• 締切済み

運命や必然について

こんにちは。今回は「運命」や「必然」について語っている哲学者や宗教家、またはそのような事に関して書かれた本を教えていただきたいと思い質問しました。 私は物事を悩む時は大抵「あの時ああすればよかった」などと過去の分岐点を振り返り、そして選び取れなかった選択肢に心を悩ませるというパターンで悩みます。 そして今現在も過去を振り返り、自分が掴めたかもしれない輝かしいもう一つの世界に思いを馳せ、悶々としています。 できればもうそういうことでは悩みたくないと考えています。そこで今まで起きた事は必然である、今の自分の境遇は運命であるという考えもった哲学者、もしくは宗教家の意見に触れてみたいと考えています。 そうすることにより、未来は自分で切り拓いて行くものだが、例え失敗しても全力でやったならそれはしょうがない事なんだと、ある種の諦めがつくというか、過去の失敗に捕らわれずに生きていけるような気がするからです。 そこで改めてですが、世の中で起きた事を「運命」や「必然」と考えていた人や、そういう事が書かれた良い本があったら教えてください。よろしくお願いします。

みんなの回答

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.10

こんばんは。 >「天は人の上に人を造らず」 明治の前は江戸だったわけで、太閤秀吉の「刀狩り」で、「身分」は固定されたのでしょうか。 福沢が「そうじゃないよ」と言いたかったのは判る積りなんですが、 「結果的な平等」ということに、あまりにも配慮が無かった。 (「いけいけどんどん」ということになってしまった) 「豊かに成れる者から、豊かに成れ」ということだったんですかね。 歴史的評価としては、「御用学者」(のハシリ?)と思っています。

udon-soba
質問者

お礼

回答ありがとうございます。お返事が遅れてしまい申し訳ありません。 私は福澤諭吉についても、その思想に関しても詳しくないのでなんと もいえませんが、軽くその著書に触れてみた感じでいえばなかなかい い事を言っているなという感想を持ちました。ただ御用学者か否かを 言える程は読んでないのでそこに関しては正直わかりません。 ただもし御用学者的な側面があったとしても、時代が官を主体にした 近代化の時代だっただけに個人的にはがしようがないのかなと思いま す。

  • booter
  • ベストアンサー率34% (269/769)
回答No.9

(2/2) 前回答からの続きです。 下記に推薦図書を紹介します。 学問のすゝめ(伊藤正雄校柱版) http://www.amazon.co.jp/dp/4061597590 一万円札の肖像でお馴染み、福澤諭吉の学問のすゝめですが、私は生涯の読書はこれ一冊で良いと思っているくらいです。 上記の伊藤正雄氏校柱版はほぼ古文に近いので難しいとは思うのですが、頑張って読めば読めない事はありません。 斉藤孝さんの全訳本も出ていますので、難しそうであればこちらを(ただ私としては心情的に伊藤校柱版を薦めたいです)。 なぜ勉強をするのか、というのが書かれているのですが、私は超がつくほど納得しました。 そもそもの「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という言葉で始まるのですが、福澤が言いたいのは全く逆です。 簡単に概略だけ書きますと(私の脚色も少し加えました)、 「『天は人の上に人を造らず』と言っているが、『実際にはそうではない』。  賢い人もいれば愚かな人もいる。貧しい人がいれば富む人もいる。それはなぜだろう。  それは知識が有るか無いかの差だ。知識があれば難しい仕事ができる。難しい仕事が人に富貴を与える。  天は人に対して富貴を与えるのではなく、その働きに富貴を与えるのである。  ならば、その働きができるような知識を得るべく、学問をすべきなのだ。  学問を勤めて物事をよく知る者は、貴人となり富人となり、無学なる者は、貧人となり、下人となる。」 「役に立たない学問は学問ではない。憶えるべきではない。」 「世間の事物、進まざる者は必ず退き、退かざる者は必ず進む。進まず退かずして瀦滞(ちょたい:その場所に留まって動かない事)する者はいない事を理解すべきである。」 「世の中のことはケガのはずみで出来るわけではない。良い事も悪い事も必ず人の意思があってできるものである。」 「日本中、日本一となる自分の腕をふるう舞台には困る事はない。場所に寄らず、どこでも自らの力をふるうべきだ。」 時間あれば是非通読をお奨めします。

udon-soba
質問者

お礼

回答ありがとうございます。お礼が遅れてしまい申し訳ありません。 そもそも私が今回質問をしたのは、現在の境遇に不満を抱いている 自分をなんとか納得させるためでした。 そのような目的を踏まえて回答者さんの意見を見てみると、私自身 とても前向きになる事ができました。 それは回答者さんが運命や天命を諦めの考えではなくとても前向き なものとして捉えているからです。 現在の自分の境遇に対してはやはり不満はあります。しかしこの不 満を直視し続けてきたここ数カ月の時間の間に色々と目標が生まれ ました。 それらは天命と言える程立派なものではありませんが、私にとって はとても大事な目標となっています。 そのため、生まれてからここまでの冴えない人生も決して無駄では なく、今この瞬間に芽生えた目標を気づかせるための過程であり、 また運命であったと考えるのも悪くないなと思います。 また高橋是清の話が例として引かれていましたが、そこからは過程 が順風満帆か否かが問題ではないということを私は学びました。 そのため人生の目標ができた事を喜び、またそれまでの人生を目標 を気づかせてくれたものとして肯定し、またいまさらになって目標 ができた事を遅すぎるなどと卑下することなく、順風満帆でなくて も自分の目標に向かって生きていきたいと思います。 最後に学問のすすめについてですが、私は以前この本を読んだこと があります。しかしその時は現代語訳版を読みました。そこでいい きっかけなので現代語に訳していないものを読んでみたいと思いま す。 なぜなら目標にむかって生きていこうと思う自分にとっては、この タイミングでこの本を福澤諭吉の言葉のまま読む事はとても意味が あると思うからです。 どんな目標を達成するにしてもただ漫然と達成する事はないと思い ますし、人生には学び続ける事がとても大切だと思います。その事 を福澤諭吉自身の言葉により再認識したいと思います。

  • booter
  • ベストアンサー率34% (269/769)
回答No.8

(1/2) こんにちは。 少々長くなりますが、重要なことだと思いますので時間あればお付き合い下さい。 ドブ川の端に根付いたタンポポは、他と比べて悲惨な運命かもしれませんが、他のタンポポとは違う、別の場所に種を飛ばせる可能性があり、それはそのタンポポの辿る、そしてその方向に向かって突き進むべき運命であり、意味があります。 「俺ってどうしてドブ川の端に生まれたんだろう」としおれて枯れてしまうのは、運命を無駄にしており、意味がありません。 人には得意な事と不得意な事があります。勉強は苦手だけれど100m走が速い人がいたり、バスケが上手い人がいたり、スポーツは得意でないけれど頭がいい人がいたりと様々です。 こうしたように、おおよその人には必ず出来る事と出来ない事があります。 ちょっと宗教っぽい事を言いますが、人には神様みたいなものから与えられた天命があるので、それを一生懸命生きればいいのだと思います。他の人と比較して「自分は○○ができないんだ」とどうこう言って出来ない事を卑下しても、あまり意味はありません。 私は人生をよりよく生きるための哲学書、思想書というものは読んだことはありません。 ただ、こうした疑問や不安に役立ちそうなものを少しだけ知っているのでここに紹介したいと思います。 「人生の名言101」より http://kajipon.sakura.ne.jp/meigen.htm 私は神が私のことを見捨てたとは決して思っていない。 神はきっと、唯一私だけがこの試練に耐えられると思ったのでしょう(ミニー・リパートン)ポップス歌手 ※名曲「ラヴィン・ユー」で知られるミニー。彼女は乳ガンが全身に転移して31才の若さで他界した。その晩年の言葉。 解決できる問題をあれこれ悩むのはムダ、解決できぬ問題をくよくよ悩むのもムダ (映画『セブン・イヤーズ・イン・チベット』) 取り返しがつかないことなんかはない。自分だけの過去なんだから、好きに取り戻していっていいじゃないか(映画『異人たちとの夏』) 「苦悩というものは前進したいって思いがあって、それを乗り越えられる可能性のある人にしか訪れない。だから苦悩とは飛躍なんです」(イチロー)野球選手 「10年たてば笑い話だよ」(ドラマ『阿修羅の如く』から) 長生きをした人とは、単に長期間この世に滞在した人ではなく、多くの様々な人生を体験した人だ(ルソー)思想家 &浪費された時間は単なる生存にすぎない。使用された時間のみが生活である (エドワード・ヤング)詩人 &経験というヤツが年齢のかわりをする(プレヴォー)作家 何でも思い切ってやってみることですよ。どっちに転んだって人間野辺の石ころ同様、骨と なって一生を終えるのだから(坂本龍馬) 人生はゼロから生まれゼロに戻るのだから、失敗しても何も損はしない (英コント集団モンティ・パイソンから) 船は港にいる時、最も安全であるが、それは船が作られた目的ではない (パウロ・コエーリョ)作家 他人が成功したからといって、君が失敗したわけではないだろう &人生どうせ棒に振るならフルスイングで(山口隆)サンボマスターのヴォーカル &「アウトでも全力で走れ!」(ドラマ『CHANGE』) 宝石だって石ころから宝石になるまでは、いくらでもこすられ、もまれることが必要だ。 初めっから無傷なものなんてありゃしない(武者小路実篤)作家 人間追い詰められると力が出るものだ。こんなにも俺の人生に妨害が多いのを見ると、運命はよほど俺を大人物に仕立てようとしているに違いない(シラー)作家 人生楽ありゃ苦もあるさ。涙の後には虹も出る。歩いて行くんだしっかりと、自分の道を踏みしめて(『水戸黄門』OP曲) 王子様(皇太子)はこの世に何人でもいるが、ベートーヴェンはこの世に一人きりだ (ベートーヴェン) 自分の考えたとおりに生きなければならない。そうでないと、自分が生きたとおりに考えてしまう(ブールジェ)作家 失敗じゃないさ。この方法では上手くいかないって発見が出来たじゃないか。だからこの実験は成功なんだよ(エジソン) &一度犯した失敗は今後もう起こりにくいので、この先、失敗する可能性はひとつ減ったことになる(サン・テグジュベリ)作家 ---- 話は変わりますが、日本の首相を務め上げた人で好対照な二人がいますのでこれをあげて見ましょう。第93代内閣総理大臣の鳩山由紀夫氏と、第20代内閣総理大臣の高橋是清氏です。 ご存知鳩山由紀夫氏は、エリートで知られる大蔵官僚の長男として東京で生まれ、学業環境に申し分なく、東大に合格し、これまたアメリカ名門のスタンフォード大学にも博士号を取得、更には日本の首相まで務め上げました。 ただ、鳩山氏はこれで幸せだったのでしょうか。私には分かりません。先日のイラン訪問では愚行を呈し、首相時代に日米関係も単純に悪化させてしまいました。中国にいいように使われ、イランにもいいように使われ、かといって米国と良い関係を築こうとしてもこれも徒労に終わり、日本の歴代首相のうち、最悪の一人として数えられてしまう形になります。 高橋是清氏はあまりなじみが無いかもしれませんが、この人の略歴を簡単に書きますと、1854年9月19日(嘉永7年閏7月27日)幕府御用絵師・川村庄右衛門(47歳)ときん(16歳)の私生児として、江戸芝中門前町に生まれた(高橋是清 - Wikipediaより)とされています。つまり不倫とか浮気でできた子だったのですね。 そして、このあとが問題です。アメリカに留学した折になんと奴隷同然として売り払われており(横浜に滞在していたアメリカ人の貿易商、ユージン・ヴァン・リード[2]によって学費や渡航費を着服され、更にホームステイ先である彼の両親に騙され[3]年季奉公[4]の契約書にサインし、オークランドのブラウン家に売られる。牧童や葡萄園で奴隷同然の生活を強いられ[5]、幾つかの家を転々とわたり、時には抵抗してストライキを試みるなど苦労を重ねる。(高橋是清 - Wikipediaより))、さんざんな苦労をしています。 その後、日銀総裁、大蔵大臣を歴任し、第20代内閣総理大臣に就任。その後二・二六事件での暗殺で人生を幕を閉じます。たんたんと書いていますが、いかに激動の人生であったかお分かりになるでしょうか。 ただ、高橋氏はこれで不幸せだったのでしょうか。私には分かりません。しかし、改めて高橋氏の功績を見直すと、日露戦争での戦費調達成功、昭和金融恐慌の沈着成功と幾度となく困難を乗り越えてきており、まさしく人生を全うしているものではないでしょうか。 上記に、「浪費された時間は単なる生存にすぎない。使用された時間のみが生活である」とは書きましたが、私からこれに一つ付け加えさせて下さい。 「浪費された時間は単なる生存にすぎない。  使用された時間のみが生活である。  そして、意味を為した時間が人生である。」 私は上記に挙げた首相経験者のお二方本人ではありませんので、二人がどのくらい自分の人生に意味を為せたかという目盛りが分かりません。ただ、不幸が比較的与えられなかった鳩山氏が本当に幸福であったのか、あるいは幸運に恵まれなかったが苦労してその階段を昇っていった高橋氏が本当に不幸であったのかは、単一の答えは出せないでしょう。 繰り返しになりますが、人には神様みたいなものから与えられた天命があるので、それを一生懸命生きればいいのだと思います。苦労とは自分を磨き上げる為に与えられた、その人個人にとっての神様のようなものからの授かりものなんだと思います。 その時々の悲しみや喜びの運命を受け入れていって、自分だけが構築することのできる、自分だけの人生を構築して行ければいいのではないかな、と思います。 最後になりますが、一冊の書籍を紹介させて下さい。 字数制限があるので、次の回答で投稿します。

  • cat-food
  • ベストアンサー率61% (124/201)
回答No.7

過去に戻ることはできません。 過去に戻れたらどんなにいいことかもしれませんね。でも過去に戻ることは絶対できません。過去に戻って原因を取り去ればね、あなた、原因がないのに結果だけがあるということになる。そんなことはありえませんよね。原因があるから結果がある。だから過去には戻れない。 貴方がある行為をすれば、その行為が原因で結果が生まれます。その結果が失敗であったとしても、成功であったとしてもね。それは貴方自身の責任なのです。運命でも必然でもありません。結果を知って初めて、自分のやったことが失敗だったと分かる。でもリセットボタンを探してもどこにもない。それが人生というものです。 「あの時ああすればよかった」と、くよくよ悩む。それでいいじゃないですか。みんなそうですよ。未来は予見できない。自分が原因を作ったのですから仕方がない。 でもね。ここから大事なところです。 過去には戻れないけれど、擬似的に過去に戻る方法があるのです。それは過去の失敗を「くよくよと悩むこと」です。でもそれだけじゃ今の状態と同じですね。その上で、何が失敗の原因だったのか、どうすればよかったのかと考えることです。そうして、「今度は同じ間違いをくりかえさないぞ~。」と身構えておくのです。 そうすれば、やがて同じような状況がやってきます。必ず来ます。そんときは、うまくやれるでしょう。過去と同じことがおきたときに同じ間違いを繰り返さない。これが擬似的に過去に戻る方法です。 幸運の女神は後頭部が禿げているそうです。だから通り過ぎたあとで女神の後ろ髪を引こうとしても引くことができない。通り過ぎていくだけ。だからね。女神が来たときに失敗しないように捕まえなければならない。 過去の失敗をくよくよ悩んでください。そして、これが運命だとか必然などと考えないで、この次は失敗しないぞと念じてください。そうすれば、むしろ失敗したことがあなたの財産になるはずです。失敗しても、この次にうまくやればいいのです。幸運の女神は必ずまたやってきます。

udon-soba
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 回答を読んでいて気づいた事があります。それは今までそれ程決断して いなかったという事です。例えば、「もっと勉強すればよかった」とい う後悔の場合は、勉強する・しないを決断してきたのではなく、なんと なく過ごしているうちに勉強をせずにここまで来てしまっているのです。 だから後悔だけが残っているのです。 運命や必然を持ち出す前に、何も決断せずに無為にすごしていた事を反 省しようと思います。そして何かをやらないにしても、やらないという 事を自分で決めていきたいと思います。 そうすればより強く自分の責任だという事を実感できると思いますし、 またくよくよ悩むにしてもそこから何かを学びとれると思います。そ してそれを未来に繋げられたらと思います。 何にしても最後は自ら決断するという事を意識して生活していこうと 思いました。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.6

例えば、「子どもに失敗を許さない」という教育が、いかに子どもを卑屈にさせるか。 「他者から言われた事しか出来ない」というような人間に育ってしまいます。 失敗することを親から許されていない子どもは、「失敗から学ぶ」ということが、ありえないまま、大人になるわけです。

udon-soba
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 今後自分に子どもができた場合などには失敗を恐れない子 に育って欲しいので、回答者さんがおっしゃられたように 失敗を咎めないように育てる事は大事なのかなと思いました。 ただ私自身が過去について悩んでいる理由を、親の育て方に 求める気はありません。ましてや自分の親が失敗を許さない ような育て方をしていたとも思いません。あくまで自身の問 題だと思っています。 ただ失敗から学ぶ事が大切だという事は回答者さんの言うと おりだと思います。

回答No.5

御礼を頂きました 有難う御座います 私は回答する際には他者の見解は参考にしない事にしております 回答を攻撃しない限り個々の人格と多様性を尊重したいからです 仏教はその名のとおりに宗教です ひろさちやを御推薦申し上げたのにはそれなりの理由が御座います 宗教を信じる事ではなく 宗教を学問として考察できる人間だからです だから紹介文にも 学者さん と記載いたしました 仏教は それとは知らずに日本人の日常生活と心の中に深く又広範囲に認める事の出来る 諸条件の基本を成しております このことが質問者をして問題の解決になるからと御推薦申し上げました 宗教は行う事だと言います がしかし私は行わずに考察だけすることを旨として 学問的見地から仏教を少しばかり日々学んでいます 日常の中からでも学べます それが私にとっても仏教の素晴らしさなのです わたくしは仏教と言うものが存在しているものの 釈迦や菩薩には興味がありますが その見解や見識に興味があっても 仏教を信じていると言う訳ではありません どちらかと問われれば わたくしは無信心な方です 知る事と信じる事は全く別の概念です 貴方の見解や見識が高みに登ることを念じております

udon-soba
質問者

お礼

ひろさちやさんを紹介して下さった具体的な理由を教えて頂き ありがとうございます。 そして回答者さんの配慮を嬉しくおもいました。なぜなら言わ れるまでは気づきませんでしたが、私も回答者さんと同じスタ ンスだったからです。 ひろさちやさんは学問的に仏教を考察している方と聞き、さら にその著書を読むことが楽しみになりました。 宗教には、過去の優秀な人物が人間として生きる上で必ずぶつ かる悩みに対して必死に考えて乗り越えようとした結晶が詰ま っていると思うので、その考えに是非とも触れたいと思います。

noname#181697
noname#181697
回答No.4

運命や必然って奴は、神は運命を司り、因果律によって全ては必然として起きている、みたいな感じで何とでも言えちゃうし、どうとでも書けちゃうものなので、基本的にソレ系の本は、全て読むに値しません。 どこかで「私の人生はこんなもんじゃない筈だ」と思っているフシがあると、過去や事実の積み重ねとしてある、今現在を認める事が難しくなるものです。だから別の可能性を求めてしまうのでしょうけど、でもそれは何だかんだで、その時の自分自身の選択を否定している事にもなる訳です。 自らの行動に責任を持ち、自らの選択によって作り出した今の自分という現実は、謙虚に受け入れる以外にありません。過去を振り返って悶々とするのがイヤなら、運命や必然といった概念を信仰するより、ひとつひとつの選択を大切にして、過去に学んで糧とする方が良いと思いますよ。

udon-soba
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 結局のところにおいて私自身現状満足しておらず、それが過去の分岐点 へ自分を向かわせている原因になっているのだと思います。 そしてそれを断ち切る手段として、過去を決まりきったものだと考える 事による諦めによって乗り切ろうとしていました。 しかしそのようなアプローチではなく、自分が選択したことであるとい う事に重きを置き、そしてその結果を受け入れるというように考える事 も大事かもしれませんね。 ただ今の自分ではそんな風に強く思う事はできないかもしれません。変 えられたかもしれない過去というものに向き合う際に、「変えられたか もしれないが、こっちを選択した以上責任を取ろう」と考えるよりも、 「そもそも変えられなんかしなかったんだ」と考える方が楽だからです。 もしかしたらそのへんのメンタリティに私自身の弱さがあるのかもしれま せん。それを「自分の選択した道はもう振り返らない」とある種の自己肯 定を含んだ考え方ができた時に、私自身ひと皮むけるのかなとも思いました。

  • MOG777
  • ベストアンサー率14% (20/139)
回答No.3

「運命は性格にあり」という箴言があります。 選択というのは様々ですが、その背後にあるのは性格と選択するための判断力で、ほぼ一定です。 その意味することは、ある特定の選択を間違わなくても、その他の多数の選択において性格と判断力に応じた選択しかできないということです。長期的に観れば、性格と力量にふさわしいところに落ち着きます。 試しにスポーツやTVゲームをしてごらんなさい。 何回やっても結果は同じになるはずです。 ただし、そういった諦めの境地に達したとき、自分のさがや能力というものを客観的に理解し、諦めない境地よりも高い結果を得ることもできます。

udon-soba
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 「運命は性格にあり」という言葉はすごくいい言葉だと思いました。 なにより運命を司るものを神ではなく自分自身の性格においている ところが素晴らしいと思いました。 結局私の悩みというのは諦めがつかない事です。具体的には、「あの ときもっと勉強していればよかった」や「あの時もっと運動していれ ばよかった」などです。 しかしなぜするべきときに決まってするべき事をしなかったのかは、 ただの偶然ではなく、それをすることを億劫に思う性格から来ていた と思うと納得できます。そのためそういう性格をしている以上、過去 の分岐点でいまと違う結論を出すことはありえないと思えるため諦め もつきます。 とてもいい言葉を教えて頂きありがとうございました。

noname#179235
noname#179235
回答No.2

回答になっていなくてすみません。 私個人の意見として、そういう類いの文献は読んでほしくありません。 哲学、宗教は思想に過ぎず、度が過ぎれば何らかの事件に巻き込まれかねませんよ。 確かに栄光を獲れなかった事が今後も深層意識に働きかけ、質問者さんを脅かすかもしれませんが、そういうのにはまり、依存してしまう方がもっと怖いのです。 一時しのぎで済まされないのです。

udon-soba
質問者

お礼

回答ありがとうござます。 「回答になっていなくてすみません。」とありますがそんな事はありませんよ。 とても大切な事を言ってもらったと思います。 多分私のようなきっかけで思想関係に傾倒し、現実ではなく思想の世界に逃避 するケースが多いためそのように言ってくれたのだと思いますから。 ただ興味を持ってしまった以上質問であげたような考えに触れてみたいという 気持ちは変わらずにあります。またあくまで宗教に入信という話ではなく教養 程度という気持ちでもいますので、思想関係に触れる事がそれ程重大な結果に なるとも今は思えません。 それでも回答者さんがおっしゃられた事を戒めとして持たなければ、結果とし て傾倒し、依存する事も後にはありえるとも思います。そのためこのような回 答をして頂いたはとてもありがたい事だと思いました。

回答No.1

宗教家でもなく哲学者でもありませんが ひろ さちやさん をお勧め致します この方は大阪の北野高校から東大へ進学した学者さんですが 仏教に関して非常に広範に著作があり 早い話が貴方に仏教を御推薦申し上げたいと言う事です 是非このひろさちやの著作をネットで御検索下さい くよくよなんって 馬鹿馬鹿しいよ!!!!!

udon-soba
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 おすすめ頂いたひろさちやさんの本を読んでみたいと思います。 今まで仏教は他の宗教に比べて身近ではありながら中身までは 詳しく知らなかったので、これを機に仏教の中身にまで触れて いきたいと思います。

関連するQ&A

  • 偶然=必然=運命???

    ずっと考えていた事なのですが、頭の中がぐるぐるしてきたので、質問させて頂きます。 まず、タイトルにある3つの言葉の意味(定義)は、以下の通りです。 ・偶然・・・何の因果関係もなく予測していない事が起こること ・必然・・・必ずそうなると決まっている事 ・運命・・・生まれた時から定まっている、人の運 個人として全く落ち度がないのに、巻き込まれて被害者になる事ってありますよね。例えば、天災・事故・戦争などです。最悪の場合、命を落とされる方も多いのですが、ここで質問です。 1:こういった場合あなたなら、(生死に関わらず)その原因は「偶然・必然・運命」のどれに当てはまると思われますか?お答え頂けるのであれば、なぜ、そう思われますか? 2:「世の中に偶然はない」という言葉を信じますか?   具体的に、そう思った出来事などはありますか? 私は、「偶然・必然・運命」というのは、言葉やそれぞれの意味は違っても、もしかして同じ事なのかなぁと思い始めています。偶然が世の中になければ、全ての出来事は「必然的」に起こっている事になりますよね?その「必然的」に起こっている事柄の中にいつもいる私達は、それが「運命」なのでしょうか・・・。 この辺りで、頭がぐるぐる状態です(-_-;) 上手く伝えられないのですが、皆様の考えや意見をお教え下さい。私は哲学の専門家でも何でもありませんので、直感的な回答でも構いません。色々な意見を聞きたいです。

  • 運命を信じますか?

    私には自分では運命の人だって思って付き合った人がいました。でもこの前遠距離とか色んな要素で振られてしまいました。色々考えるとこの結果は必然的で自分を振り返ってもこうなるしかなかったと思います。私は今でも好きだけど、相手の事も考えてこの気持ちはずっと持っておくつもりです。本当に運命だったら、これから先の未来でまた会えるような気もしますし。そこで、みなさんは運命って信じますか?協力な縁って本当にありますか?体験談をよかったら聞かせてください。

  • 運命・必然の恋について

    自分でもおかしいと思ってるので他人が聞けばもっとおかしな話だと思うのですが、同じように運命というか必然的な恋を経験した事ある人いますか? 彼に初めて出逢った時に今までに感じた事のない感覚が全身を走りました。 よく言われてるビビビみたいな感じです。 そして言葉を交わした瞬間に惹かれましたが、ほんの数分の出来事で恋心というものでもありませんでした。 その後、道で偶然会い会話を交わし意気投合して連絡先を交換してアッという間に仲良くなりました。 それから3年以上、私と彼は不思議な関係を続けました。 ただ一つハッキリ話し合い分かっていたのはお互いに惹かれあい考える事・感じる事・楽しい事・笑う事の価値観が同じで一緒にいると居心地がよく楽で何でも話せる関係・お互いに離れる事が難しく特別な存在でお互い言葉にしなくても以心伝心ができていて、この関係は永遠に続くのではないか・・・お互いにおかしいと思いつつも終わらせる事のできない関係でした。 しかし、そんな関係は続くわけもなく、環境が変わり、私もきちんとした恋愛を望むようになり自分をまっすぐに思ってくれる人と正式に付き合いを始め彼と縁を切りました。 彼にとったら突然の出来事で受け入れる事は難しく何度も連絡をもらいましたが、私は彼と一緒になっても幸せにはなれないと思っていたし関係性に疲れてしまい、連絡先も変えました。 そして私は思ってくれる人と結婚して家庭を持ちました。 それから10年以上経ちます。 しかし不思議な事に、彼とは縁を切ろうとしても中々切れない縁なのか、連絡先を変えても10年間で2度会話を交わす機会がありました。 会ってはいなくて電話での会話です。 すごく長電話をしてお互いの近況報告や懐かしい話をしました。 彼は会いたいと言いましたが私は断りました。 私は10年間、彼を懐かしく思う事はあっても、もう一度会いたいとは思わなかったのです。 そして最近になって私は夫婦関係に問題が起き離婚を考えるようになっていました。 そんな事を悩んでる日々の中、突然彼の周り関係の人と再会する出来事がありました。 とても懐かしく色々話をして、彼は結婚して家庭を持った事を知りました。 ここからは私の直感なのですが・・・ 不思議な事に私は1年以内に彼から連絡が来ると思っています。 そしてたぶん10年以上ぶりに再会すると思います。 更に、いずれ彼は離婚すると思います。 それはいつの話かも分からないしずっと先かもしれないし私が理由というわけでもありません。 上手く言えないですが妄想みたいだしおかしい事を思ってると自分でもよく分かってるのですが、直感的な感覚なので自分でもどうしようもできないというかコントロールできない考えなんです。 昔から私は変な直観力がありスッと頭に入ってくる感覚は外れた事がないんです。 だから、今回も偶然やタイミングが重なり、こういう直感が働いてしまった事に困っています。 なぜなら、離婚を悩んで多くの事を想定して冷静に判断をしないといけない時に、余計な邪魔な考えが入ってしまったからです。 まさか10年以上もなくなっていた気持ちが蘇り彼という存在にまた振り回されるとは思ってもいませんでした。 しかし今の私は彼とは必然的に再会する流れができていたとしか思えません。 彼に初めて出逢い後にも先にもない感覚が走り私は死ぬ時に彼を最後に思い出すだろうとさえ思っていた相手、好きとか恋とか愛とかでもないよく分からない感情を持った相手、お互いに結婚する関係性ではなかった事も分かるし、一度お互いに他の人と結婚して人生を送って数十年後に再会をする相手だったのではないか?と思ってしまうんです。 しかし、そこで再会したからといって、私と彼が幸せに結ばれるか?というと、それも違うって分かるんです。 決して一緒になる事はないと思います。 私は絶対に不倫関係を持つ事は嫌だという強い意志があるので、お互いに結婚している間に関係を持つ事はないと思います。 彼はきっと私を不倫に誘ってくるというのはハッキリ分かりますが私が強い意思を持ち断るしかありません。 なので今回近くに起こるかもと直感してる再会はその先のもっと長い流れの途中経過にしか過ぎないと思っています。 友達として再会をして彼から不倫っぽい事を誘われるかもしれないけど断り、そこから再会した事で数年に一度会うような友達関係が始まるといった感じだと思います。 頭に入ってくる直感は縁を切ろうとして連絡を途絶えさせていた関係が終わり今後は連絡が気楽にできる関係性が始まるという感覚です。 私が離婚を考える理由は夫婦間の大きな問題なんです。 なのに重なってこういった思いが起きた事で、まるで私は訪れるかも分からない勝手な直感の相手のために離婚をしておかなけらばいけないというような感覚に襲われてしまっています。 本当に上手く言えないですが、10年間の結婚生活がポンッと浮いてしまって違う人生かのように思えてしまうのです。 10年以上前に別れた彼が10年間を吹っ飛ばして今に繋がってるような・・・要するに10年前がつい先月ぐらいに感じてしまう状況です。 そして離婚を考えていたところに追い打ちをかけるように彼に対する特別な感情が蘇ってしまい主人への愛情は更になくなってしまいました。 もし彼の存在がなければ私は主人と修復する道を考えたりしてるのではないだろうか? 主人の良い部分を見ようとするのではないか?と思うと、自分が本当はどうしていきたいのかが分からなくなっています。 彼を頭から一度離して考えてみると、主人とは今離婚しなくても一生一緒にいれる相手ではないというのだけは分かります。 ただ子供の事や生活の事、色々考えていけば、夫婦間の問題を私が我慢していけば世間一般的に見て幸せだろう家庭を偽っていく事も可能で子供が巣立つまでは結婚したからにはそうしていく義務があるのではないか?とも思います。 本当は夫婦間の悩みで離婚しよう!という気持ちが産まれていたのに、途中から彼の問題が混ざる事で離婚する=彼の存在の大きさで離婚をしてしまったという感覚になってしまいそうです。 こんな事を数か月間、悩んでるうちに疲れてきてしまって、この際主人から私を捨ててくれたらどんなに楽かとさえ思うようになってしまいました。 本当に直観力とか信じない人からしたら、バカバカしい悩み考えだと思うのですが、、、 もし、本当に世の中に宿命や必然的な出来事、運命というものがあるとしたら、私が今ぶち当たってる悩みは起こるべくして起きてるのでしょうか。 そして思うように流れに身を任せていけばいいのでしょうか・・・。 宿命だとしたらきっと避けようとしても必然的に起きていくだろうし、運命だとしたら私の選択で変えていけるのでしょうか。。。 簡単な話、再会の話が出た時点で会わなければいいだけなのですが、私はそこで一度会って本人と言葉を交わし自分の気持ちを確認しないと、一生モヤモヤの気持ちを抱えていく事になりそうで嫌です。 例えば彼がすごく幸せそうな家庭の話をしてくれて幸せに生きていれば私の直感は妄想だったんだ、よかったと思えるし、自分の中で終わっていなかった思いにハッキリ終止符をつけ主人との離婚も冷静な気持ちで判断をしていけるように思います。 同じように結婚したのに、他の人に運命や宿命を感じてしまってる人なんていますか?

  • 偶然って必然だと思いますか?

    38歳のバツイチ子ども3人女です。 私は幼い頃母親の『人生は運命によって決められている』って言葉があまり好きではありませんでした。『どう転んでももう既に結果は決まってる』ってニュアンスの母の物言いが好きではなかったのかも知れません。 (例えば私が将来の夢を語るときなどに、母がこの言葉を発することがあったので) でも最近、いろんな物事の重なりによって、『自分の身の回りに起こる偶然には、必ず理由や意味があるのではないか』と確信するようになりました。 例えば、先日仕事で、普段なら有りえない初歩的なミスをしたんです。そして偶然その日に限って会社にちょっとばかり今顔を合わせるとまずいなって人が来てたんですが、ミスの処理で会社に戻る時間が遅くなったために、その人と間一髪、会わずに済んだということがありました。(それが幸いかどうかは別として) その人は男性で、一度はとても好きだった相手だったのですが、お互いことごとくタイミングがずれていました。ニアミスのことも含め、どうにも結ばれない運命なのかなぁと思いました。(下手をすれば、いつも着飾っていたのに、♪どうしてなの今日に限って安いサンダルを履いてた~♪ってなりそうな。。) これはちょっと皮肉な『偶然は必然?』の例ですが、この頃は特に出会いでそう感じることがあります。そして年齢を重ねるごとに、出会いには意味があるんじゃないか、だからそういうものを大切にしたいと思うようになりました。悲劇に関して私は人生においてまだ大きな事件を知らずに生きて来ています。それが単にラッキーかどうかはわかりませんが。 ただ、『人間万事塞翁が馬』という言葉もあるように、意味の取り方によって、幸不幸どちらにも取れるということもありますね。 みなさんは偶然起こる出来事などについて、どんな考えをお持ちでしょうか? 教えてください。

  • この運命を受け入れたい

    こんばんは。 私はもうすぐ20歳になる男性です。 私はこれまでの人生で女性から「顔面障害者」「ばい菌」と罵倒されて笑われたり、犯罪者呼ばわりされて軽蔑されたりするなどの酷い目に遭わされてきました。 今思えば女性達の意見は正論ですし、実際にその見るに堪えない容姿などで女性に迷惑も掛けてきました。 悩みに悩み抜いた末に、私は女性と接する資格がないとの結論に達し、女性を避けて関わらずに生きていく事を決断するに至りました。 私は女性と関われない運命だったんだと思って、前向きに他の物事に目を向けて行こうと思っているのですが、現状は行動では避けたりはできているけど心は完全に諦めきれていないという…非常に情けない状態になってしまっています。 そこで質問なのですが、心の諦めというかそういった事が出来る方法や考え方がありましたら教えて頂きたいです。 専門家の立場からの回答も歓迎致します。 どうか宜しくお願い致します。

  • あなたが「どんな時に運命を信じたいか」がわかります

    という事なので試してみました。 https://curazy.com/archives/376426 みなさんはどうなんでしょうか ? 私の結果です。 あなたは、運命はいいことだけ信じるタイプの人です。← 当たっています(笑) 意外にも「自分の力で何とかする!」と運命は普段あまり信じていないようですが、持ち前のポジティブさでうまく物事が運んだり、救いの手が差し伸べられたりと良い方向へと進められるでしょう。「自分は運がいいな!」「良い運命が近づいている!」と自分に自信をつけて、どんどん好きなことをやっていきましょう! https://curazy.com/archives/376426/3

  • 奇跡?偶然?運命?それとも、たまたま?

    あなたが体験した、もしくは あなたが知っている、驚くべき 偶然などのお話を教えてください。 私は特に無宗教ですが、 最近偶然ではないような事がありました。 そんなに大した事ではありませんが…。 そこで、あなたが過去にどのような 奇跡、偶然、運命的と思われることに 遭遇したのか、少し興味があります。 もちろん、ただのたまたまだったりも。 聞いたことがある話でも結構ですので、 いろいろ教えていただけましたら幸いです。 どうぞお付き合いよろしくお願い致します。

  • 運命の出会い

    運命の出会いってあると思いますか? あると思う方、それは、出会った瞬間に気付くものなのでしょうか? 私は、今片思いをしている男性がいるのですが、お互いの共通点がとても多いのです。 境遇も似ているし、誕生日も近いし、お互いの父親の性格が話してみるとソックリだし、 あと今まで私の祖父の住む街には(ものすごく小さな街です)、 自分の知り合いとか親戚とかがいた事が無かったのですが 彼に、その街に親戚がいるんだよね~と聞き、 本当に小さな街なのでそのことにはホントに驚きました。 (彼と私は出身地も別なのに) そういうつながりって、運命的なものなんでしょうか? それとも、ただの偶然?勘違いですかね?? あと、よく最初にビビビッとくるとか言いますが 特にそうこなくても、付き合いを深めていくうちにあ、この人が運命の人だったんだ、となることもあるのでしょうか。 おかしな質問ですみません。 どうぞよろしくお願い致します。

  • 運命とはどういうものですか?

    運命とはどういうものですか? 私の大切な人の話です。 彼女は結婚前に今の旦那様の他に元彼とも付き合っていました。 元彼との間に子供ができて、結婚しよう、という話になったのですが 彼女は断りました。 理由は元彼の性格の事や、結婚後の生活、彼(今の旦那様)への想いだったそうです。 でも最近になって、あの時の事は意味があって本当はあれが自分の運命だったのではないかと思ってるようです。 私の考えは、そういう道筋を通らないで今の道を選んだ事がそれもまた運命だったんじゃないのか、と話しました。 話した後で私も色々考え自分でも「運命」という事が分からなくなってしまいました。 分かる方いらっしゃいますか?

  • 江原啓之さんの本

    江原啓之さんの本を読みましたが、矛盾に感じるところがありました。それは、自分の身に起きていることは全て必然だということと、宿命は変えられないが運命は自分の力で変えられるということです。運命を変えようとしている自分の行動、その間身に起きていることは必然ということですよね。ということは何をしても必然なのですから、全ては決まっているということですよね。何か訳のわからない文章になってしまい申し訳ありません。皆さんのご意見をお聞かせください。  美輪明宏さんの本を読んでみると、例えるなら家を建てるのが宿命、家を建てる過程が運命だと言っています。家を立てる過程に起きている事が必然とするならば、それも宿命なんじゃないでしょうか?よろしくお願いいたします。