• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:悪の共同自治にあたってわれわれは 協力しうるか)

悪の共同自治についての問い

NemurinekoNyaの回答

回答No.4

NO3のお礼、ありがとうございます。 自分が投稿した回答を読み直し、「誤字が相変わらず多いな~」と冷や汗をかいています。 これでも、投稿前に何度も読み直しているのですけれどね~、 自分の間違いには気がつかない。 人の間違いはすぐに気がつくのですが(笑)。 そして、 質問に表示された自分の回答を見るとすぐに 「あっ、この漢字間違っている。ここも間違っている。日本語として、これはおかしい」と気がつくのですが(ポリポリ)。 これはも~眠り猫の癖・習性と、諦めてもらうしかないです。 なのですが、 今回のモデルケースは、結構、うまくできているのではないか、他に応用がきくのでは、とチョッピリ思ったりもしています。 NO3の回答では、頭のいい人、普通の人、バカな人と分類しましたけれども、  同感派⇔組織犯罪者、違法薬物の××  共感派⇔一般大衆  反感派⇔警察・検察・弁護士etc でもいいのかな、と思ったりもしています。 数学の問題ではなく、この場合、オレオレ詐欺や違法薬物とかになりますけれども。問題の難易度は、手口の巧妙さや被害の甚大さ、犯罪の悪質さといったところになるのでしょうか。 ここであげる同感派は、「あっ、オレも」とすぐに互いの手口を真似ますよね~。いろんなダマシの手口を次から次へと考え出します。悪知恵を働かせて、法律の不備をついたりもします。わたしなんぞは、「よくま~、次から次へと巧妙な手口を思いつくモノだ」と半ば感心しています。 「みんなやっている」、「ヤセられる」、「疲れが取れる、気分がハイになる」という言葉で、極々軽い気持ちから薬物を始めちゃうヒトもいます。「この未公開株は市場公開後すぐに数倍の値がつきます」という言葉にダマされちゃう善良なヒトもいます。 そして、 この場合は、同感派と反感派の話し合う余地や共感する余地は残されていないでしょう。譲歩の余地は残されていない。シロかクロか、このいずれしかありえない。 こちらの方が、本質問のテーマに合致してるんでしょうかね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  まづ うろ覚えでしたので あたってみました。  ▲(ヰキぺ:舎衛城) ~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%8E%E8%A1%9B%E5%9F%8E     § 3 舎衛の三億  仏の説いた法が、遇い難く聞き難きことを表して、舎衛の三億という。なお古代のインドでは10万単位を1億と数えた。したがって3億とは30万のことである。  これは『大智度論』や『摩訶止観』を出典とする用語である。『大智度論』第9巻には「仏世には遇い難し。優曇波羅樹の華の時々一度有るが如し。説くが如く、舎衛の中に9億の家あり。3億の家は眼に仏を見え、3億の家は仏ありと耳で聞くも眼では見えず、3億の家は聞かず見ず、云々」とある。  つまり舎衛城には9億の家があったが、これを3億ずつ、釈迦仏を見た家、見たことはないが仏がいると聴いたことがある家、見聞きしたことのない家に3等分される。  ~~~~~~~~~~~  ☆ この三等分を借りて来ています。  さて 二等分するしかない場合があるのではないか?  生えているのは 《麦と毒麦》との二つしかないというような場合。  すなわち   ◇ ~~~~  この場合は、同感派と反感派の話し合う余地や共感する余地は残されていないでしょう。譲歩の余地は残されていない。シロかクロか、このいずれしかありえない。  ~~~~~~  ☆ シロかクロか。逆の順序で 違法薬物など犯罪者か そうでない人びとやそれを取り締まる側か。    例をやはり《麦か毒麦か》にしてみましょうか。  もっと分かりやすく言うとすれば:   ○ 根っからの悪人は いるか?  になるかと思います。アクマは観念だとして じっさいの人間の問題を取り上げることにして そのひとが いつからかは別として《自分の心にさからうことしかしない》という状態の根っからの悪人になることはあるか です。  すでに悪は存在しないと言っていて その立ち場に立っていますが   ○ 悪は あたかもそういう《存在するもの》があるのか?  だと思います。おのれの持って生まれた《善》がすべてマイナスの状態になって――けっきょく例の《第二の死》なる状態でもありますが―― あとはそのような《負の善》しか考えないしおこなわないという人間は現実にいるか? だと思います。自分の子どもに対しても 善はおこなわない。ウソばかりついて いつわりのみをおこなう。そういう人間はいるか?    あるいは それについて考えられることは 《究極の事例》というのは あくまで思考実験であって 現実にいるかどうかは別の問題だというところに落ち着くのではないかとも すでに前もって思われます。  では どういう問いにすればよいのか?   ○ 生まれつき《毒麦》として世に出て来て そのように生き切る。こういう人間はいるか?  でしょうか。ついこのあいだ でぃくべくさんは 小説の中の人物を引き合いに出されたと言って 触れておられました。     ▲ (ヰキぺ:ハンニバル・レクター) ~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%8B%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%83%BC  ハンニバル・レクター(Hannibal Lecter)は、『羊たちの沈黙』等、作家トマス・ハリスの複数の作品に登場する架空の人物。精神科医にして連続猟奇殺人犯。殺害した人間の臓器を食べる異常な行為から「人食いハンニバル」(Hannibal the Cannibal、ハンニバル・ザ・カニバル)と呼ばれる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ 何だかひじょうにおそろしい人物像であるようです。  わたしの提出している事例は 《コミュニケーション不全》という状態 これ一本ではあります。  対話がうまく行っていないというような問題ではなく 《話し合いを捨てている。 もうしようとしないという状態にある》というそういう意味での究極の事例です。  じつは これは わたしの体験しているじっさいの問題です。この質疑応答の場でも経験して来ていますので。(複数です)。  ◇ こちらの方が、本質問のテーマに合致してるんでしょうかね。  ☆ いえ。とは言うものの テーマに合致する問題例がどういうかたちなのか これは まだよく分かりません。模索してすすむだけだと思います。  ただし  ◇◇(回答No.3) ~~~~~  1対1の対話は大切だとは思うのですけれども、理を尽くせば分かり合える、そんな生易しいものではない、と考えます。また、わたしは、ヒトはどんなヒトとも絶対に共感し合える、とも考えません。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということでしたら どうなんでしょう つまり   ○ ヒトの中には 絶対に分かり合えないヒトがいる可能性が高い。  こういうことなのでしょうか? つまり《悪人》とは言わずとも 《コミュニケーション不全》は 現実にありうる。のだから それはあきらめよという答えなのか? そういう問題にもなるかと思います。  いやぁ だらだらと書いて来ました。これ以上書き連ねるのは 犯罪行為に近づきます。ここらで 切り上げます。

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     次の二つの理由で あらためて問います。  新しい回答者から別解が得られるかも知れない。そして 究極の悪という現象に関して まだうまく捉え切れていない。  たたき台は つぎのようです。    1. 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。  2. ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。  3. つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎないという考えです。  4. 自然本性と言うべき心としての善 これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。     かつての質問は つぎです。  【Q:究極の悪とは――存在について――】   http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4708484.html  【Q:悪は 存在しない】   http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html

  • 真善美のみなもとは 同じひとつであるか?

     1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問いますので 自由なご批判をお寄せください。  2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には――ほかの人の主観真実とのカカハリにおいて―― 問題がないかあるかという問題が生じます。いわゆる善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。あらゆる人の主観真実をすでに超えているはずです。ゆえに真理は 至高の善であるとも言われます。  6. では 美はそれらとどういう関係にあるか? どこに位置しているのか?  7. 善と悪という相対的な価値をあつかう主観真実をたずさえて生きるとき――神ならぬ人間はそのようにしか生きることがかなわないと思われるとき―― 広く善悪観をめぐる主観真実としての何をとうとび 複数の《何》のあいだでいづれの真実に重きを置くか?・・・ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(つまり家族という集まりから出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素をも採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。実際問題として余儀なくされることがあるかと考えられます。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。よりよく生きる以前の《生きる あるいは ともに生きる》にとうとぶべき意味があり これを善と呼ぶこととします。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。善の損傷です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものが存在していてそれが起こるのではなく そうではなく善(存在ないし生きること)があってそれを損傷する行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれの知識としてのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする。このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔が赤らみ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでなくなるところの悪かが決まると捉えます。つまり ワタシの主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を認識した上で言葉に表わし(概念とするなら それなりの知性とし)その知性としての主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 主観が共同化したと考えられる。ワタシの主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観≒常識として成ります。絶対的にただしいとは決まりませんが)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり(わが心にさからっていない であり)  《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  23-1. じつは 実際に具体的には人間が人間どうしの間で当てはめて使うことの出来ない物指しである。しかも 物指しとしては 想定されている。  23-2. それでも想定しておくのは ただただ相対性なる経験世界だけだと言ってしまい見てしまうなら 世の中は 押しなべてのっぺらぼうの世界にしかならないからである。顔がのっぺらぼうだというのは 心において主観真実としての善や悪やを考える意味が無くなる。  23-3. 言いかえると 《相対性》ということは すでに《絶対》なるナゾを想定したことをみづからの概念の内に含んでいる。つまりじつは 相対的な人間の真実は 絶対なる真理をみづからの内に想定済みである。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もがはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツハリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ理念や規範をも超えてなおうつくしきものを見たいという美についての渇きは必然的なことだと見ます。しかも 自然なことであると。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたにいろんな風に形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めに想定されているところの真理ないしわが心にしたがう善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。道草を食ったり脱線したり。  30. それは 侵して来たウソ・イツハリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツハリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。同じ一人のひとでも 歳とともに違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善・超善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が――想定じょう――共有されます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をあゆむ。われに還り わたしがわたしであると成る。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその違いは 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺院としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも大きく広く 普遍性がある。  38. 真善美は 一体である。このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。