• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《にんげんの前史》を終えてみませんか。)

《にんげんの前史》を終えてみませんか。

noname#180711の回答

noname#180711
noname#180711
回答No.4

>ふうむ。とため息まじりに息を継ぎまして   私も溜息ばかりなので、顔を変えてみました。未だかつて見たことのない程、人を喰ったような顔をした男の顔にしてみました。まあこれくらい図太くやりたいものです。 >☆ まづ わたしは《ゲームから降り》ていません。初めから今日に到るまでです。  そうですか。青年とはスタンスが違いましたが。失礼致しました。道を譲るということを、ゲームから降りると同じような意味だと思っていたのですが、浅い理解だったようですね。どう違うのか、私にはまだ今一歩つかめていませんが。道を譲っても、競争からは降りていない。ふーむ。なんのこっちゃ。別に油断させておいて、寝首をかこうということでもないのでしょう。ここをもうちょっと説明してもらえませんか。愛ある提言を行って行くということと、何か関係しそうですが。  まあ、しかし一つだけ、文句のようなものを言わせてください。右か左かというような大雑把なことで言えば、つまりアマテラスかスサノヲかという区分で言えば、同じところに入っているのじゃないかなと思うのです。すると、もうちょっと大きい枠で一旦同意し、その上で細かいところでは異論があると持っていった方が、論理的じゃないですか。  さて、話をブラック企業について戻しましょう。 >いまは 訴訟にまで持ち込み闘うという雰囲気が満ちています。 そうせよと言うのではなく この雰囲気があるということは そうとう人びとの思いや気持ちに違いが出て来ているのではないかと思うのですが それでもかえって その逆の反動もつよいのでしょうか? そのクウキを読まない抵抗力の発揮に対しては 反動のチカラも同じく強まっているということなのでしょうか。  まあ、昔よりは抗議するパワーがついたということでしょうね。しかし経営者の側が無情になったので、抗議するべきことの件数は増えている気がします。 >ひとこと誰かが そのお二階さんなる指導層の人びとやその功績について 愛にあふれる讃辞をささげるなら どこかの時点で イチコロになるかも分かりません。風前のともしびかとも思われます。  それはないですね。愛あふれる讃辞。呪いの言葉なら出てくるでしょうが、どうもなあ。愛社精神はいつの時代も強要されるものですよ。入社試験の時も、企業調査と称する愛社精神を事細かにチェックされているように思いますね。 >人格語も科学語も(それらは 確かに大事ですが) やはり ほころびを見せて来ている――つまり昔から ただのタテマエにしか過ぎないと分かっていた――と思われます。  アマテラスの側はうんざりしていないで、高笑いだと思います。スサノオの方がうんざりし始めた。そういうことに思います。   >このインタムライズムを国際的にも おしすすめつつ ブラック企業の経営姿勢等々をも見守って行き ムラ市民の声として よりよい方向へ提案をして行く。よりほかにいい案が思い浮かびません。 >ユニクロ社長の考えは 年収一億と百万とに分かれるという議論でしたね。見落としましたが やはり会社内外での意見や世論によって このような仕事のあり方についての考え方をみんなで みちびいて行くという手立てが考えられます。  提案するためには、株主にならねばならない時代です。どの権利でもって提案できるのかをまず考えないとならなそうです。メディアは全てについてオブザーバーである権利を有していますが、まあ、それだけでも立ち行かないのが現代です。かといって現代思想家がわめきだしても、誰も聞かないでしょう。私は柄谷の言うことも、もう何も感じなくなりました。いや、特に柄谷に限らず、誰が何と言っても、何も感じないのです。偉い先生が言っているから、そうなんだ、というような動かされる気持ちがないのです。 >でぃーくべくさんは すでに抵抗運動を先駆けておられるようですが 何とか みんなのチカラとして表現するかたちに持って行きたいですね。  応援にはお礼を述べておきますが、抵抗運動はしていないと思います。愚痴をこぼしているだけなのです。ただ何となく、まず過ぎるなあという感覚だけはあります。運動というような、他人を巻き込んだものにする気もないのです。ただ単に、俺はどうしようー。それだけのことです。 > しょうじきに言えば  ★ 福利厚生がしっかりしている企業と比べると、どう考えてもおかしいことをやっていますので。  ☆ という行き方はわたしは採りません。福利厚生の費用は けっきょく収益からもたらされると考えられるからです。付加価値の分配として 給与や福利厚生もあるわけですから けっきょく 競争力と仕事の働き方といった問題に問題があると思われます。  これは細かいデータを列挙しないと、納得してもらえないんでしょうね。まあ、ユニクロが富の分配の仕方を悪い方に持っていく風潮に逆らう企業ではないし、むしろそれに悪のりしているという指摘があるということだけ、お伝えすることにします。  まあ、ぶらじゅろんぬさんがユニクロを信頼したいとまだ思っていることはよくわかりました。大体の人は信じられない、何かの誤報じゃないか、メディアが煽っているだけじゃないのか、と思うのかもしれませんね。しかし離職率が五割を超えているのですから、主観的な問題ではないことは、もはや明白と思います。実際、似たような企業は、他に吉野家をはじめ、チェーン店の大半がそうなのだそうです。買うところ、食べるところ、無くなってしまいますね。どうしようもないので、暗澹とするばかりです。  まあそれでもそこでモノを買ったりするというのなら、気が狂わないとできないことです。俺も金がないんだから、泥棒まがいのことをしても許されるに違いない。それくらいの開き直りがないとならんでしょう。こういう羅生門みたいな言い分を、私は「気が狂っている」と敢えて呼びます。そして狂っていないと生きて行けないのが、現代に限らず、昔から世の常なのかなとも思っています。 > ★ 保険金を老いた両親に残してやること。  ☆ となると ご両親のほうがかなしまれますよ。単純に。  まあ、生きて行くっていうのはそういうものです。姨捨山をやりたくなければ、自分が死ねばいいのですよ。幸い、保険金のシステムを調べてみますと、死というものについては、まだ敬意が払われているようです。人一人死ねば、ある程度まではお金をくれるというんですから、こんなにありがたい話はありません。 > ★ おお、私たちを家畜にするがよい、  ☆ そのむかし社畜とも会社奴隷とも言われていたわけですが 人びとはけっこう向かって行きました。能天気みたいに。ここは 単純に へたぢゃないか と言ってやるのが 思いやりというものではないでしょうか。すねたりせずに。  なるほど、昔からそうだから、敢えて言っても、拗ねているだけにしか思われないということですね。家畜以下になったということを言いたいのですが、伝わらなかったかな。 >おまえさんたち 優秀な船頭さんたち 世界はその優秀さ以上に複雑きわまりなかったみたいだ みんなでそのゼロ地点から再出発しようぢゃないか もうしばらくは あらためてアース役になって その尻拭いさえをもやってやるから 元気を出して その能力を発揮してくれたまえ シガラミやゴミの処理は あんがい得意なんだ なぜって われわれは 単純に言って愛に満ちているのだ だからこの世界の中でもっと前へさらに前へ 後顧のうれいなく すすんで行ってもらいたい。  >こう言ってやっておけば たとえすぐに効かなくても ボディーブローのごとくのちになって効いてくるかも分からない。けれども 愛に満ちていなくてはダメだ。批判をするにも 愛において。なのかな。  どうかなあ。向こうは何とも思っていないんでしょう。喩えていば、嫌いな女に告白されても、うざくてしょうがないというようなものです。しかもこちらに恋人がいるのにアタックされると、迷惑きわまりない。同じことで、経営者には株主という恋人が既にいるんです。その他が愛を持って何を言っても、うざいだけでしょう。ただの消費される道具なんですよ。

bragelonne
質問者

お礼

 さあ まるでボクシングのラウンドみたいになってまいりました。  こんにちは。まづは ご回答をありがとうございます。  ★ 道を譲っても、競争からは降りていない。  ☆ 《競争》としての現場からは言わばはづされました。おまえの来るところではないといったような感じで。    でも――そしてそれに対して道をゆづりつつも――《ゲーム》を放棄したつもりはありません。同じ社会の中に生息しているからにはです。  ★ ~~~  右か左かというような大雑把なことで言えば、つまりアマテラスかスサノヲかという区分で言えば、同じところに入っているのじゃないかなと思うのです。すると、もうちょっと大きい枠で一旦同意し、その上で細かいところでは異論があると持っていった方が、論理的じゃないですか。  ~~~~~  ☆ そうですね。   《スサノヲ市民社会(主権)-アマテラス公民圏(従僕)》なる連関制  としての民主制のもとにあって 実際には   《 A 圏主導‐S 圏従属》なる逆立ち連関制  として 社会はある。この形態として  ★ 同じところに入っている  ☆ ことは そのまま出発点です。    ★ それはないですね。愛あふれる讃辞。呪いの言葉なら出てくるでしょうが、どうもなあ。  ☆ ええ。と言いますか この場合 人(存在)と思惟(行為)とを分けてください。後者の考え方をのろい 前者の《ひと》は 愛してやってください。自分自身を愛するのと同じようにです。その《愛あふれる讃辞》をささげてもよいのではないかと。  ★ ~~~~~    >人格語も科学語も(それらは 確かに大事ですが) やはり ほころびを見せて来ている――つまり昔から ただのタテマエにしか過ぎないと分かっていた――と思われます。  アマテラスの側はうんざりしていないで、高笑いだと思います。スサノオの方がうんざりし始めた。そういうことに思います。  ~~~~~~~  ☆ 無理もありません。千五百年つづいたのですから。アマテラス‐スサノヲの逆立連関体制が。  DNA まですっかりアマテラス予備軍症候群がまとわりついて来ているかも分かりません。思わず お上にさからってはいけないというような行動に出てしまう。・・・  まぁ 気長に行きましょう。  もしふるいニンゲンであるならば 朽ちて来るでしょうし さらにその前に腐って来るでしょう。  《高笑い》の余裕から そのアマテラス語の洗練に磨きをかけて来たとしたら たぶん言わば石の墓を外だけキレイにしているということではないでしょうか。中は 骸骨。  そのもっぱらの公民の中にも 現状をうれえて どうにかしようとしている人はいないでしょうか。    ★ 提案するためには、株主にならねばならない時代です。どの権利でもって提案できるのかをまず考えないとならなそうです。  ☆ もちろん おっしゃるとおりです。その上で――その上でです―― 言わば地域住民が持たざる株主として 《無根拠において》 発言をして行く。といったウゴキが考えられませんか? 一人ひとりがそれぞれ見識を深めて水かさを増して行くといったような。  この長期の視点は イデオロギーを抜きにしたフェビアン主義ですかね。あれっ スサノヲは むしろハンニバルのほうかな。持久戦のことですね。  ★ 抵抗運動はしていないと思います。  ☆ 分かりました。まぁ 自由な連帯 あるいは 見えざる連帯 これのほうがつよいと思われます。  ★ まあ、ユニクロが富の分配の仕方を悪い方に持っていく風潮に逆らう企業ではないし、むしろそれに悪のりしているという指摘があるということだけ、お伝えすることにします。  ☆ そうなんですか。これまで内情は知らなかったし 今回もまだしらべていません。  もしそうだとすると 経営陣がとてつもない額の報酬を得るというアメリカ企業のシステムを目指すというのでしょうか。  ★ まあ、ぶらじゅろんぬさんがユニクロを信頼したいとまだ思っていることはよくわかりました。大体の人は信じられない、何かの誤報じゃないか、メディアが煽っているだけじゃないのか、と思うのかもしれませんね。・・・  ☆ いやしくも日本の企業が 従業員社会をないがしろにするとは思いもよりませんでした。  まだ事情を知らないものですから 話し合いをすれば 日本の《伝統》の分かち合いのかたちに戻せるのではないかと思いたい気持ちですが。  ★ 実際、似たような企業は、他に吉野家をはじめ、チェーン店の大半がそうなのだそうです。  ☆ もしこの部分に反応するとすれば これは いわゆる家元制度の悪弊なのではないでしょうか? 家元のもとにピラミッド方式で権威料と言いますか 名貸し料をピンハネするといった形態。  ピンハネの問題ではなく 営業成績の向上を催促しつよく要求するといったかたちで現われているような。  ★ ~~~~   まあそれでもそこでモノを買ったりするというのなら、気が狂わないとできないことです。俺も金がないんだから、泥棒まがいのことをしても許されるに違いない。それくらいの開き直りがないとならんでしょう。こういう羅生門みたいな言い分を、私は「気が狂っている」と敢えて呼びます。そして狂っていないと生きて行けないのが、現代に限らず、昔から世の常なのかなとも思っています。  ~~~~~~  ☆ ううーん。だけど それだと 思う壺ですよ。アマテラスお二階さんとその高みを目指すアマアガリ・シンドロームに罹った人たちののぞむ社会の仕組みとして。  ★ 同じことで、経営者には株主という恋人が既にいるんです。  ☆ そうなんですけれど。たとえば 三河の武士と百姓の血筋のトヨタなら 話が分かるかも分かりません。いつぞやのブレーキ故障うんぬんをめぐるアメリカからのいやがらせにも耐えたぢゃないですか。スサノヲの息吹きは まだ健在ではないでしょうか。  そして ひとりしづかにの場合においても ことを起こすときには 基本的に《無根拠において》だと考えます。それとも野望をぎらぎらにして パーフォーマンスを繰り広げるか。  あとは気休めに言うなら どこかで 大どんでん返しがあるのではないでしょうか。  もし・ひょっとして・万が一にでもアメリカがわれわれを見捨てたとすれば われわれは――スサノヲ市民らが《家畜以下に扱われようとしている》どころの騒ぎではなく そうではなく われわれみんなが―― いわば世界の中で〔思想や神学を抜きにして言うのですが〕十字架に掛けられて行くのではないかとも思われます。  人びとは いけにえを作り出すことが好きなのでしょうか。

関連するQ&A

  • にんげんの前史を終えるということ(!?)

     § 1 ヒトの定義から入ります。  その昔 土地を囲ってここはおれのものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると思います。   (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通   (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。         したがって競争し奪い合う交通人は 社会というヤシロ        の神棚(お二階)に祀っておく。(国ゆづり)  § 2 ここから《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。   (あ) 第一次の権力関係:        ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごく       ふつうに自然本性としてのヒトどうしの間においても――        まなざしを相手に上からそそぐ者とそしてこれを受ける者       とに分かれる場合。        この場合には そのまなざしの上下関係が 互いにみと       めあっている自生的な性格のものと        そして一方が《アース(接地)役》を務めるかたちとなるよ       うにそれが必ずしもよいことだとは思われない人為的・人       工的な性格のものとがある。   (い) 第二次の権力関係:        第一次の《自生的な性格のもの》からにせよ《人工的な性       格のもの》からにせよ そのまなざしの上下関係を社会制度       として固定させようとして出来たもの。        身分関係。世襲制度。         特には 社会を《市民スサノヲと公民アマテラス》との二階       建ての構造として固定する国家における身分制度としての       社会力学的な交通関係としての構造。        (その中で一階と二階とのあいだで流動性が保証されて        いる社会のあり方も 現実的ではある)。  § 3 階級ということ   (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として分けられる。   (ω)の非戦論を採るヒトが築く同じく(い)の第二次の権力関係は そのような階級関係を包み込んだ二階建てに成ると捉えられる。言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲んだかたちとなっている。   ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれに即した圧力が加えられたとしても もともとそのような社会力学は織り込み済みである。   ゆえに――そうとうきびしいことだけれど―― そのお二階のえらいさんよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと人間にお成りなさいと心のどこかで言っている。   (α)の主戦論派にもとづく階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。  § 4 世界史的存在としての《一人ひとりとしてのわたし》  経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として巻き込み その商品をつうじて交通するというよそよそしい形でではありながら 世界中のすべての人びとをやはり巻き込み一面ではその一様な形式による互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせるゆえに―― ヒトを世界史的な存在とした。  この資本主義――第一次の勤勉と第二次のガリ勉とから成る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはや堂々巡りであると分かったところまで行き着き)  社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(――つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいわいと言い始めたなら――) (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に別れつつ自己形成してきたホモ・サピエンスは その潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか?  しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想に真っ向から対立する民主制というかたちをすでに採っている。  このふるいニンゲンは ほろびる。と思われます。  前史を終えて後史に入ると見てよいのか?  そう見るのが ふさわしいのかどうか?  ご教授ください。

  • にっぽん がんばれ。

     われわれは にんげんの前史を終えることができるか  § 1 ヒトの定義から入ります。  その昔 土地を囲ってここはおれのものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると考えます。   (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通(マジハリ)   (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。           したがって競争し奪い合おうとする交通人は 社会という           ヤシロのその神棚(お二階)に祀っておく。(国ゆづりなるクセ)  § 2 ここから《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。   (あ) 第一次の権力関係:        ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごくふつうに       自然本性としてのヒトどうしの間においても―― まなざしを相手       に上からそそぐ者とそしてこれを受ける者とに分かれる場合。        この場合には そのまなざしの上下関係が 互いにみとめあっ       ている自生的な性格のものと        そして一方が《アース(接地)役》を務めるかたちとなるようにそ       れが必ずしもよいことだとは思われない人為的・人工的な性格の       もの とがある。   (い) 第二次の権力関係:        第一次の《自生的な性格のもの》からにせよ《人工的な性格のも       の》からにせよ そのまなざしの上下関係を社会制度として固定さ       せようとして出来たもの。        身分関係。さらには その身分の世襲制。         特には 社会を《市民スサノヲ圏と公民アマテラス圏》との二階建       ての構造として固定する国家における身分制度としての社会力学       的な(=世間のシガラミなる)交通関係としての構造。        (その中で一階と二階とのあいだで流動性が保証されている社会       のあり方も 現実的ではある)。  § 3 階級ということ   (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として分けられ扱われる。   (ω)の非戦論を採るヒトが築く同じく(い)の第二次の権力関係は そのような階級関係を包み込んだ二階建てに成ると捉えられる。どういうことか?     言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲んだかたちとなっている。   ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれを保守する社会的な圧力が加えられたとしても もともとそのような社会力学は織り込み済みである。ゆづり終えている。   ゆえに――そうとうきびしいことだけれど―― そのお二階のえらいさんよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと どこかでその二階へのアマアガリについて反省し人間にお成りなさいと心のどこかで言っている。   (α)の主戦論派にもとづく階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。  § 4 世界史的存在としての《一人ひとりとしてのわたし》  経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として巻き込み その商品をつうじて交通するというよそよそしい形でではありながら 世界中のすべての人びとをやはり巻き込み一面ではその一様な形式による互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせるゆえに―― ヒトを誰をも世界史的な存在とすることとなった。  この資本主義――第一次の勤勉と第二次のガリ勉とから成る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはやいくら革命をやっても堂々巡りであると分かったところまで行き着き)  社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(――つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいわいと言い始めたなら――) (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に分かれつつ自己形成してきたホモ・サピエンスは その潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか?  しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想に真っ向から対立する民主制というかたちをすでにわれわれじんるいは採っている。  ふるいニンゲンは ほろびる。と思われます。  にんげんの前史を終えて後史――どんな?――に入ると見てよいのか?  そう見るのが ふさわしいのかどうか?  よろしくご教授ください。  われらが《あたらしいひと》とは どういう存在か?

  • にんげんの前史を終えるということ(!?)

     について あらためて問います。第三セッションです。  まえがき・あらましは 以前と同じものを使います。  今回は アメリカという問題に焦点をあてたいと考えています。タテマエとホンネとの使い分けを駆使する行為形式において あまりにも直線的すぎる。上から目線をもって そのことが単純すぎる。のではないか。という問いです。  § 1 ヒトの定義から入ります。  その昔 土地を囲ってここはおれのものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると思います。   (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通   (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。         したがって競争し奪い合う交通人は 社会というヤシロ        の神棚(お二階)に祀っておく。(国ゆづり)  § 2 ここ(この一面的な定義ですが)から《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。   (あ) 第一次の権力関係:        ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごく       ふつうに自然本性としてのヒトどうしの間においても――        まなざしを相手に上からそそぐ者とそしてこれを受ける者       とに分かれる場合。        ただしこの場合には そのまなざしの上下関係は 互い       にみとめあっている自生的な性格のものであると考えら       れる。        それは けっきょく人びとの仲介役・調整役を買って出る       音頭取りとそれをささえるほかの人たちに分かれる場合。         このときにも もしまなざしのあいだに何らかの上下関       係が起きているとすれば これが高じると 一方が《アース      (接地)役》を務めるかたちとなるように思われる。他方は      ガミガミ役になりそれが固まってくるおそれがある。       人為的・人工的な性格の人間関係が生じ得る。   (い) 第二次の権力関係:        第一次の《自生的な性格のもの》をおおむね離れて 《人工       的な性格のもの》をさらに強固にししかも固定させる動きとし       てそのまなざしの上下関係を社会制度としてかたちづくろうと       して出来たもの。        身分関係。その世襲制度。         特には 社会を《市民スサノヲと公民アマテラス》との二階       建ての構造として固定する国家における身分制度。そこで       は 倫理を問うことを含みつつも それをもチカラで圧倒する       場合もあるというような社会力学的な交通として人間関係       およびその社会構造がかたちづくられる。        (その中で一階と二階とのあいだで自由な行き来としての       流動性が保証されている社会のあり方も 現実的ではある)。  § 3 階級ということ   (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として分けられる。   (ω)の非戦論を採るヒトが築く同じく(い)の第二次の権力関係は そのような階級関係を包み込んだ二階建て構造に成ると捉えられる。   言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲み込んだかたちとなっている。   ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれに即した圧力が加えられたとしても (ω)型のヒトにとっては もともとそのような社会力学は織り込み済みである。音頭取りの中から さらにお山の大将が出て これが常習のガミガミ役にもなるとするなら 二階建てとなりうる。ただ アマアガリしたに過ぎない。    階級関係の一本から成る社会では――つまり単純に言えば 人びとはそれぞれ一人の個人が《ガミガミ役=アース役》なる成り立ちをしていて―― あたかも誰もがアマアガリをねらっている。   ゆえに――きびしい言い方をすれば―― 階級関係を第一次の権力関係にあってその芽として織り込み済みの社会(ω)においては そのアマアガリしたお二階のえらいさんたちよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと人間にお成りなさいとさえ 心のどこかで言っている。その人為性・人工性つまり非自然から自由になってくださいと。   (α)の主戦論派にもとづく階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。流動性というよりは 階級がひっくり返ることがある。そして それだけではなく 誰もが《スサノヲ市民=アマテラス公民》なる人格形式をもって 互いに相手のマナザシの隙をつくような姿勢を持つ。  マナザシの低さや弱いところを突いて おのれのマナザシをそれとしてアマアガリさせようとする。  このアマアガリ・シンドロームにかんして いまアメリカ人がいちばんきついのではないか?  中国人は 度を越している。ゆがんでいる。韓国人は 駄々をこねるかたちであたかもこのアマアガリをこころみている。    日本人は いいとこも わるいとこも あるでしょうか。  § 4 世界史的存在としての《一人ひとりとしてのわたし》  経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として巻き込み その商品をつうじて交通するというよそよそしい形でではありながら 世界中のすべての人びとをやはり巻き込み一面ではその一様な形式による互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせるゆえに―― ヒトを世界史的な存在とした。  この資本主義――第一次の勤勉と第二次のガリ勉とから成ると見る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはやひっくり返してもそれは堂々巡りであると分かったところまで行き着き)  社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(――つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいわいと言い始めたなら――)   (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に別れつつ自己形成してきたホモ・サピエンス・サピエンスは 言ってみれば互いの諍いにかかわるその潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか?  しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想に真っ向から対立する民主制というかたちをすでに採っている。  ここで ふるいニンゲンは ほろびる。と思われます。  前史を終えて後史に入ると見てよいのか?  そう見るのが ふさわしいのかどうか?  § 3 の最後に触れたアメリカ(アメリカ人)という問題について焦点を当てると どういった評言が持たれるでしょうか?   ご教授ください。ケネディ大使の捕鯨はくぢらがかわいそうなる発言は 典型的なそのアマアガリ・シンドロームに罹った目線だと考えます。  § 5 おまけとして: 《後史》がどんなヒトのどんな社会になるのか   いまはほんとうには分かりません。たぶん《イサカイ》をむやみやたらに繰り広げることを《前史》の特徴とすれば それを止揚しそれから自由になる。でしょうか どうでしょうか。  もうひとつ。このあたらしい時代を切り拓くのは 世界広しと言えども わが日本人こそがふさわしく その先頭を切ってあゆむのではないでしょうか。(ω)のユヅリアヒが 根付いていると思われるからです。  宗教の弊害もしくはいわゆる一神教の弊害から わたしたちはそのふつうの生活態度において――理論じょう――すでに自由であり あとはわづかに自分たちの多神教としての〔つまり日本教としての〕じつは一神教なる性格を認識し自覚するなら 鬼に金棒 孫悟空に如意棒となること請け合いではないでしょうか。  一神教ヰルスからの免疫をすでに半分 得ている。あとの半分をさらに得て 世界に先駆けてあゆむことが出来るし その使命を負っているのではないか。どうでしょう。

  • にんげんの前史から後史へ(!?)

     歴史を展望してみたい。第三弾。  § 1 ヒトの定義から入ります。  その昔 土地を囲ってここはおれのものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると思います。   (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通   (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。         したがって競争し奪い合う交通人は 社会というヤシロ         の神棚(お二階)に祀っておく。(国ゆづり)  § 2 ここ(この一面的な定義ですが)から《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。   (あ) 第一次の権力関係:        ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごく       ふつうに自然本性としてのヒトどうしの間においても――        まなざしを相手に上からそそぐ者とそしてこれを受ける者       とに分かれる場合。        ただしこの場合には そのまなざしの上下関係は 互い       にみとめあっている自生的な性格のものであると考えら       れる。        それは けっきょく人びとの仲介役・調整役を買って出る       音頭取りとそれをささえるほかの人たちに分かれる場合。         このときにも もしまなざしのあいだに何らかの上下関       係が起きているとすれば これが高じると 一方が《アース       (接地)役》を務めるかたちとなるように思われる。他方は       ガミガミ役になりそれが固まってくるおそれがある。        人為的・人工的な性格の人間関係が生じ得る。        チカラ関係としての社会力学の兆し始め。   (い) 第二次の権力関係:        第一次の《自生的な性格のもの》をおおむね離れて 《人工       的な性格のもの》をさらに強固にししかも固定させる動きとし       てそのまなざしの上下関係を社会制度としてかたちづくろうと       して出来たもの。        身分関係。その世襲制度。         特には 社会を《市民スサノヲと公民アマテラス》との二階       建ての構造として固定する国家における身分制度。そこで       は 倫理を問うことを含みつつも それをもチカラで圧倒する       場合もあるというような社会力学的な交通として人間関係       およびその社会構造がかたちづくられる。        (その中で一階と二階とのあいだで自由な行き来としての       流動性が保証されている社会のあり方も 現実的ではある)。  § 3 階級ということ   (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として見なされ仕分けされる。   (ω)の非戦論を採るヒトが築く同じく(い)の第二次の権力関係は (α)の場合のような階級関係を包み込んだ二階建て構造に成ると捉えられる。   言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲み込んだかたちとなっている。   ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれに即した圧力が加えられたとしても (ω)型のヒトにとっては もともとそのような社会力学は織り込み済みである。ふつうの音頭取りの中から さらにお山の大将が出て これが常習のガミガミ役にもなるとするなら 二階建てとなりうる。  ただし・ただ アマアガリしたに過ぎないという側面がある。つまり 一階にのこったスサノヲ市民らは アマアガリ志望者らを二階へと送りやってやったという性格が どこかに遺産として保たれる。    階級関係の一本から成る社会〔(α)型〕では――つまり単純に言えば 人びとはそれぞれ一人の個人が《ガミガミ役=アース役》なる成り立ちをしていて―― そこではあたかも誰もがアマアガリをねらっている。   ゆえに――きびしい言い方をすれば―― 階級関係を第一次の権力関係にあってその芽として織り込み済みの(ω)型社会においては そのアマアガリしたお二階のえらいさんたちよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと人間にお成りなさいとさえ 心のどこかで言っている。その人為性・人工性つまり非自然から自由になってくださいと。   (α)の主戦論派にもとづく階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。流動性というよりは 階級がひっくり返ることがある。そして それだけではなく 誰もが《アース役スサノヲ市民=ガミガミ役アマテラス公民》なる人格形式をもって 互いに相手のマナザシの隙をねらってつくような姿勢を持ちがちである。  マナザシの低さや弱いところを突いて おのれのマナザシをそれとしてアマアガリさせようとする。上位に立とうとする。  このアマアガリ・シンドロームにかんして いまアメリカ人がいちばんきついのではないか?  中国人・共産党は 度を越している。ゆがんでいる。韓国人は 他人を蔑みなおかつ甘えつねに駄々をこねるかたちであたかもこのアマアガリを夢見ている。    日本人は いいとこも わるいとこも あるでしょうか。どうでしょうか。  一部には あたかもアマテラス予備軍と成って いつまでも・どこまでも・しかもしばしば反対論は声を高らかに鳴り響かせているという 《決して実現させようとはしないアマアガリ》症候群に罹っている場合が見られる。  § 4 世界史的存在としての《一人ひとりとしてのわたし》  経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として巻き込み その商品をつうじて交通するというよそよそしい形でではありながら 世界中のすべての人びとをやはり巻き込み一面ではその一様な形式による互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせる資本主義は それゆえに―― ヒトを誰をも世界史的な存在とした。  この資本主義――第一次の勤勉と第二次のガリ勉との二つの形式から成ると見る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはやひっくり返してもそれは堂々巡りであると分かったところまで行き着き)  社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(――つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいわいと言い始めたなら――)   (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に別れつつ自己形成してきたホモ・サピエンス・サピエンスは 言ってみれば互いの諍いにかかわるその潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか? ワケの分からないいさかいなどは阿呆らしいと思えるような地点に来たかも知れない。  しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想情況に真っ向から対立する民主制というかたちをすでに採って来ている。  ここで ふるいニンゲンは ほろびる。と思われます。  前史を終えて後史に入ると見てよいのか?  そう見るのが ふさわしいのかどうか?  § 5 おまけとして: 《後史》がどんなヒトのどんな社会になるのか   いまはほんとうには分かりません。たぶん《イサカヒ》をむやみやたらに繰り広げることを《前史》の特徴とすれば それを止揚しそれから自由になる。でしょうか どうでしょうか。  もうひとつ。このあたらしい時代を切り拓くのは 世界広しと言えども わが日本人こそがふさわしく その先頭を切ってあゆむのではないでしょうか。(ω)のユヅリアヒが 根付いていると思われるからです。  宗教の弊害もしくはいわゆる一神教の弊害から わたしたちはそのふつうの生活態度において――理論じょう――すでに自由であり あとはわづかに自分たちの多神教としての〔つまり日本教=クウキ教としての〕じつは一神教なる性格を認識し自覚するなら 鬼に金棒 孫悟空に如意棒となること請け合いではないでしょうか。  一神教ヰルスからの免疫をすでに半分 得ている。あとの半分をさらに得て 世界に先駆けてあゆむことが出来るし その使命を負っているのではないか。どうでしょう。

  • にっぽん がんばれ。がんばれ にっぽん。

     われわれは にんげんの前史を終えることができるか  § 1 ヒトの定義から入ります。  その昔 土地を囲ってここはおれのものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると考えます。  (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通(マジハリ)  (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。        したがって競争し奪い合おうとする交通人は 社会とい        うヤシロのその神棚(お二階)に祀っておく。(国ゆづり        なるクセ)  § 2 ここから《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。  (あ) 第一次の権力関係:        ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごく       ふつうに自然本性としてのヒトどうしの間においても――        まなざしを相手に上からそそぐ者とそしてこれを下にある       ことに甘んじて受ける者とに分かれる場合。        この場合には そのまなざしの上下関係が 互いにみと       めあっている自生的な性格のものと        そして一方が《アース(接地)役》を務めるかたちとなるよ       うにそれが必ずしもよいことだとは思われない作為的・人       工的な性格のもの         とがある。  (い) 第二次の権力関係:        第一次の《自生的な性格のもの》からにせよ《人工的な       性格のもの》からにせよ そのまなざしの上下関係を社会       制度として固定させようとして出来たもの。自生的なもの       も 作為的となる。        身分関係。さらには その身分の世襲制。         特には 社会を《市民スサノヲ圏と公民アマテラス圏》と       の二階建ての構造として固定する国家における身分制度       としての・その社会力学的な(=世間のシガラミなる)交通       関係としての構造。        (その中で一階と二階とのあいだで流動性が保証されて       いる社会のあり方も 現実的ではある)。  § 3 階級ということ  (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として分けられ取り扱われる。  (ω)の非戦論を採るヒトが築く同じく(い)の第二次の権力関係は そのような階級関係を包み込んだ情況としての二階建てに成ると捉えられる。どういうことか?    言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲んだかたちとなっている。そこから よくもわるくも 言わば《情感の共同性》なる情況を醸し出して来る。  ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれを保守する社会的な圧力が加えられたとしても もともとそのような社会力学は織り込み済みである。ゆづり終えている。  (ただし 情感の共同性についてその綻(ほころ)びと繕いとは しょっちゅう起きている)。  ゆえに――そうとうきびしいことだけれど―― そのお二階のえらいさんよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと どこかでその二階へのアマアガリについて反省し ほんとうはこのアマアガリ教とその実践はどうも行き過ぎだったと思ったときには人間にお成りなさいと心のどこかで言っている。  (α)の主戦論派にもとづく階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。  § 4 世界史的存在としての《一人ひとりとしてのわたし》  経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として取り込み その商品をつうじて交通するというよそよそしい形でではありながら 世界中のすべての人びとをやはり巻き込み 一面ではその《お金をとおしてのマジハリ》といった一様な形式による互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせるゆえに―― ヒトを一人ひとり誰をも世界史的な存在とすることとなった。  この資本主義――第一次の勤勉と第二次のガリ勉とから成る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはやいくら革命をやっても堂々巡りであると分かったところまで行き着き)    社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(――つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいのお この位を下りて心だけとしてでもアマクダリしてみたいわいと言い始めたなら――)   (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に分かれつつ社会形成の道行きのもとにそれぞれが自己形成してきたホモ・サピエンスは その潜在能力をもう全部出し切ったと言える地点に来たのではないか?  しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想に真っ向から対立する民主制というかたちをすでにわれわれじんるいは採っている。  ふるいニンゲンは ほろびる。んだにゃあ。  にんげんの前史を終えて後史――どんな?――に入ると見てよいのか?  そう見るのが ふさわしいのかどうか?  よろしくご教授ください。  われらが《あたらしいひと》とは どういう存在か?  にっぽん がんばれというのは この新しい歴史にあって日本が先頭を走っていると推し測られるからです。  当てずっぽうなのですが それでもコジツケをおこなうならそれは あらゆる宗教から完全に自由な《もののあはれを知る》思想(生活態度)に立脚する縁の下の力持ちたるスサノヲ草の根市民が おっとどっこいと言って 立ち上がって来ると思われるからです。にっぽん がんばれ。

  • 吉本隆明の思想について

     次の文章(発言)の解明をとおして おしえてください。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  レーニンが究極的に考えたことは 少なくとも政治的な権力が階級としての労働者に移るということはたいした問題じゃない。つまり それは過渡的な形であって ほんとうは権力というのはどこに移ればいいのか。  それはあまり政治なんかに関心のない 自分が日常生活をしているというか そういうこと以外のことにはあまり関心がないという人たちの中に 移行すればいいんじゃないか というところまでは考えていると思います。・・・  では 権力が移行するというのは具体的にどういうことか。そういう人たちは 政治なんていうのには関心がないわけですから お前 なんかやれと言われたって おれは面倒くさいからいやだと言うに決まっているわけです。しかしお前当番だから仕方ないだろう 町会のゴミ当番みたいなもので お前何ヶ月やれ というと しょうがない 当番ならやるか ということで きわめて事務的なことで処理する。そして当番が過ぎたら 次のそういうやつがやる。そういう形を究極に描いたんですね。そういうことで〔政治=まつりごととしての秘儀 つまりまたは 社稷というべき国家神道における〕秘儀をあばけば全部終わるじゃないかということに対しても 思想的なといいますか 理論的なといいますか 対症療法として考えたわけですよ。・・・  レーニンが究極的に ポリバケツをもった ゴミ当番でいいじゃないかと言った時に 究極に描いたユートピアというものは ほんとうはたいへんおそろしいことだとおもいます。おそろしいというのは 江藤さんの言い方で言えば そうしたらすべてが終わっちゃうじゃないか ということを ほんとうは求めたということです。  つまり すべてが終わったのちに 人間はどうなるんだとか 人間はどうやって生きていくんだということについては 明瞭なビジョンがあったとは思えないんです。また そういうビジョンは不可能だと思います。  だけれどもすべてが終わったということは そういう言葉づかいをしているんですけれども 人間の歴史は 前史を完全に終わったということだと言っているわけです。  これは ある意味では江藤さんの言葉で 人間は滅びる というふうに言ってもいいと思います。なぜならば それからあとのビジョンは作り得ないし また描き得ないわけですから。  だから人間はそこで滅びるでもいいです。それを 前史が終わる というふうな言い方で言っています。前史が終わって こんどは本史がはじまるというように 楽天的に考えていたかどうかはわかりません。だから人間はそこで滅びるでもいいと思います。だけれども そうすれば前史は終わるんだということです。  まず第一に政治的な国家というのがなくなるということは ほんとうは一国でなくなっても仕方がない。全体でなくならないとしょうがない。そうすると 全体でなくなるまでは いつも過渡期です。だから どこかに権力が集まったり どこかにまやかしが集まったり どこかに対立が集まったりすることは止むを得ない。止むを得ないけれども それに対しては最大限の防衛措置というものはできる。そうしておけばいい。しかし そうしながらも究極に描き得るのは 人類の前史が終わるということです。  あるいは江藤さん的に言えば いま僕らが考えている人間は終わる ということです。それから先は 描いたら空想ですから 描いても仕方がない。理念が行き着けるのはそこまでであってね。だけどそこまでは 超一流のイデオローグは やっぱり言い切っていると思います。・・・  (江藤淳との対談:文学と思想――『文芸』1966・1) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  論点は 次の二点です。  (あ) 《共同自治の責任者(現在の首相)は 当番制がいい》でよいか。  ――これには おそらく 現在の二階建て構造を たとえ二層構成のままにしておいたとしても 第一階(A)=市民社会が 主導権を握り 第二階(B)を指導し活用していかなければならないでしょう。しかも これを世界史的に 実現していく必要がある。  なお 共産主義が 暴力革命を経るのだとすれば 論外とします。  (い) 《人は 社会的な支配関係を終えれば 〈復活〉するか》。  ――つまり 《〈ひと〉は〈前史〉を終えると どうなるか》。たとえば 突然変異を起こして 新しい人類が生まれる?  以上よろしくお願いいたします。

  • 強者が弱者を餌食にするのは、人間社会でも働く法則でしょうか?

    強者が弱者を餌食にするのは、人間社会でも働く法則でしょうか? 政治カテゴリーによく首を突っ込んでいるのですが、社会的弱者に属する人や集団を排斥し差別する人の投稿が、守ろうとする人の投稿より圧倒的に多いように感じるのです。 植物には住み分けというのがありますが、同じ場所にある場合、より生命力の旺盛な種がそうでない種を駆逐して繁茂しますよね。 動物の場合はもっとはっきり、肉食獣が草食獣を食べて生きて生きます。人間社会の場合、途上国ではやはりこの法則がはっきり見えます。一部の権力と富を持った支配階級が、権力も金も無い大部分の弱者を徹底的に搾取する社会が固定化しています。アメリカの支配階級は全世界で傀儡政権を作って一般民衆を弾圧し富を略奪し続けています。 人間社会は違うと教えられて来たはずなんですが、日本社会もどうもその法則から抜け出せていないと見えるんです。日本にも支配階級というものが形成されています。官僚や利権政治屋、大企業が日本社会を自分たちに都合のいいように動かしており、弱者の立場を代弁する共産党や社民党が一向に反撃できません。在日は日本のマイノリティーであり、弱者です。その彼らを見下し、差別する投稿が政治社会カテゴリーでかなり優勢です。 人間社会も所詮、生物社会の法則に従うのか、強い者が弱い者を食う。人類の進歩、幾多の血を流してたどり着いた民主主義社会というのは幻想に過ぎないのか?戦時中の反省から、ずっと反権力で弱者の立場からモノを言っていた朝日新聞も数年前から、完全に世界一の強者であるアメリカの腰巾着のような新聞になってしまいました。最大多数の最大幸福なんてのは、所詮不可能で、人間社会も落ち着くところは、一部の強者が残りの大分を食うような社会ということになるのでしょうか? いや、人間社会は違うというなら、どこがどのように違うのか教えて下さい。人間社会には動物社会にはないモーメントが働く可能性があるのでしょうか? どうも今の日本社会を見ていると悲観的になってしまいます。

  • フーコーは 人間は権力人だと見たのですか

     【Q‐1】 かつての実存主義で言うように 権力ないし権力関係というのは 社会生活において一般的に見られるものであって それは 基本的に言って 人間関係における視線の上下関係のことを言うと捉えてよいのでしょうか?  【Q‐2】 もしそうだとして このように 視線をそそぐ・受けるという関係が たとえば西欧中世では《羊飼いと羊の関係》のごとくであったと考えられるが これは そういう《認識の装置》が 大きく言って《物語》として 人びとに共有されたことを意味する。これで よいでしょうか?  【Q‐3】 この《認識の装置》としての物語は いわば 権力関係の素であるように思われるのですが それは どこから来るのでしょうか? たとえば 《構造》から来る。もしくは社会の総体的な《構造》じたいが そういうものである。ということでしょうか?  【Q‐4】 このような構造ないし物語が どの時代にも はたらいて その意味で一定の文明をかたちづくっているとするのならば 人間は 権力関係人ないし権力人(――これを ホモ・何と言えばよいでしょう――)であると規定したと捉えてよいのでしょうか?  【Q‐5】 もしすべてこのようであるとすれば そのときには フーコーは そのように自分の紡いだ《権力人物語》を 人間と社会とに あらたな認識の装置としてのごとく おおいかぶせようとした。としか捉えられないのですが じっさいのところは どうなのでしょう?  おおしえください。  【Q‐6】 わたしの見るところ どうも 《構造》を 人間の意志の与り知らない《無主体の過程》であると捉える前提があって 簡単に言ってしまえば この前提が わざわいしているように思えるのですが どうでしょう?

  • 人間とは?

    皆様、おはようございます。 先日、金正男氏が暗殺されるというニュースが流れましたが、皆様はそのニュースを見てどう思われたでしょうか? 他国のことだから関係無いや。と思われた方も多々いらっしゃると思います。 そういう私も、そんな感覚でしたが、ふと、日本の或る漫画にも同様のことが描かれていることに気付き、人間なんてものは同じ、日本もあの国と同じ状況になれば、暗殺が行われるのでは?と人間不信に陥りそうです(涙) その漫画とは、「プラチナエンド」 簡単に言えば、神という権力の座をかけて、人間同士が殺しあうストーリー。 あの「DEATH NOTE」「バクマン。」を手がけた、大場つぐみ&小畑健コンビの漫画なので、人間同士の殺し合いの中にも、愛や希望を強く感じることは出来ますが・・・ ふ~う、人間とは何か?皆様はどう思われますか? 私は、権力の座には全く興味が無く、我が家の権力の座は妻のモノなのですが、 もし、プラチナエンドのような状況に巻き込まれれば、自分が理性的な行動をとることが果たして出来るのかどうか? 白の矢を使いライバルを殺し、赤の矢を使い他人のココロを操るという欲望に負けてしまうかもしれない・・・全く自信がありません。 ただ、「笑う」ことが出来れば、人間は大丈夫とも漠然と感じているこの私に、あなたの思う人間について、(プラチナエンドや権力論についてでも構いません)簡単で気軽で良いので教えて下さい。

  • 前史を終わらせるには どうするか?

     どのようにして 前史を終わらせるか。  (1) まづ基本的に 《何もしない》 が答えだと考えられます。  (2) それと合わせて対案は 次です。  (2-1) 基本的に いまの前史の過程をそのまま進む。   前史の過程に棹さして歩む。これが 前史を――もしそういう自然史過程および人為的文化的過程としての人類史であるとすれば――終わりにみちびくのだと。  (2-2) これは 同じく基本的に《ひとり》としての人についても当てはまると見ます。   その人それぞれに持ち合わせている前史の要素 これをひととおりその人の思う存分展開させること このことをとおして もしそうだとすれば 前史が終わるのだと。  (2-3) 言いかえるとこの個人史というのは 個人対個人の関係ないしシガラミのような関係史としての展開となると思われます。   うまく行けば その十全な展開が ただ互いのあいだの想像上のたたかいを対話というかたちにおいて成し終えることだけで果たされるかとも見ます。  あるいは ヒラメキによって一瞬にして わだかまりは解け 互いの和解にみちびかれるかとも見ます。  (3) ただし たとえば社会形態を新しい形態へ移行させるといった文化的側面においては どうか?   ――と言ってもそれも けっきょく個人どうしの上下身分の関係とその錯綜構造としては 生まれという要素も社会的自然というかたちでからんでいると思われますが そうだとしても―― どこからでも新しい契機は持ち出されて来るものと考えられます。  一点突破は どこからでも試みられる。社会形態には どこにも隙がある。  考えが思い浮かんでその考えをよしと見た者がその新しい社会像を推し出して来ると思われます。これを吟味検証していけばよい。  (4) 前史としては あとはそこで社会力学上の関係錯綜の過程をたどって行くはずです。    (5) そうして 基本的に・全体として見て 《前史を終わらせる》には《前史に沿って歩みを進める》のが筋道だと考えます。   つまり その中で――全体としての自然史過程の中で―― 社会形態にかんする側面である(3)の仕事は 人為的に作為的にはたらきかけコトを起こすほどの行動をすすめるわけですが その結果も 全体として前史に沿ってあゆむ。こうなるかと考えました。  (6) あるいは抽象的に言ってしまうと こうなりましょうか?  《前史人が自己とそして社会と和解したときに 前史が終わる》と。  前史のシガラミに不満をかこちその短所をののしっている間は のぞみが薄い。のかも分かりません。  (7) それとも《前史》などという捉え方が どこかまちがっていましょうか?