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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:フルボッコのご批判をどうぞ。――神とは何か?)

フルボッコのご批判をどうぞ。――神とは何か?

noname#178638の回答

noname#178638
noname#178638
回答No.25

多元主義ですかヒック、万人救済 メジャー宗教や無神論を多元的に認める考えですか 折伏や超汎神論者による包括より平和的で 組織宗教を否むの多元主義的でありません なぞ信仰と汎神論は対象に見いだす神成分の量が異なるだけで、その差を互いに認めれば多元を保てます 神からの介入介在の比率をどのくらいに見積もるかの違い せっかく多元的になりましたが暇なので折伏します ゆゆしさ 神=全て、万物人々=神々として 人に対する人の罪は神に対する神の罪として人の法律=神の法律で裁けます 魚に対する人の食欲は神に対する神の食欲として人の包丁=神の神包丁で捌けます 治安は悪化しません 由々しくありません。全て神の一部として大切とする存在愛。生命愛。人類愛。世界愛。なんか距離感少ないようできもいですが由々しくはありません 栄光を神に帰す慎みがない不足ですか 他の神々の助けを借りて暮らしているつもりなら慎ましい 死も自然なら神の属性 疑問があります 聖書のように人に親切にするとき 対象に神を見いだすという作業を経由し、対象の神らしさを口実にして対象を重んじるという癖が、聖書や仏教徒や汎神論にもあるようで なぜなのでしょう 謎に=や≠を使うのは不相応? X≠YときめてしまうとXの範囲を制限する想定になるので不適切 想定上の神X(X-Z)が神の定義なのだ と思考・共有するのはY行為で、 すぐY(Y-Z)信仰/不信仰になる、のはしかたないくり返し? にわか汎神論→なぞの神XはYに大いに介入し、むしろYの全てに変態しYでないものにも変化したりしなかったり(X→Y,X→X) 知性に尊い限界をもつ生物Zの、自然に対するおののきが言葉や名や信仰のみなもと 人があらゆる語であらゆる世界を分節する。名のついているものはもと謎で、付された名の下で謎は大いにくすぶり。汎神論者でない人は万象の神っぽさを看過している ナゾ信仰が謎=カミとする証拠として諸民族のカミを意味する語の存在を挙げるように、にわか汎神論もそれをまね、人が古来からあらゆる対象に色々の名を付してきたことを挙げ、それもって汎神論的世界観(X=Y)が人々に普遍的なものであると主張。いちいちの対象になぞ=カミを見いだすことを休止・中止すべくあらゆる対象に名を当てている、いわばストッパーとしての予断、すべての語は汎神論的世界観(なぞにみちた世界への想定)の信仰告白であり、信仰(/の中止・休止)に用いる宗教道具、自他に『これは謎でわない、カミではない』と言い聞かせ洗脳する道具が言葉 なぞ信仰も汎神論も言語も愚かなヒトらしい迷信の類 言葉という一皮をめくればりんごもヒトも神(X≒Y≒Z) りんごはやまと言葉でないですがカキやカミやムシやクモやヒトなどは古代日本人にとって謎だった、汎神的世界、でかれらは切なくそれらを呼んだ、色々の物に名をつけ世界を分節化、以来いまも言葉で謎を隠しつづけ、てるけど実はそこら中のりんごやヒトやものは謎の兄弟どうしであるという気分や事実が下地にある、という神々観 言葉を放棄せずかつ言葉を剥がした世界を感じるのは組織的信仰形態以前の詩的な感覚、名は予断であり謎のカミは万象に存在 たんなる納豆ごはんも神ごはんに神納豆をかけて食べていると思うとしみじみします すごい。たんなる納豆ごはんにもしみじみできる汎神論すごい。どうですか 汎神論じゃなくてもしみじみできますよね けれど汎神論は手軽な感動 超汎神論になると食物や人や自然などの無さや破滅までありがたがるのでやや危険 たまにののさま信仰あり、夏の朝はとくに神々しいです太陽 太陽は物体Yなので謎神Xではないとみなしますか 太陽や人やりんごは成分の来し方や行く末などが分かりきることがないことから謎(Z=X,Y=X) 汎神論的に太陽はまぶしく遠い神 生き物や生体の多くのものもののがみさまからの力を得て回っています 奈良人も太陽を神とみなしたと思います、忘れたのですか。忘れたことはXとYどちらに属しますか

bragelonne
質問者

お礼

 (つづき)  ★ ~~~~  疑問があります  聖書のように人に親切にするとき  対象に神を見いだすという作業を経由し、対象の神らしさを口実にして対象を重んじるという癖が、聖書や仏教徒や汎神論にもあるようで  なぜなのでしょう  ~~~~~~  ☆ (あ) 《人に親切にする》のは 聖書にかぎりませんし 無神論のばあいにもあり得ます。  (い) ★ 対象に神を見いだすという作業を経由し――☆ これは 想像の世界の話でしょうね。《想像物なる神 (つまり実は) Y 》を見い出していることになります。  (う) なぜそうなるか? たぶん《鰯の頭》は 経験事象 Y であるとすぐに分かるのに 《愛や慈悲や 神や仏やこのたぐいの何やかや》は 経験事象 Y だと知っていても 精神にかかわり 一段高尚なことだと思って 神 X に近づけてしまうのでしょうか?  (え) それとも 経験 Y と非経験 X とをごっちゃにするクセが抜けきらない場合でしょうか。  (お) または それこそ X も Y もまた Z もみな同じものだと見なすような――ということは それらの対象を対象として捉えることさえしていないのかも知れず いわば何ものをも自分と同じだと感じつつその何ものに対してもすすんで寄り憑いて行くというような――アニミズムなる原始心性の持ち主である場合。・・・ま これはないでしょうかね。  ★ メジャー宗教や無神論を多元的に認める考えですか  ☆ 非経験の場なる想定による神 X の一元論です。  そのもとに 言わば分身としての多神・汎神やそれを仮りに代表として《神 X 》のシルシまたは名とする場合 これらをみとめます。多事項・多項目・多宗派なる情況はみとめるかたちです。  (ただし すぐあとでに 組織宗教の問題が出て来ています。信仰と集団とはなじまないという問題です)。  ですが  ★ 組織宗教  ☆ は認めない立ち場です じつは。  個人の内面における非思考の庭なる信仰が動態として持たれている。この信仰の内容が 言葉にして表現されたあと これを一般にオシエとする。聖典となることもある。また そこで集団をかたちづくる。そのような組織宗教になれば 往往にして オシエなる経験事象 Y が信徒の守らねばならないというかたちにおいてほとんど想定上の神 X だと見なされるという錯覚が起きる。ものと思われます。  これは・つまり組織宗教というのは 個人の信仰の実質的な意味においては 自殺行為において成り立つものだと見ます。蝉の抜け殻だと見ます。信仰を互いにみとめあう問題ではなくなり オシエ(あるいは その組織のヒエラルキアとしての権限関係や権威)が想像物なる神 Y でしかないと分かっていても 想定上の神 X だとする錯覚が起きる。――このアヤマチは ほとんど理論上どうしてもまぬかれないかたちで起きるものと思われるからには ローマ教会を初めとしてあらゆる組織宗教は 自己解体すべしと考えていますし いまもこのように言っています。  ★ ~~~  なぞ信仰と汎神論は対象に見いだす神成分の量が異なるだけで、その差を互いに認めれば多元を保てます  神からの介入介在の比率をどのくらいに見積もるかの違い  ~~~~~  ☆ これは 原則中の原則である《想定上の神 X と想像物なる神 Y との区別》を経たあとの 個人個人の主観における受け取り方だと思われます。原則を守るなら 自由にまかされていると思います。  ★ ~~~~~  ゆゆしさ  神=全て、万物人々=神々として  人に対する人の罪は神に対する神の罪として人の法律=神の法律で裁けます  魚に対する人の食欲は神に対する神の食欲として人の包丁=神の神包丁で捌けます  治安は悪化しません  由々しくありません。全て神の一部として大切とする存在愛。生命愛。人類愛。世界愛。なんか距離感少ないようできもいですが由々しくはありません  栄光を神に帰す慎みがない不足ですか  他の神々の助けを借りて暮らしているつもりなら慎ましい  死も自然なら神の属性  ~~~~~~~~  ☆ (か) まづ何よりも先にこの《ゆゆしさ》は あくまでいま述べた原則を守るかどうかの問題です。    (き) 《想定上の神 X と想像物なる神 Y との区別》をやぶる もしくは あいまいにする。となれば ゆゆしき問題となります。  (く) すなわち  ★ 神=全て、万物人々=神々として  ☆ こういう派生的な神学も いまの原則としての区別を守りつつ 形成しうると思われます。《神=全て》をさらに     《神= 想定上の神 X 》と《その仮象なる分身が 全てとなっている》  という具合いに捉えるなら だいじょうぶかも知れません。  (け) ★ 人に対する人の罪は神に対する神の罪として人の法律=神の法律で裁けます  ☆ ここは よく分かりません。こうでしょうか? つまり    ○ 人に対する人の罪は神に対するやはり人の罪として     神の法から その霊がやどるかたちで人の自然本性に自然法をやどさせ    これを淵源として人が思考し導き出した人定法で裁けます  (こ) ★ 魚に対する人の食欲は神に対する神の食欲として人の包丁=神の神包丁で捌けます  ☆ これはおそらく その人の想像世界における思考ないし想像として描かれたすがた ではないでしょうか?  (さ) そう考えれば 次の一文も同じように 想像世界のひとつの絵図だと見られます。  ★ 全て神の一部として大切とする存在愛。生命愛。人類愛。世界愛。なんか距離感少ないようできもいですが由々しくはありません  ☆ ゆゆしいのは 原則からの逸脱のみを言っています。  (し) ★ 死も自然なら神の属性  ☆ これは やや原則にふれるところがあるかも知れません。  なぜなら 《死》にかんして《信仰一般》は どう捉えるかという前提で 《自然である。ゆえに神の属性》というのであれば それは一概にそう決められるものではないのですから 越権行為です。原則よりも 派生理論のほうが優越なりと言ったかたちだと思います。  《死》はよく分かりません。おそらく死生観(生死観)として 存在ないし《生きること》の全体として・全体において捉えることになるとは思います。  生が 神の属性であることに近いのではないかという見方があり得たとしても そこで《死》のみを取り上げて これは《自然であり ならば神の属性なり》と一概に規定してよいのか。という問題だと思います。  汎神論が 信仰のひとつの形態としてみとめられるとき ならば そこからさらに派生させた死論なのだから 自由ぢゃないかと言われれば どうですかね それが《つねに原則上の 神の属性である》とは言わなければよい。のでしょうかねぇ。

bragelonne
質問者

補足

 筋金入りのパンテイストさん ですかね。まづはおはようございます。ご回答をありがとうございます。  そうですね。どうしてもそのクセ(エートス)がお好きであれば 八百万の神や汎神論の汎神もみな《神 X 》の分身と見なして受け取るとすれば どうでしょう?   ★ ~~~~  たんなる納豆ごはんも神ごはんに神納豆をかけて食べていると思うとしみじみします  すごい。たんなる納豆ごはんにもしみじみできる汎神論すごい。どうですか  ~~~~~~  ☆ 神ご飯や神納豆が 認識による規定だとなると困ると思いますが――経験事象 Y を 非経験の場 X であると規定するとなると 文学的修辞でなければ みとめられませんが―― 世の中は 実数だけによって成り立っているのではなく 虚数をも交えていると考えるなら そういう汎神論風の現実はあり得るかと思います。  ですから 山つ霊も海つ霊も 葦黴やひぢ(泥)もみな神々であると見なす信仰の形態は ここでの神論による信仰類型論の内に入ると言ってよいのでしょう。  神 X を創造主と見なしてぼうだいな物語を編んでその中に身を置く信仰形態と同じく ひとつの派生形態であると言ってもよいかも分かりません。  《ののさま・ののがみさま》って 何ですか? 検索しても出て来ません。  ★ 太陽は物体 Y なので謎神 X ではないとみなしますか  ☆ マハーワイロ―チャナ・タターガタ(大日如来――東大寺の大毘盧遮那仏。ビルシャナ < ワイロ―チャナ)も 日のかがやきを神のひとつの分身として捉え これを代表としてすでに《神 X 》だと見なすかたちの信仰形態だと思われます。  つまりは アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)は 《無量≫光≪仏)なのですから まったく同じく太陽信仰に発すると思われます。  つまりは アマテラス(天照)オホミカミとて 同じくであるはずです。    ★ 太陽や人やりんごは成分の来し方や行く末などが分かりきることがないことから謎(Z=X,Y=X)  ☆ これは いただけません。    経験事象 Y     可知      既知      未知     不可知(知り得ないと知ったなら 経験事象)    非経験の場 X     非知:神 X としてのナゾ  となります。《 Z=X, Y=X 》というような規定は 金輪際あり得ません。  (ただし 人間イエス Z は 神の子であり神であるキリスト X であるは そういう想定です)。  (現人神は 想定だったでしょうか。想定でなく 現実としての規定だとすれば けっきょく汎神論よろしく誰もが神である世の中が確かに実現します)。  ★ 奈良人も太陽を神とみなしたと思います、忘れたのですか。忘れたことはXとYどちらに属しますか   ☆ これは――記紀神話において―― アマテラスが 神々のひとはしらに過ぎないと見なしていることを忘れてはいけません。その証拠に スサノヲは その実の弟です。  (伊勢神宮のアマテラスは 後出しジャンケンです。いまの外宮が もともとの神です。食物の神ですが)。  古代日本人の信仰形態は むしろ次のようです。(むろん 仮説ですが)。   ○ (モノとコト e = mc^2 ) ~~~~~~~~   モノ(物)―――もの(者)―――――オホモノヌシ(大物主)   コト(事・言)―みこと(美言・命・尊)―ヒトコトヌシ(一言主)    ↓        ↓            ↓   自然・社会( Y )・・・ひと( Z )・・・・・・・・・かみ( X )   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  オホモノヌシの神は 人間イクタマヨリヒメとのあいだにオホタタネコなる――あたかもこれだけを取り出せば 聖霊によってマリアが身ごもって生まれたイエスに似ています そのような――子をもうけたと伝えられています。  モノとコトが同じであれば オホモノヌシとヒトコトヌシとは 同一であって おおむね《全体としてのひとつ》なる神 X に相当するように思います。  つまり アマテラスもスサノヲもその他その他の神々は この《モノ=コト》神 X の分身とでも捉えておけばよいのではないでしょうか?  唯一神 X のほうが すごい! (話として。物語として)。  すなわち よくよく考えるにですが  ★ 言葉を放棄せずかつ言葉を剥がした世界を感じるのは組織的信仰形態以前の詩的な感覚、名は予断であり謎のカミは万象に存在  ☆ なる或る種の見方で《情感の共同性》と呼ぶべき世の中を醸し出し得ているのは やはり――隠れたかたちでであるにせよ―― 《神 X 》の想定によって基礎づけられている。と帰結されるのではないでしょうか。  (つまり それゆえ 人びとは 《一切衆生 悉有仏性》であるとか《ひとに神の霊がやどる》であるとかの突拍子もないことわざを あんがいすんなり受け容れている。ことになるのでは?  これは 思考によらず 感性をつうじて知覚することであるとしても感性によってでもなく 生まれたときから自然本性としてそなわった何かなのでは?)  すなわち  ★ 知性に尊い限界をもつ生物 Z の、自然に対するおののきが言葉や名や信仰のみなもと  ☆ わたしの言葉で――アウグスティヌスの請け売りですが―― この自然をつつむ唯一神 X の前に立つならひとは おそらく きよらかなおそれをいだくことでしょう。  たとえば  ★ 人があらゆる語であらゆる世界を分節する。名のついているものはもと謎で、付された名の下で謎は大いにくすぶり。汎神論者でない人は万象の神っぽさを看過している  ☆ とおっしゃるとき その見方には・またはその見方の根底には 神 X にあこがれるような自然本性のクセがあると思われます。言いかえると このときの《神っぽさ》というその神とは 非経験の場 X のことでありそれへの志向性のようなものではないか?  つまり それによってしても あらゆる名の神(複数)に共通の《神 X 》が おのづから感じられるようにひとは成っている。そのように生まれて来ている。  こういう話が嫌いなひとは それでも その人にとっては《無い神 nonX 》という非経験の場を 大きく人びとと共通に持つはずだからです。  ★ すべての語は汎神論的世界観(なぞにみちた世界への想定)の信仰告白であり、信仰(/の中止・休止)に用いる宗教道具、自他に『これは謎でわない、カミではない』と言い聞かせ洗脳する道具が言葉  ☆ これは ことの反面でしょうね。それと同じ条件において 任意の同じひとつの言葉が 《神 X を仮りにあらわす代理表現である》とする場合もあり得ますから。  あるいは モノやコトと一対一にあたかも対応する場合もあるかと思われます。そういう中立の用法も 言葉には あり得るかと。  つまりは この中立性が 言葉の基本だと思いますよ。  ★ ~~~~   想定上の神 X(X-Z)が神の定義なのだ  と思考・共有するのは Y 行為で、  すぐ Y(Y-Z)信仰/不信仰になる、のはしかたないくり返し?  ~~~~~~~  ☆ 《想定上の》という条件を忘れてしまうなら  ★ すぐ Y(Y-Z)信仰/不信仰になる  ☆ ということでしょうね。  いわしのあたまなる名の神を考えてみれば 分かりやすいと思います。  あくまでただのシルシとして 神をその言葉で代理するだけというそういう想定を忘れなければ おれの神は いわしのあたまという名の神だと言っても これをむやみに否定できません。  けれども 鰯の頭は その言葉に意味があり魚としての経験事象を表わしますから その経験事象 Y がそのまま神 X だと見なされれば まづいことになると思います。  それと同じように 《神は愛である》と言ったとき あるいは《慈悲》でもいいのでしょうが この・言葉であってそこに意味を持った概念を神 X だと錯覚する場合が生じるものと思われます。  意味や概念は いくら高邁な精神を示そうとしていても 経験事象 Y ですから。精神は 経験事象です。  よほどの場合でなければ 《愛は・慈悲は 神 X である》とは言わないでしょう。  ★ すぐ Y(Y-Z)信仰/不信仰になる、のはしかたないくり返し?  ☆ どうですかね。この神の定義のあとただちに取り上げるべき主題であるかも知れません。(いまも 基本的な取り組みはしているとは思います)。  ただし  ★ にわか汎神論→なぞの神XはYに大いに介入し、むしろ Y の全てに変態し Y でないものにも変化したりしなかったり(X→Y,X→X)  ☆ の問題は むしろ縄文古代人の類型と言いますか 原始心性の問題だと見ます。歴史知性――時間を知る もしくは ひとは死すべき動物であるを知る――以前の心性ではないかと見ます。アニミズムおよびシャーマニズムと。  つまり 現代においても ありうるのだと。  (つづく)

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     人はなぜ 神を勘違いしつづけるのか?  A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?  A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?  B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?  B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?  B-2 なぜその《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?  B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?  C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?    C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?  D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?  D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?  D-2 特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。ただの心の表層の心理でありその共同化であるに過ぎない。  E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象してつくったニセの神しかないと断定するのか?     *    ○ (神とは何か?) ~~~~~    §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y=考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。  逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。  人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。   §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の    歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。  これに対する答えは むしろ簡単である。  絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。  介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。  しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。  議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。  信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。  いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。  信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。  もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。  もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。  以上の定義だけの理論は 次が その心である。    吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ   ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。   ~~~~~~~~~~~~

  • なぜ神を勘違いしたままでいるのか?

     A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?  A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?  B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?  B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?  B-2 なぜ《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?  B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?  C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?    C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?  D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?  D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?   特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。  E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象しつくったニセの神しかないと断定するのか?     *    ○ (神を哲学する) ~~~~~    §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y=考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。  逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。  人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。   §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の    歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。  これに対する答えは むしろ簡単である。  絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。  介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。  しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。  議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。  信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。  いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。  信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。  もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。  もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。  以上の定義だけの理論は 次が その心である。    吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ   ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。   ~~~~~~~~~~~~

  • 神とは何か?

    神とは何か?  決定保存版にしたいと思いますので 添削あるいは根本的な批判をよろしく願います。  ○ 信仰類型論において 神とは何かを問い求める  §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y =考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X =考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Y の経験領域のことがらだけであるかも知れない。 X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える(Y-Z)》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。(つづく)  ☆ つづきがあります。お手数ですが ニ千字制限により  【Q:不可知とは どういうことですか?】 回答No.36のお礼欄へとつづきます。   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6002224.html  ☆ あるいは余裕のある方は 次の質疑応答も参考にしていただけるはずです。  【Q:信仰でない無神論というのは あるのでしょうか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6010202.html  ☆ それではよろしくどうぞ。

  • ブッダは 神ですか

     絶対(または絶対者)として想定していて 信仰の対象ですか。  きわめて単純に また 類型的に言って   人間  = 絶対(絶対者=神)         ↓      ゴータマ=ブッダ   イエス =キリスト という理解にはならないですか。説明するときの表現の問題では さまざまに異なっていると考えますが それらは 大同小異と見ることは出来ないですか。根本的な相違だと思われる事柄をおしえてください。なお可能性があるかも知れないと思って お尋ねします。  もし ブッダが神でないとすれば ブッディスムは 無神論として 《無神という神》を立てているものと考えます。そういう信仰のもとに 人は 人間の成りうる最高の状態としてのブッダを目指すと理解することになると思います。    このような考えに対して添削をおこなってください。

  • 神様のことが知りたい

    皆さんこんにちは。 私はキリスト教に関して、まったくの素人で、神様に ついて、どなたか教えていただければ幸いです。 1、神様の人間に対する役割とは、どんなものでしょうか? 人間を幸せにするために導いてくださっているのですか? 2、神様とは実物があるのでしょうか?それとも精神的な もの(心の中の偶像)なのでしょうか? 3、神様を見た事がなくて信仰されているかたも、神様の 存在を信じていると思うのですが、その神様が存在する、 という根拠はなんなのでしょうか? 4、神様は信仰者を救ってくださるのでしょうか? また仮に通り魔などにより理不尽に死んでしまった人は、 信仰心が足らなく、あるいは信仰心が全然ないために、 神様のご加護を受けられなかったということでしょうか? 以上、素人ゆえ失礼な質問をしているかもしれませんが、 通常、私のような素人が疑問に思っている代表的な事柄 だと思います。 何卒よろしくお願いいたします。

  • 《非在》なる神をどうして理解できないか

     § 1 不在と非在  たとえば ○○さんご在宅でしょうか? と尋ねて いえ あいにく○○は不在です。といった会話があります。  けれどもこのとき《不在》だと言っても ○○さんは どこか他のところにいるはずです。  すなわち 《存在(在宅)と不在(留守)》とは互いにこの同じ時空間――《宇宙》としましょうか――にある或る人の存在についてふたつのあり方を表わしています。また それだけのことです。  ところが もし《非在》と言ったらそれは何を表わすか? 《存在に非ず》とは どういうことか?  § 2 不在でありうる存在は 《感じる・考える》の対象となる  在宅と留守とのあり方を交互に変える○○さんなる存在については 見ることも触れることも声を聞くことも出来ます。つまり 《感じる》ことが出来て さらにその知覚を 概念で認識して《デカイ》とか《だが声は小さい》とか言葉で表現し得ます。  さらにあるいは その小さな声で言ったことが妙に気に成ってその内容について《考える》ことをもおこなう。  では 《非在》とは 何のことか?  感じることが出来るのか? 考えることができるものなのか?    § 3 《非在》とは 想定である  《非在》とは 存在・不在なるこの世界(宇宙)をこえたところに想定したものです。  世界の合理的な理解としての経験法則――たとえば これがあればあれが生じるといった因果関係――から自由な場(ないしチカラ)を想定して名づけたものです。  この経験法則としては ○○さんは 在宅であれば会社には不在であるということを示します。家と会社とに同時に存在することは出来ない。という世界です。  あるいは ○○さんであって 同時に別の人たる△△さんであることは出来ない。あり得ない。という世界です。  《非在》という想定は このような居たり居なかったりする経験存在を超えた場としてなのである。  § 4 《非在》という想定が 神のことである  《存在が有るでもなく無いでもない》。《この原因でその結果が生まれるといった因果律に支配されない》とは どういうことか?  ということは 《どこにも有るのではなく どこにも無いのでもない》とすれば 当然のごとく――このささやかな人間の知性で考えるに―― 《因果律に支配されない出来事が起きる》ことを 想定として表わそうとしている。  ここにもあれば 同時にあそこにもある。  という存在(つまり非存在という別個の場 つまりお化け)のことを 人間は想定することができる。想定して来た。《神》として。  § 5 神は 人間やモノについて言う《存在》とは 別個の場として想定されている。すなわち 《考えるや感じる》の対象ではない。  非在なる神は したがって あまねくそのチカラがはたらくという意味で《遍在》だと 人間の理性では推し測られた。あるいはしまいには 全知全能なる存在ではないかと。  この神は すでに存在の有るか無いかで推し測る宇宙の次元を超えているからには 《感じる》ことも《考える》ことも出来ません。  出来たと思っても それが合っているのかどうかが 人間には分からない。考えて分かったというのは この経験世界における思考や想像によって得た補助線――神を理解するための補助線のこと――を言っている。神本体ではあり得ない。  それゆえに・あるいはそれでも 分かったと宣言する人が出て来ても ほかの人においても納得することが出来るかどうかは分からない。(だから分からないながら ある程度の人数の《賛同者やさらには崇拝者》が出る余地はある)。  § 6 神を受け容れるかどうか。受け容れるというのは 《考える》でもなく《感じる》でもなく 《信じる》と言う。  この神は その想定として受け容れるかどうかは ひとの自由である。ひとの選択にまかせられている。  ただし《受け容れない》と選択した場合も 神という想定じたいは 消えることはない。《感じる・考える》を超えている非在を どうして人間が消すことができよう。  だから 神とわれとの関係は 受け容れたと受け容れないとに分かれるとき それらは《有神論と無神論》とに分かれたことを意味する。  一般に有神論は 神を信じると言い 無神論は 神を信じないと言う。  すなわち後者は 《無い神を信じる》と言うのにひとしい。  《信じる》というのは 《感じる・考える》を超えた《非在》とわれとの関係をあらわす言葉である。  § 7  信仰とシュウキョウ  《信じる――または わが心なる非思考の庭としての動態――》は 信仰としてありうるが この神をオシエとして《考えるや感じる》の対象にすることは――それが シュウキョウである―― いただけない。シュウキョウはその起こりからして 思考に非ざるものを思考したオシエを 信じるという自己矛盾である。  § 8 この神をどうして理解できないのか?

  • 神は 何でないか?

     神を想定する手続きについて述べつつ 神は何でないかを次のように明らかにした文章をたたき台とします。  批判・修正・評言などなど 自由なご見解をお示しくださればありがたいです。  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。  2. この《信じる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。  3. では ならば この《信じる》という概念を定義せよ。  4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の領域に想定する場合であり その場合のみである。  5. ということは 非経験だとすれば 精神の作用にとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。  6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。この非経験の場が 非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。これをそのまま受け取ったというその行為を《信じる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。  7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。  8. どちらも互いに同等の《信じる》行為である。非思考の場のナゾを 思考の場でその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の場は 経験事象としての有る・無いを超えている。  9. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス ブラフマン アミターユス マハーワ゛イローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。  10. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。  11. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。  《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。  12. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて思考の場に降りて来ている。この仮りの代理の場をとおして 非思考の場を望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。  13. だから《おしえ》は 思考の場に属しており それが非思考の場の神だということはあり得ない。なのに教義を信じるという言い方をする間違いが見られる。    14.エトセトラ。エトセトラ。  15. まとめて 神は何でないか?   A. 神は 人間の精神ではない。   ――精神だとすれば 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。   B. 神は 宗教ではない。宗教を信じるという表現は まちがいである。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ    っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力のすぐれたと    ころを けっきょくは《信じる》というおかしなこととなる。     つまり A. 神は 人間の精神ではないと言わねばならない。

  • いやしくも神なら 神は 普遍神であるほかない。

     1. 名前が違っても・誰にとっても 同じひとつの神であるしかない。  2. 有る神も無い神も 互いに同等であり どちらかを自由にえらべばよい。  3. 普遍神は 有るとか無いとかの経験事象を超えているゆえ。  4. シュウキョウは この普遍神を信じる――無条件に心に受け容れる――ことをつうじてヒラメキにて得られた直観を言葉にして表わし オシへとした結果生まれたものである。  5. 信仰という蝉の抜け殻である。経験思想ではある。つまり オシへは考えるものである。信仰という蝉本体ではない。  どうでしょう。  

  • キリスト教 人格的な神

    信仰者にとって、何故人格的な神こそが人間の自由なる人格を支える唯一のものであったのでしょう? 宜しくお願いいたします。

  • 普遍神は 無根拠が根拠である

     1. 人間が 理念としたり理論としたりあるいは義や愛と言ったりするそのような――経験合理性にもとづく――根拠から神は いっさい自由である。  2. その普遍神への信仰は 義無きを以って義とする。義をともなえば 人間のただのハカラヒによって神を信じるに過ぎなくなる。  3. この《神と信仰についての理論》にそぐわない神論や宗教のオシへは インチキである。  4. 言わんや 神は人間がつくったなどという浅い考えは もってのほかである。  5. 人間がつくったり規定したりしてできる神なら その人間のあたまのチカラを出ない。だから おふざけにしかならない。アイドル狂いにひとしい。  6. すなわち 根拠があるなら それは 人間の理性以上のものではない。のだから 無根拠を神は 根拠としている。  ご批判をどうぞ。