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版籍奉還と廃藩置県とについて

yy1122の回答

  • yy1122
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回答No.3

版籍奉還の前に、既に徳川側から「大政奉還」を朝廷に進言して実施されております。 即ち、政権を徳川から朝廷に移した(政権交代)ということです。しかし、実際には「数百年もの間、政権を担っていなかった朝 廷はいわばお飾りで、実権は従来どおり徳川が握れる」、との徳川側の目論みがあってのことです。 そして、従来の藩主達による会議で政治を行うと考えていたのです。つまり、藩主達が今の国会議員のようなものです。 ですから、版籍奉還までは「徳川の体制」は実質的に従来とはあまり変わりはなかったのです。 ところが、新政府側が廃藩置県を断行し、徳川は完全に新政府側に実権を奪われたのです。 藩士達も失業してしまい新政府は藩士に一時金や年金などで処遇しましたが、その後も廃刀令などにより旧武士の”特権”をなくす動きがでてきて遂に九州の方で反政府運動が起き、その最たるものが西南戦争でした。 徳川側は版籍奉還までは何とか徳川家の存続を図っていたのですが、その後の廃藩置県は新政府側の意向に沿ったもので、徳川側にとっては当初の目論みが外れてしまったということです。 廃藩置県以降の旧藩主達は時代の流れに諦めて、ただ黙って見ているだけだったと思います。

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