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百済と新羅と倭国は何故、高句麗と戦ったのですか?
百済は農耕民、高句麗は広大な領域を持つ遊牧国家ですよね? どうして戦争をしたのでしょうか?経済的理由ですか? 単なる覇権主義ですか?最初に仕掛けたのはどっちですか? どうして朝貢、冊封しようとは思わなかったのでしょうか? 結果的には百済も高句麗も唐に滅ぼされ新羅が 漁夫の利を得てしまいました。
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高句麗の建国時の主要民族は貊族と夫余族で遊牧民ではなく、有畜農耕民で、寒冷な地で困難な農耕を補助するため漁労や狩猟に従事しました 高句麗の四方への膨張的拡張の過程から遊牧民の契丹の一部や将来女真族 となる半狩猟半農の靺鞨の一部を配下にしました 高句麗は当初は地方政治単位である5部を主体にした貴族中心の専制的軍事国家(depotic military state)で 露骨な軍事的膨張、被征服民の集団隷属民化を国家戦略の中心としました 高句麗の軍制は古くから整っており 中央軍と軍管区的性格を持つ各5部の地方軍からなり 中央軍司令官は大模達 1000人の兵を率いる指揮官は末客、100人の兵を率いる指揮官は百頭と呼ばれました 兵種も多岐に渡り おおまかに騎兵、歩兵、水軍に別れ 騎兵も札甲、鎧を装備し長槍や剣で武装した突撃騎兵である鉄騎(中国や半中華化した遊牧民の影響?) 軽装で弓を武装した騎乗弓兵(遊牧民の影響?) に別れ 歩兵は刀斧兵、槍兵、弓兵に別れ さらに築城術にもたけていました 前燕との遼西地域の争奪戦に敗れ西進が絶たれたため 百済に対し4世紀半ばに故国原王が遠征を企てますが 百済王の近肖古王に撃退されるどころか逆侵攻され故国原王は戦死します 逆恨みというべきですが 高句麗はこれを国辱と将来まで覚え、以来執拗な百済攻撃を企てるのです 故国原王戦死後、即位した小獣林王は仏教、儒教を取り入れ律令を施行し 5部を解体し、貴族を抑えるため国王直属の官僚で官庁を設立し中央集権化します
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