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日本の書道の未来とは?
- 現代書道において、楷書がほとんど存在しない状況について悩んでいます。草書が主流で読みづらい作品が多いため、展覧会に行っても十分に楽しめないです。昔の人は楷書を重視し、1枚の作品で美を表現していました。しかし、現代人は筆を持たず、視覚効果や刺激を重視した作品を多く制作しています。
- 学校教育では書道をデッサンとして教えており、漢文に触れる機会が少ないです。書道は瞬間の状況を表現する芸術であり、無限のパターンが存在し美の法則があります。しかし、書道の偉い人たちは漢文を読めない人もおり、書道史や美学にはあまり興味がないようです。
- 美の役割や普遍的な美の概念が現代において失われていると感じます。現代では刺激を得られる一時しのぎの美が重要視されています。また、科学による自然模写や権威的な自己表現も充分とされ、書道の存在意義が薄れているように思います。しかし、書道が滅びたわけではなく、未来においてどのような役割を果たすべきなのか考えるべきです。
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私も少しだけ書道を真似たことがありますが、 楷書が一番難しかったです。 と申しますのも、楷書を美しく書ける瞬間というのが 私の場合は決まっておりまして、それはどんなときか と申しますと、 自分が筆をつまんでいることを忘れているときに、 不思議に美しく書けるのです。 必要だから書く、封筒の宛名書きなどもそうです。 私が思うに、 なんだか、書道の心は、ボールペンに生かされて残っている のではないかと、思えるのです。 いまのボールペンは、とめ、はね、はらい、が ちゃんと表現できるように作られていますね。 それが最近知ったのですが、ゲルインキボールペンというものでした。 それはむしろ筆ペンよりも筆に近いかもしれないのです。 伝統は、形を変えて、意外なところで息づいているものかもしれませんよ。 これを考察してみましょう。 まず、文字を正しく書くという規則性が生まれた。 人々は、その規則に縛られることによって、 逆に、文字を使った自由なコミュニケーションを手に入れた。 ここにひとつの、主体と客体の転回を見ることができます。 時代の流れと共に、木の棒から筆へと進化し、筆はペンへと進化した。 速く大量に書き、そして速く乾かす必要に迫られたからでしょうね。 そして、書道の心は、ボールペンの中に生きていた。 つまり、書道は時流に飲み込まれたのではなく、 時流さえも飲み込んで、生き残ったと考えます。 余談なんですが、規則に縛られて自由を得ることと、 筆をつまんでいることを忘れるほど書に夢中になることは 同じことなんです。これを主客合一とも言います。 それは、自分が筆になる事であり、墨になる事であり、 インクになりきることでもあります。
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- ri-zyu
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書道とはこうあるべきだに、捉えれていたら苦しいですよ 書道会はこうあるべきだに、捉えれていたら苦しいですよ 人生とはこうあるべきだに、捉えれていたら苦しいですよ 外の世界はあなたの自我分別が思うように成りません あなたの自我の方を壊してください あなたと筆と紙と字が一体に成った所を観て下さい そこは自我の概念がなくなった世界です 色即是空と空即是空 色不異空 空不異色 般若の大乗の中心思想です 一言でいうと何ものにも捉えれない心境です
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ご回答ありがとうございます。 どういうことだか、 書道の問をかけているのに、自我の話になる。 宗教の話ではなく、 科学的解答を求めています。 宗教はどうとでも言う。好きなことをいう。 科学は演繹と帰納を厳密に使い、答えを導いていく。 出来れば、思ったことを書いて頂くより、答えの手がかりを知っている方に教えていただきたいのです。 「答えなどないのです」的、神的な解答はよしてください。 書道を20年以上やっている人。 芸術を追求している人。 それらについて科学的、理系的な分析をしている人。 教育学、認知心理学、など書道と心理学の関係について、興味があり、 普段考えている人。 昔はこの関係の人がいて、沢山の本が出していた。しかし、哲学を混ざり、曖昧だった。 今はいない。ような気がする。 いたら正直になって、建前や揚げ足でなく、手がかりを教えて下さい。
良寛の書は、字ヅラだけ見ればヘタウマもいいトコなのに、人の心に強く訴え掛けるものを持っている。彼の書は、枯れきり、捨てきり、死にきったものの美しさを表現しているが故に、今もなお愛され続けている。 一言でいうなら「枯淡」となる訳だが、そんな言葉じゃ表現しきれないものを、彼の書は表現している。これが芸術というものではないのか。 それに対して現代書道は、カッコつけてばっかりで、根本が無く、思想が無く、個性が無く、空虚だ。何らかの美を表現をしている訳でもなく、単に屍を晒しているに過ぎない。 ・・・とまあ、この様な事を仰りたいのでしょうか。
お礼
ご回答ありがとうございます。 良寛はうまくはないと思います。 練磨されていない。 書道が美味いのと、倫理観、人間が素晴らしかったのとは違います。 芸術と偉い人の区別ができないで、 論理的、工学的に考える現代人が多くなった。 前提のない、経験のない、ことを脳内の認識と海馬のデータを使用して、 あべこべなことを考える。 手がかりがないのなら、抽象的な解答をすればいいのに。 まさに、この質問でいうの現代人に当てはまる。
お礼
ボールペンの中に生きているのだと気が付きました。 しかし、 書道が文字ではなく、思想のソースコードを記憶するツールだったのだと思います。 人は、手で表現しなくなった。 知識を増やし、ツールを使い、設計し、綿密な準備をし、 プロジェクトを立て、評価し、 工学的な、作り方をするようになった。 工学の操作を実現するプラックボックスとして仕組は継承され、 手で、思いを表現したり、 安らかな、静寂な、清楚な芸術はどこにも無くなった。 10年前に同じ質問をしたときは、多くの美術家や哲学者が興味深い、 考えを答えてくれた。 しかし、今は、捉える概念がない社会になったので、 gooの質問は、工学的なものばかりになった。 空所な心も科学の栄養によって満たされるようになった。 芸術はもう認識されない時代なってしまった。 美術館も空っぽで、 前衛絵画やデジタル画像処理による設計的絵画しか見られない。 空虚な時代を活きるには、 日本の書道の変化に気がつくのが一番の近道なのだろうと思いますが、 誰にも話が通じない。