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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:認識が存在に先行するか?)

存在と認識の関係について

noname#194289の回答

noname#194289
noname#194289
回答No.2

熱力学第2法則(エントロピー増大則)は認識や意思がなくても現象の存在を保証していると思います。現象の中にはエントロピーが減少するものもあります。この場合時間が逆行しているかのようです。生物は、このような時間逆行現象の特別なものだろうと思います。自分の状態を認識しながら、時間を逆行させて過去に自分に戻っています。人間は体が時間を逆行させていることを認識しています。

bragelonne
質問者

お礼

 かいたら1さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  わたしには 残念ながらちょっとむつかしいところもあるのですが    ○ 認識は 存在に先行するものではない。  というご見解であると受け取ってよろしいでしょうか。  ★ 生物は、このような時間逆行現象の特別なものだろうと思います。  ★ 人間は 体が時間を逆行させていることを認識しています。  ☆ モノとは違う存在として 生物なかんづく人間について 例証されたと受け取ってよいでしょうか。  ★ 自分の状態を認識しながら、時間を逆行させて過去の自分に戻っています。  ☆ これは 重要なご指摘であり その内容も 重要な要素だと思います。  モノと違って 《言葉を持ち 思惟および行動の軌跡としての歴史をも持つ》存在である人間にとって われに立ち帰るという要素が 《時間を逆行させて過去の自分に戻》るという以上の重みを持つものと考えます。    つまりは 《自分の状態を認識しながら》と指摘されたところ ここが肝心だと思います。  たぶん・おそらく 童心や赤ん坊の心といった《自然本性のままの我れに立ち帰る》というのは おのれの意志とその努力だけでは無理なのではないかと考えるのですが――つまり 或る種のヒラメキがあたえられるのでなければ なかなかむつかしいと考えるのですが―― それでもそのヒラメキを得たならば あらたなワタシとして思惟し行動するというのも 意志による こうも考えます。  この意志が 《自分の状態を認識しながら》を引っ張って行くものと思います。  このような意志行為の歴史が いかんせん・かなしいかな うつろいゆかざるを得ない性質をまぬかれない。このことも 考慮に入れる必要があるのでしょうが だからと言って この意志の実存行為がすべてモノに帰すると 悲観し絶望するのも早計である。こう考えます。  この考えは 無根拠にもとづくものなのですが。つまり 無根拠を根拠とすることほど うつろい行かないことはない。とも考えられます。  ありがとうございました。

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