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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:余りにも芸術的な芥川に対する谷崎の反論内容。)

谷崎が芥川に対する反論を展開する理由と具体的な主張について教えてください

ghostbusterの回答

回答No.3

遅くなってすいません。補足拝見しました。 > 芥川の豹変 「豹変」というのとはちょっとちがいます。 だれでも経験することだと思うのですが、大きな失敗をしたときや自分の限界に直面して、これまでやってきたことの延長ではその壁を乗り越えられないようなとき、わたしたちはいったん自分自身を砂漠化して、新たに組み替えていく、といったことを、意識的無意識的におこなっています。 いわゆる「リセット」というのも、自分のまわりの環境を変えるのではなく、自分自身を一新することにほかなりません。そうしてこの「リセット」が、ときに「成長」と呼ばれたり、「変化」と呼ばれたりするのです。 多くの作家もこの「リセット」を繰り返していきます。たとえば漱石の作品が「初期三部作」とか「中期三部作」と呼ばれる、あるいは鴎外であれば、後期の作品群が「史伝もの」と位置づけられる。これは漱石や鴎外が、自分自身の枠組みを作り替えながら、「リセット」を繰り返しながら創作をつづけていったことの現れでしょう。 では芥川はどうだったのか。 芥川は作家として華々しいデビューを飾ったにもかかわらず、早くから創作上の限界をも抱えていました。 彼の作品というのは、おもに説話や歴史に題材を取り、それを技巧を駆使して一個の作品に仕立てあげるというものでしたが、このようなことを続けていれば、早晩行き詰まることは目に見えています。ずば抜けた語学力と知性で、誰も知らないような諸外国の作品にまで手を伸ばしたところで、それが芥川自身の文学の質を高めるということには結びついていかない。その意味で、芥川はごく早い段階ですでに「リセット」の必要を痛切に感じていたと思います。 「筋のない小説」というのは、芥川にとってはこれまでの自分の作品の全否定にほかなりません。自分がやってきたことをいったんは全て否定し、そこからもういちど、創作の基礎となるような「思想」を自分の内に作り上げていきたい、という思いだったのではないか、と思います。 とはいえ、一方でそれを許さない経済事情がありました。生活に追われていた芥川は、たとえば志賀直哉のように、書けなくなったらそのまま休筆し、三年間の沈黙が許されるような資産はありませんでしたから、「利益率」の悪い短編を書き続けていくしかなかったのです。 芥川の作品群の中で、とりわけ目につくのが「戯作三昧」「地獄変」「河童」「枯野抄」といった芸術家の苦悩を扱った作品の多さです。それだけ芥川の関心が「芸術家であること」「創作の苦悩」にあったといえるでしょう。芸術に対して真摯であろうとすればあろうとするほど、芥川が追い込まれていったことは想像に難くありません。 > ○○派という立場論では芥川と谷崎はどうなるんでしょう。 芥川はいわゆる「主知派」に属する作家です。東大生を中心として発行された同人誌「新思潮」に集った久米正雄や芥川龍之介、菊池寛や山本有三らがこのグループの代表的な作家です。 明治四十年代に、自然主義文学がさかんになります。その嚆矢となるのが田山花袋の『蒲団』という小説ですが、これは小説を、フィクションであってはならない、人生の真実の厳粛な記録でなければならない、というふうに考えたものです。 それに反発したのが、耽美派です。文学というのは、実人生の再現ではなく、作家の想像力をもとにした別世界の構築だ、というふうに考えて、作品を発表していきます。このグループに属するのは永井荷風や谷崎潤一郎らです。 大正時代に入ると、ここに「白樺派」が加わっていきます。白樺派というのは、武者小路実篤や志賀直哉など、学習院を卒業した貴族やそれに近い階級の子弟が集まり、当代在学中に始めた同人誌「白樺」を母胎として、個人主義、人道主義を主張した人びとです。 彼らは、自然主義が、人間の裸の姿、人間の動物的な醜い姿をありのまま「告白」しようとしたことを強く批判し、人間はより美しく生きたいという欲求もあるのだ、というふうに考える。自然主義を批判しながら、彼らが始めた「私小説」という水路を、白樺派は受け継いでいくことになるのです。 そのあとに出て来るのが先にもあげた「主知派」です。自然主義のような感情に流される告白でもなく、白樺派のように理想に熱狂するのでもなく、耽美派のように美におぼれるわけでもなく、現実を冷静に直視し、矛盾を指摘する、知的で明快な主知派の作品は、当時の人びとに新鮮な感動をもたらしました。 以上簡単に概観しましたが、このような「~派」といっても、いまのわたしたちにはちょっとわかりにくいところがあるように思います。 文壇という言葉がありますが、いまの作家は誰も「自分が文壇の一員である」というふうには考えていないのではないかと思います。 けれども、大正時代というのは、この「文壇」というものの存在がいまとは比べものにならないほど大きかったんです。 当時は文学に携わるということは、社会から疎外されることでした。 反面そのことは、彼らの意識に、自分たちは芸術家なのだ、俗社会を超越しているのだ、という一種の特権意識となって作用していました。 ですから、その中にいくつかの派閥があり、お互いを敵視たり反目したりしていたけれども、同時に同じ「文壇」の一員である、という意識がありました。そのために、対立、といっても本当の対立にはならなかった。だから、「論争」といっても、なんというか、その対立の軸もはっきりしないし、どこにその「論理」があるのかよくわからない、といった恰好になっているように思います。 この時代の論争が、今日さして顧みられることもなくなっているのは、その論争に加わった多くの作家が、ほとんど読まれることもなくなっていることもあるでしょうが、当時の「文壇人」とわたしたちが共通の問題意識を持つことがむずかしくなっていることがあるように思います。

thegenus
質問者

お礼

こちらこそ完璧なご説明に補足などして申し訳ありません。教えて頂く立場ですのでいくら遅くなっても文句などございません。 今回もよく分かりました。文学史は高校以来で当時は受け付けずまるで点数にならなかった領域が一回答で一瞬にして筋目がつきました。国語の先生になられて欲しいです。志賀はあの写真写りに反してボンボンでしたか。印象づけながら展開される説明がお上手ですよね。 私は途中までしか文学を読めない小説嫌いの方でして表面的に質問したのですが本当によく分かりました。お陰様でございます。 基本的に短編は収入にならないのですか。芥川賞の芥川の短編をそんな視点で考えた事もありませんでした。太宰のイメージと交錯しているだけなのか何が原因か知らねど(単なる低所得なのか)芥川が借金に追われるような印象だけは映画かNHKあたりで認識させられていましたがその最中に大転換のような荒治療を課すのは破滅に傾きかねませんね。 小説は苦手なのですがモーパッサンの短編(翻訳)は好きです。彼は自然主義だったと思いますが日本の自然主義も同じでしょうか。同じものを感じられません。荷風は日本語が拙く読めて映画以外に読み進められませんでした。 なるほど文壇ですか。知りませんけどそうでしょうね。また文壇の有り様も短いご説明一発で分かりました。なんで回答者さんみたいな教師や教科書の記述がないのだろうか。 ようやく私にも文学が分かりましたよ(笑)なんであんなものが学問かただの文芸物書きだろうと見下げていましたが。要するに文壇の頃に焦点を合わせないと文学の体をなさないのでしょうね。私はせいぜい三島や太宰のうちさらに読みやすい作品を読了したくらいでして。ますます本件の論争が貴重に思えてきました。朝まで生テレビとは言いませんが、どういう性質の論争劇なのかも、再度のご回答を得た後、今、理解に至りました。野次馬根性の空騒ぎを諭して頂きました。 思いもよらず、ご厚意のお陰で、大変、多くの事を学べました。ありがとうございます。

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