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慶喜公と容保公は名君?迷君?

yy1122の回答

  • yy1122
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回答No.7

後世の人は「誰々は名君だった」などとよく言いますが、私はいつも違和感を覚えます。 慶喜公と容保公は頭脳明晰だとも思いません。 慶喜公は、いったん自分が不利になるとただ右往左往して、頭が良かったからか(?)必死になってそこから逃げたまでのことです。 大勢の部下を見殺しにしてでも、自分の身の安全しか考えなかった慶喜公は、私の一番嫌いな人物です。知れば知るほど嫌いになります。 明治になってしばらくしてからそれらのことを問われて、慶喜公は「あの時は誰がやってもあのようにするしかなかった」、などと他人事のように話しております。 幕末には有能な人物を斬首や切腹という形で大勢失っております。 容保公も慶喜公ほどではないかもしれませんが、似たようなものと思います。 江戸時代はその人の能力よりも門閥(家柄)を重んじていたので容保公が京都守護職を請われました。 しかし、会津の西郷頼母は「殿はそのような器でないから断るように」、と必死になって再三進言したそうです。 容保公は門閥上、断れなかったのか、あるいは権力に惹かれたのか分かりません。 学校では幕末の歴史について詳しく教わっていなかったので、私は40代後半から10年以上独学で勉強してやっと自分なりにいろいろな謎が解けました。 坂本竜馬や西郷隆盛にしても他人が考えたことをまるで自分の考えであるかのように行動しており、ただの目立ちたがり屋だったのかもしれません。 歴史上の人物評価は実際以上にもの凄く高い評価になりますから、鵜呑みにせずにいろいろと自分で調べた方が宜しいかと思います。

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