりやすく教えてください。 また、江戸時代は封建社会が崩れ落ち、明治から大正時代にかけて民主主義の国になったのでしょうか、答えて頂きたいです。ぜひよろしくお願いします。 江戸時代について 江戸時代って何で、なんで260年も続いたんですか。
お礼
寅ですね。慶応ということであれば、辻褄が合います 他の部分も回答ありがとうございます