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無我についてご意見ください。

kurinalの回答

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.1

Flareon様、こんばんは。 「「誤解」(であるにも関わらず、それ)が広く、まかり通る」というようなのが、私が最もイカンとするようなところで。 ・・・知った上で、その上で、という判断が「ソレ」なのだとしたら、もう知らない(ただし、人権侵害は、しないでね)という他は無い。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 私は人格を蹂躙しているだけで人権は侵害していないよ。

Flareon
質問者

補足

私は思索を一人で進めるタチでね、、酒を飲んでサル踊りを見物しながら愉快に哲学しておる。 今回はそんな中で備忘録として書くよ。 中村元の書物によると、自己を認識するための哲学は、仏教の初期から大いに研究されていたようだ。 そこで旧来の自己についての認識を(アートマン)、旧来の誰かの認識で無く、社会の風潮や流布している宗教に焦点を当て、その社会で認識してている、自己に関する認識は、受け入れられない、誰にも侵害されない自己こそ自己であり、君達の考えるアートマンは私に当てはまらないからこそ無我だ。一切無と言う考え方が示すように、自己の本質(魂とか)は、ない故に無我であり、まさに釈迦は無を信じ、自己すらも無であり無我だとそのような考え方をしていたのだろう。 代案を示して考え方を進展させるような事は迷いだけを産むとでも解釈したのだろうか。 それともう一つ、社会生活を営むにあたって神の社を立てる事は文明がどこでも行っている事であり、神に関する見識と信仰は文明を特徴づける重大な要素だ。 そんな前置きの上で、人の備える善性とは、文明が農耕から始まったように、自分以外の生命を育むことで、自らも又生きる。そして人と人がお互いに生かし合う事で社会を形成する。このように善をお互いに計らい共同生活を送るのが善性だ。 自らが生きるために他者を生かし共に生きる事だ。 これを人は備えているが、信仰の在り方によって善に対する見解も誤差があるのだろう。そこで見解が異なる善意に対しては、極端な話として悪だと断定する。 他者の善性を悪と辱め人間以外だと虐殺する。 もちろん悪と決め付けた方がより悪だ。 信仰の共有と文明への帰属がそのようにさせるが、それは虐げられる立場からすると神が悪いと解釈されかねないが、実際は滅亡に向かう人類の信仰の在り方のみが完全なる悪である。 社会生活を営む以上は、信仰は個人的な問題ではないかもしれない。

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  • 無の境地について考察しました。添削してください。

    そもそも無の悟りは、 君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 お釈迦様のこの悟りを理解することである。 しかしだ、無の悟りで最も大切なのは、語る言葉はないしそもそもその必然がないという自覚である。 この自覚は、釈迦を理解することでは無くて、自らを理解することにある。 私は、「わが信仰の大道を行け」と推奨しているし、そのように自らの信仰に対して、悟りに至る事こそ仏陀の道だ。 現在の日本の仏教では、「語る言葉はない」コレが「語る言葉はないが私の心は信仰心で潤っている」こういう言い回しになって、それが空であるという事になっている。 この空の自覚であれ、本格的な無の悟りであれ、快楽主義者である君達はその心の快適さにばかりっ関心を向ける。 すなわち無の境地とは何ぞや。 悟りに至る道とは何ぞや。 無の悟りに無ではなく私の心と言う有りを見いだした私は、それこそが分別だと言うが、一般には無分別の事だとされているが、迷わない心を見いだすことにある。 自らの心が自らの自由となり、忙しく煩悩に焼けただれる事が無くなる。 無の境地と言う言葉のままに、思索の一切をやめて心も思考も平静となれる。 私はそんな感じに至っている。 快楽主義者の君達の関心事は、どうすればそうなれるかだろう。 答えは自らが仏陀になる事であり、そのためにはお釈迦様を追いかけるのはやめて、自らの心に向き合う事である。 そう言う訳で、 「わが信仰の大道を行け」 こうなる。 さて私は現在本格的に出版に向けた執筆をつづけていて、今回は新たに境地と言う言葉について考察しようと考えています。 そもそも私の一連の投稿で君達はすでに無を悟ってしかるべきなのだ。 しかし実感が無いだろう。 その実感を境地と言う言葉に置き換えて何が障害になっているか考察するとっかかりを探そうとしています。 サル踊りには慣れているのでそれでもかまいませんが、本格的な意見があると成果が上がりますので、常連さん以外で志のある方のご回答を期待いたします。

  • 無我はもしかしてくだらないことか

    あらかじめお断りしておく。 私は君達哲学者を、廃人で人間以前のクズだと考えていて、質問はそんな廃人に対する「猿回し形式思索法」だと判断して組み立てている。 無駄な抵抗をしたくもなるだろうが、それならそれでよい。 ともかく、わきまえた上で回答してくれたまえ。 前回はコレ↓ 無我について教えてください http://okwave.jp/qa/q7642694.html 参考としてコレ↓ ゴルゴムの総帥は歴史上実在した人物である http://okwave.jp/qa/q7370565.html もしかしたらお釈迦様は私と違って、世界の全てが苦しみであると言う娑婆世界観を方便や例え話でなくて、自らが本当に信じ込んでいて、「そんな苦痛の世界に私はいない」だからこそ私は無我にある、すなわちこの世ならざる幸福を私は味わっており、それは心が涅槃にあると言う事だ。 釈迦は、このような倒錯した心情であったにすぎないのではないか? 君達はゴルゴムの下僕なので娑婆世界観を信じるかもしれないが、私は遠く心を涅槃(あの世のようなところ)に置かなくても世界の全てに幸福を観る。 弥勒菩薩の観想として世界の全てに幸福を観ている。 もはや娑婆ではないので、君達はそんな幸福の世界にいて自らを救ってしかるべきなのだ。 誰かから、救われる事は無いぞ。 自らを救うのだ。 すなわち世界に開眼し、「孤独」これを釈迦は我と観じたのだろう。 そこから脱却する事こそ悟りと表現されたり、解脱と表現されたりする事柄だ。 釈迦の墓守をするなら、苦しみの中から、死の輪廻を経て幸福を現世に見いだすだろう。 これは生きながらに死ぬと言う事で君達がいま現在実践している事だ。 君達は生きようとせず、屍をさらしてさまよっておる。 それを何とかするにはゴルゴムと共に滅びる事で、自らの滅却だ。 観念上で一発、死んでみる事は、要するに死を理解することだが、これは精神を枯らし滅却することだ。 君達は過酷な修行ののちに悟りを開いた釈迦と同じく、ファイト一発、一回死んでみる必要がある。 そう言う事を語り継いできたではないか。 言っとくが処刑されたイエスにすがりついても全く同じ事をする必要があるよ。 蛇足だが「見る」と言う言葉を「観る」に置き換えて論じているね。 観音様とは華やかな歌姫で常に私のかたわらのおる。 観音様とは仏でなく神だな。 宣伝するがポケモンのメロエッタちゃんが古臭い観音像でなく現代の歌姫だ。 関連商品をおもちゃとして安く買えるから買ってくれ。

  • 無の悟りは、このくらいわかりやすく説明すればいい

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  • 釈迦の無我の悟りは不完全であり幻想だ。

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