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涅槃・・・宇宙への飛翔
NemurinekoNyaの回答
- NemurinekoNya
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涅槃・nirvanaですか。nirvanaは、語源的に、よく分かっていないようですよね。一般的には、煩悩の炎を吹き消した状態、とかいうことになっていますけれども、 nir = without vana = cover nir+vana = without cover(覆い、覆うものがない) という説もあったりして(たとえば、宮崎宥洪著 真説般若心経 角川書店)。。。 この説が正しいとすれば、涅槃すれば、頭の上を覆うものがないのだから、人間は宇宙へ飛翔できたりして(笑い)。 冗談です、真に受けないでください。 この覆いは、煩悩障・所知障とかの意味ですので。 それはそれとして、 法界ですか。。。サンスクリットだと、dharma-dhatuですね。 これまた、難解な概念を引っ張り出しますね~。 dharma・法:教え(仏教)、規則、法則、存在、真理etc dhatu:場所(region)、種族、基体etc dharmaもdhatuは、どちらも、超~多義語で、それが組み合わさってできたdharma-dhatuというターム・術語は、super超~多義語なんですよ。ということで、dharma-dhatuが本当のところ、何を意味するのか、誰にも分からないんじゃないですかね。時に、存在(=法)の基体に近い意味に解釈されたり、真理の世界と解釈されたりもする。仏教の教えがやってくる世界ともかいしゃくされたりしている。 なのですが、法界=宇宙的意識という解釈は通常しませんね。 少なくとも、私はそのような解釈を見たことがありません。 なので、宇宙的意識or宇宙的神霊(?)とするのならば、これは、法界ではなく、密教でいう大我(maha-atman・マハトマ=brahman?)や法身仏とかになるんじゃないですかね。 宇宙意識ではなく、真理の世界というのならば、「法界」でもいいと思うんですけれども。 そもそも、質問者のいう《宇宙的意識》が何を意味しているのかも、私にはまったく意味不明ですし。。。 (意味が分からないのは、たぶん、私の頭が悪いためなんでしょう) また、《飛翔》という言葉も気になります。 ウパニシャッドなどでは、アートマンが天の世界(お月さんにあるとかいう不死の世界)に登っていく・上昇するみたいな言葉を使ったりもしているようですが、仏教には、そういう考えや用法はありませんから。 現代的な言葉であえて言えば、《没入》とかなるんじゃないですかね~。あるいは、《超越》とか《飛躍》とか。。。。 それはそれとして、 kazamidori365さんやbragelonneさんが指摘するとおり、 《梵我一如》や「それは(ブラフマン)は汝(アートマン)なり」とかでいいのではないでしょうか。 涅槃や法界という小難しい用語を出すまでもなく、これで事足りると思います。 かく言う私、《涅槃》や《法界》が何を意味しているのか、まったく分からないままに、その時々の気分で、どちらも用語も、いい加減な意味で使っております(笑い)。 余談なのですが、No4のお礼欄に、古代の蓮の種が時をこえて花をつけたとかいう話がでていますね~。 植物の種って、一種のクリプトビオシス(cryptbiosis)なんですよ。種は、保存期間中は、代謝をまったくしていないから、生物学的には、ある意味で死んでいるも同様なんです。少なくとも、「生きている」とは言うことができない。 《クリプトビオシス》に興味があるようでしたら、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%97%E3%83%88%E3%83%93%E3%82%AA%E3%82%B7%E3%82%B9 をご覧になってください。 これまた、余計なお節介ですが、 蓮の花が泥池で綺麗な花をつける、という話は、 《自性清浄心》は欲望や煩悩などに汚されることなく、美しい花(=悟り)を開かせる、って意味ですわ。 あるいは、 煩悩という泥のなかで悟りは花開くとか、煩悩即菩提とか、この娑婆世界(=不浄の世界)こそが菩薩の修行・活動の場である、 という意味ですわ。
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お礼
ありがとうございます >煩悩障・・ たぶん私もこれなんだと思います 煩悩が強すぎる だから 飛翔なんて考える 飛び立つ ということを考える 鳥が飛び立つときに すこし踏んばるのですが その姿は面白い感じがします 空を見上げて すこし体重を後ろに掛ける そして 思いきって 足で蹴るようにして飛び立つ とくに冬の寒い時 冷たい風に向かって 飛び立つ姿は なんか いつも心に残る感じがします 私は 自分の直観を大事にしすぎるのかもしれませんね いつも 心に響くものを求めてばかりいる 知識では救われない という癖がついてしまったんでしょうか・・