戦時中のズルチンとサッカリンの使用状況について

このQ&Aのポイント
  • 戦時中の食糧難の時代に、ズルチンやサッカリンが砂糖の代用品として使用されていたが、具体的な使用人数は不明です。
  • 戦後は両甘味料が安価であったため、生活に欠かせない存在として親しまれましたが、発ガン性の疑いが発見されるまで知られていませんでした。
  • 戦時中の砂糖の統制による価格高騰については具体的な情報はありませんが、ズルチンとサッカリンは砂糖代わりとして頻繁に使用されていた可能性もあります。
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ズルチンとサッカリン

こんにちは。 再び登場してしまいました(^^) またしても疑問が出てきたのです。 戦時中、食糧難の時代に、ズルチンやサッカリンを 砂糖の代用品として使用したということを知ったのですが、 どれくらいの人達が使用していたのでしょうか? 戦後は安価ということで両甘味料とも発ガン性の 疑いが発見されるまでは生活に欠かせないものとして 親しまれたとのことですが、 やはり砂糖が統制された戦時中では、 価格が高騰して貴重品の類に入っていたのでしょうか? それとも、高騰することなく、砂糖代わりということで頻繁に料理に使用されたのでしょうか? ご存知の方がおられましたら、宜しくお願いします。

noname#86044
noname#86044
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回答No.1

代用品でも貴重品でした。

noname#86044
質問者

お礼

有難うございました。 貴重品だったということは、やはり、特別な行事のとき以外は使用しなかった、ということでしょうか? 何故、このような質問をしましたかと言いますと、最近、戦時中にサッカリンを量り売りしていた人達がいたという話を聞いたからなのです。 それで興味を持って母に聞いたところ、戦時中の事は知らないが、サッカリンなら戦後は店の棚に安価な砂糖の代用品として並んでいて、祖母が頻繁に使用していた、という話を聞きました。 安価ということで戦後親しまれたサッカリンが量り売りされているというのが、どうしても合点がいかなかったもので。

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