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分、秒が使われるようになったのは、いつからですか。
お世話になります。 時代劇を見ていても、「ちょっと5分待ってくれ」などと言うせりふは聞いたことがありません。分、秒という単位はいつごろから使われるようになったのでしょうか。学者と庶民では違うと思うので、それぞれわけて教えていただければうれしいです。また、秒、分、というのが使われていなかったころは、30秒とか5分という時間はどうやって表現していたのでしょうか。百数える間とか、線香1本ぶん、とか言っていたのでしょうか。
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日本では、明治5年に「太陽暦」が採用され、同時に現在の定時法が採用されてから、時、分、秒が使われだしました。 それまで日本では、日の出から日の入り、日の入りから日の出までを6等分した不定時法を使っていたそうです。 春分・秋分の日で、2時間=1刻、日の半分が半刻、その半分が四半刻です。 http://www.kuu-kikaku.jp/rekishi/jikoku-etc.html
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- pri_tama
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No.7です。 >申四刻六分というのは、今風にいうと何時何分ですか。 48刻法 だと 16時48分です。(48刻法の1分は、現代の3分=180秒) 48刻法の申四刻六分は、50刻法だと申三刻四分(16時45分36秒)~申三刻五分(16時50分24秒)の間に成る。(50刻法の1分は、現代の4分48秒=288秒) 各刻法間がぴったりと変換できない事を逆手にとって天文学に必要な時間を少しでも詳しく表記しようとしていた様です。 まあ、刻法は天文学上の要求(求めたい事象との最小公倍数などが考慮されている)に従って出来た事(他にも36、96、108、120等が…。)なので…。 (まあ、現代まで続く時刻表記だって一年が約360日で角度が一周360度だから、60進数の分や秒が計算に有利だったというのが大本の理由ですし…。航海などの天測で1分[角度、時間ともに]違えばとんでもない誤差になるので重要な要素です。)
お礼
たびたび、ありがとうございました。1分が今の3分というのは面白いですね。最少公倍数も考えて48というのも面白いですね。皆様からいろいろなご回答をいただき勉強になりました。個人的には、風俗店は昔も今も時間に気を付けていたというのがわかり、ためになりました。
- staratras
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>江戸時代の天文学は高度な学問だったそうですが、天文学者も短い時間の表現方法を持たなかったのでしょうか。 これについて興味深い話が残っています。月は時おり明るい星(恒星の場合も惑星の場合もあります)を隠します。これは「掩蔽」または「星食」という現象で、隠し始めた時刻と再び出現した時刻を観測することは天文学的に意義のあることです。 寛政7年7月(1795年)の宵に木星食がありました。当時幕府の天文関係の仕事をしていた2人の学者が外出中に江戸橋の近くでこの現象がまさに起きようとしていることに気づきましたが、あいにく時間の経過を図る器具がありません。そこで一人が穴の開いた銅銭にとっさによった紙こよりを通して「振り子」を作ってそれを振り続け、もう一人がその振れる回数を数え続けて、木星が月に隠されていた経過時間などを「振り子」の振れる回数として計測し、半里の道を浅草の司天文台(幕府の天文台)まで歩いて帰ったといいます。司天文台には垂揺球儀という時計がありましたので、これと比較することにより時刻を確認できました。 この垂揺球儀というのは日本で独自に作られた振り子時計で、国立天文台のサイトによれば次の通りです。 垂揺球儀は寛政初期、麻田剛立らが中国の「霊台儀象志」(れいだいぎしょうし)の垂球の説明から考案したと考えられている。垂球 の1往復を刻む指示盤の1つ目は100にきざまれ、次の盤は歩みを1/10、3つめはさらに1/10におとされ、1万往復が測定でき、更に別の簡単な 仕掛けによって100万往復まで測れ、1日約6万往復として、誤差は数秒の正確さをもっていたという。もっぱら天文観測に用いられた。(引用終わり) 今の暦では1日は8万6400秒(24×60×60)ですので、江戸時代の天文学者は18世紀の終わりには、相当正確な時計を使って今の1秒に近い短い時間まで計測していたことがわかります。ただし外出先で簡単に秒まで計測できるような便利な器具はなかったことは木星食の挿話からも明かです。
お礼
なるほど。ありがとうございました。その垂球ではかれる一番短い時間のことを学者たちは秒と言っていたのでしょうか。
- pri_tama
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天智天皇(中大兄皇子)が漏刻(水時計)を作ったのですが…。 (飛鳥寺の西にある水落遺跡がそれであると言われている) 記録に残る天智10年4月25日(四月辛卯)は、ユリウス暦では671年6月7日、グレゴリオ暦では同年6月10日であるため、毎年6月10日が「時の記念日」となっています。 なお、漏刻には48の刻みが付けられており、これが日本の最初の時刻単位(1刻=30分)になります。 室町時代に不定時法が採用されますが「草木も眠る”丑三つ時”」の様に、12の干支とその間を4分割する形で48分割法が残ります。 ちなみに平安時代位になると中国の先進的な天文学などが入ってきて、日の入り日の出の時間など(宮中の開・閉門時間なども同様の為、当時の貴族階級も数分単位の時間感覚を意識しながら行動していた物と思います)がある程度正確(「申四刻六分」の様に)に表現できる様になります。 (50刻法や100刻法を併用する←現代時間に変換するのがややこしいですが…。) なお、不定時法が一般的になった室町時代以降でも、春分・秋分には昼の長さが50刻、冬至には40刻、夏至には60刻であるという知識は暦等で知られていました。 清少納言(966年頃~1025年頃)の『枕草子』(996年頃成立)にも当時の時間表記を使った話が出てきます。 「時丑三つ、子四つなど、時の杭さす音など、いみじうをかし。子九つ、丑八つなどこそ、里びたる人は言へ、すべて四つのみぞ杭はさしける」(二六九段、時奏)
お礼
ありがとうございます。天智天皇が水時計を使ったというのは聞いたことがあります。しかし、刻、という単位が最少の単位でそれより短いのは刻の半分とか言っていたのでしょうか。申四刻六分というのは、今風にいうと何時何分ですか。
- mekuriya
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明治時代からです。江戸時代以前には分、秒という概念が存在しない。必要性が無かったからです。日常生活で分、秒を意識する機会は料理ぐらいしかありませんが、それは個人の勘で身に付けることであって、数値化できるものではありませんでした。だから江戸時代以前は何事も徒弟制度で師匠から弟子に伝えられる。「ちょっと5分待ってくれ」は「しばし待たれよ」といった調子です。ざっくりと漠然とした表現でいうだけの話で、それで間に合っていたのです。江戸時代以前は相対時制で、おひさまの高さが基準なんです。分秒は計測する手段が無いし、数値で表現したところだ誰も分かりません。そもそも腕時計など無いのですから。寺の小僧がつく鐘の音で、そろそろお昼にするべえといった調子ですから。未開人の数の数え方は、1,2,3,・・・たくさんといったもので、それ以外に数を表現する言葉がない。江戸時代以前の日本もそうだったんです。 日本に時刻表が初めて生まれたのは明治時代に鉄道が敷設されてからです。現在でも人が秒、分をもっとも意識する機会は鉄道を利用する時ではないでしょうか。 日本で最初の腕時計は1913年に服部時計店が売り出しましたが、おそらく当時は高級官僚ぐらいしか入手できない高嶺の花だった筈です。現代では子供でも腕時計をしていますけど、そんなのはごく最近のことです。
お礼
ありがとうございました。みなさまの親切な回答で庶民のことはよくわかりました。ところで、江戸時代の天文学は高度な学問だったそうですが、天文学者も短い時間の表現方法を持たなかったのでしょうか。
- tanuki4u
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鉄道ひとつばなし (講談社現代新書) [新書] 鉄道ひとつばなし 2 (講談社現代新書) 原 武史 (著) によると、鉄道が引かれるのと時計屋が出てくるのはシンクロしているそうだ。 どっちの本に書いてあったかは忘れたが、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%AD%A6%E5%8F%B2 こういう人の著作で、秋田県と宮崎県の例を出して説明していた。 つまり、分単位で動いている汽車を見て、分単位で計測する時計というものが普及するのだそうだ。 歴史の愉しみ方 - 忍者・合戦・幕末史に学ぶ (中公新書) [新書] 磯田 道史 (著) 著者は、歴史家として地震対策が必要だというので、南海トラフによる地震と津波が危惧される浜松の大学に移ったそうだ。 地震の揺れている時間というのを調べるのに古文書をあたっているそうで近衛基熙の日記では揺れていた時間を「道歩くもの、7,8町ばかり歩くほどの間なり」というように表現しているそうです。つまり江戸時代前半では、分とか秒を直接時間で表現する表現方法がなかったと思われます。 太政大臣にまでなった人なので、当時の日本では最高級の知識階級であったと思われます、その彼でも時間の表現方法を持たなかったということかなと。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E7%86%99 http://www.nhk.or.jp/timescoop/archive.html CODE : 120354 [われら時の番人]でも、分 秒は無かったように記憶しております。
お礼
知識階級の人でも、時間の表現方法を持たなかったとは意外です。ありがとうございました。
- chie65536(@chie65535)
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日本で時分秒が使われたのは明治になってから。 それ以前は、1日を12に分けて表現していました(「12等分」ではありません) 12に分けた1つを「一刻」と言い、約2時間くらいです。 その半分を「半刻」と言い、だいたい1時間になります。 さらにその半分を「四半刻」と言い、約30分になります。 それより短い表現は「一般」には無かったようですが、15分ほどでコトを済ます「切見世」と言う性風俗を「ちょんの間」と表現していたので、15分くらいの事を、俗に「ちょんの間」と言っていたようです。
お礼
もっとも時間を気にしていた世界が性風俗というのは面白いですね。ありがとうございました。
- mpascal
- ベストアンサー率21% (1136/5195)
No.2です。 誤 「日の半分が半刻」 正 「その半分が半刻」
お礼
ごていねいに、ありがとうございました。
- maiko0318
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江戸時代は4つ、9つというような時間を使っていました。 日の出から日没までを6つに分け、日没から日の出までを6つに分けて時間を表していました。 なので、季節によって時間がコロコロ変わるわけです。 明治になって、汽車が走るようになり、工場ができてくるとこれでは不便ですので、 時・分・秒が使われるようになりました。
お礼
なるほど。汽車がきっかけとは面白いですね。ありがとうございました。
お礼
なるほど。四半刻で30分ですね。ありがとうございました。