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組織宗教を 弾劾する。

ok9608の回答

  • ok9608
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回答No.4

No.3です。 『その思考停止のまま 《オシエを保ち組織の方針として伝えられたその解釈をそのまま ほかの人たちに伝えることしかしないこと》 これは 《間違った方向に向けている》のではないのですか?』 ==>その可能性はあります。論理的には、例えば ユークリッド幾何学は 平行線は交わらない などの原則から演繹して多くの命題が導かれています。原則を信じれば それによる命題群は必然的に導かれ、原則と演繹結果のみを伝えることは思考停止とおもうのです。原則が意味する系からはでられない というわけです。外にでるためには まず原則を新しく立てなければいけません。 非ユークリッド幾何学の誕生です。だからと言ってユークリッド系が間違っているといえるでしょうか。適応される場面では大いに意味があると思います。この話は 宗教の場合も同じとおもうのです。原則に相当するオシエがあって教義系がなりたっていると思います。いろんなオシエ群 がいかなるものか よく吟味して間違いなものは取り入れなければいいということ と思います。 逆に 原則を疑う は創造的思考の第一歩であると思っています。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  今回はかんたんです。  ★ 逆に 原則を疑う は創造的思考の第一歩であると思っています。  ☆ 《オシエをどう扱うかにあたって 固定した考え方で思考停止に落ち入った》なら 《原則をうたがう》ことは もうありえなくなっている。こういうことではないでしょうか?  そしてそういう問題のある状態に落ち入ることのおそれは 組織宗教においては つねにある。こう言わざるを得ません。《オシエを信じる》と言うからにはです。  もうひとつ別の視角から考えることもできます。  わが非思考の庭にあって その非思考にもかかわらず何とか言葉で言い表わせるような内容を得ようと思えば たとえば――アブラハムの信仰体験にかんがみて捉えるなら―― 《われわれ人は ひとをころさないものなんだなぁ》といったことではないかと見ます。  そうしてこれをもし《なんぢ ころすなかれ》というふうに表現して集団ないし組織において持つなら これはオシエとなります。また組織において取り決めをするのなら オシエを信じるというかたちにまで成り得ます。  ここで思考停止になったとしたら どういう状態なのでしょう?  《なんぢ ころすなかれ》を至上命題として受け容れ 至上命令として受け留めている場合です。  あるいはつまり ここで  ★ 原則に相当するオシエがあって教義系がなりたっていると思います。いろんなオシエ群 がいかなるものか よく吟味して間違いなものは取り入れなければいいということ と思います。  ☆ と見て 問題はない。だいじょうぶだと言えるかという問いかけになります。  よさそうです。よさそうに見えます。  果たして どうでしょうか。  ひとが人をころさないのは――自分をも他人をもひとをころさないというのは―― このオシエによって・つまりはこのオシエの意味するところ〔を守る〕によって そうする。ということでよいか? です。  これは(オシエは) かなしいかな 信仰内容という蝉の ただの抜け殻にしか過ぎません。形骸によって人を見ており人に相対している。――そういう人間が出来上がります。  ここは例に採ったのが《ころすなかれ》という内容なので微妙なのですが それでも 人間の創造性にかける息吹きとそのみづみづしさは オシエを信じるところからは現われない。こう帰結されるのではありますまいか。  つまり 信仰とそして信仰内容をオシエとして《信じる》という組織宗教との対比は ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学との比較とは微妙に違っている。と考えられますまいか。  ★ 原則を信じれば それによる命題群は必然的に導かれ、原則と演繹結果のみを伝えることは思考停止とおもうのです。原則が意味する系からはでられない というわけです。  ☆ ここまではおおむね 同じ考え方です。ただしつづく考え方は 別でしょう。つまり  ★ 外にでるためには まず原則を新しく立てなければいけません。  ☆ オシエを信じるといった組織宗教の場合の問題は そうではなく オシエが得られた信仰――非思考の庭――なる《わが心》に立ち帰ることが 必要なのです。原則の革新ではないと言わなければならないと思います。  そんな問題が横たわっているように思います。  

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     神は 《非知》である。  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________       ↓          ↓     ・・・・・・・・・にんげん・・・・・・・・・・・・・   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《宗教》は 信仰(非思考)をオシエ(思考)に代えた。要らぬ思考や想像は 削ぎ落されて行くことでしょう。  オシエを信じる=つまり 思考物を非思考とする。これは ゆるされない。そこ(オシエ)では 想像の産物としての神が・つまり おもちゃの神が 取り憑かれたかのように観念において思い込まされている。  《信仰:非思考の庭なる動態》 これは 世界では 名前の違う《神》が持たれているので その形態も名称が違って来ているようだけれど 中身は 類型的にみないっしょである。次のごとく:  A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューナター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  C. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ・ブッダ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》  F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  ☆ これらは 《思考》ではないというところが ミソである。  すなわち中で  《B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)》のごとく  《神を信じない》という向きにあっては それでもその場合には《信じないと信じている》のであり 《〈無い神〉を信じている(つまり 心に受け容れている)》ということだ。  以上のたたき台について その成否を問います。どうぞ思いっきり自由なご見解をお寄せください。    

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     1. 宗教のオシエは 経験思考の対象であり 考えるもの。  2. それを神として 信じるということはあり得ない。信じるとは 無条件に受け容れることである。  3. よって オシエは 考えるもの。信じるものではない。    4. それでもこれを信じなさいと言うのは まだわれわれの知らないよほどの神秘がそこにあると言いたいのか さもなければ よほどのバカである。  5. ○ 真理と事実と真実  ~~~~~~    普遍真理――信じる    世界事実――考える    主観真実――《信じる》 / 《考える + 感じる》   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  6. 宗教のオシエは 一般に文章表現として《事実》に属する。むろん もとはと言えば 《真理》を何とか――無理なのだが何とかして――人間の言葉で指し示そうとして引いた或る種の補助線である。  7. 《となり人を 自分と同じように――〈自 分 を 愛 す る の と 同 じ よ う に〉である――愛しなさい》や《なんぢの敵を愛しなさい》といったオシエがある。けれどもこれらは 神ではなく 信じるものでもない。鵜呑みにするものでは断じてない。  8. それらは 考えておのれの判断にもとづき意志行為として振る舞うという問題である。強いて言うなら そこでは《信じる》は 《考える・心づもりを決める》のうしろに隠れている。  9. さらに言えば このとき《信じる》は――《考える》に非ずその思考を超えているからには――じつは 万人にひとしい。  10. つまり 《普遍真理(いっぱんに 神のことである)》とわれとの関係は けっきょく誰にとっても・どの銀河系に行こうとも ひとしく同じである。  11. その《信仰という生きた動態》について人間の言葉で表わそうとしたオシエは――宗教の教は―― それぞれ工夫をこらしてさまざまである。  12. ぎゃくに言うと 考えて腑に落ちない内容がそのオシエにあればこれを問い質し マチガイがあれば自由に批判しあい正して行かなければならない。ただすことは 避けてはならない人間の義務である。  13. 阿呆なオシエは 廃れるに任せるその最初のひと押しを成すつとめが われわれ一人ひとりにある。  14. シュウキョウは 聖域を成すものではない。《信じる動態》は 良心・信教の自由として――その証明抜きの自同律としても――言わば聖域を成す。  ご見解を明らかにして添削をお願いします。

  • 《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?

     哲学として定義してくださいませんか?  宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのブディズムを――浄土系などを除いて――信じるだのとよく聞きます。おかしい。哲学としてただしてください。  質問者の考えをたたき台にしてもらってもよいです。宗教について触れたところは 情報交換をねがいます。  1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。  2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。  3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。  4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。  5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。  6. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である。  7. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。  8. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。  9. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である。  10. キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。  11. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない。  12. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。  13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  14. 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である。  15. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。  16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。