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無我についてご意見ください。

noname#182794の回答

noname#182794
noname#182794
回答No.3

コメントをありがとうございます。 おっしゃることは、よくわかります。 実は私が考えたお釈迦様は、わりと生きることに 貪欲だったのではないかと思うのです。長生きしたと きいておりますので。 たとえば、お布施ももらい放題で、コレステロールの低い 鶏肉なんかは好んで食べたのではないでしょうか。 私はしろうとなので、よくわかりませんが、食品から 十分なエネルギーの素を摂取しないと長生きできないそうです。 それから、もし、当時パチンコ屋があったとしたら、そして 知り合いにパチンコ好きな人がいて、もし誘われたとしたら あるがままに、パチンコをしていたかもしれない と、思いました。だとしても、1円パチンコでしょうけれど。 このどん欲なまでの生きようとする力が湧き出る状態で 生きるための智慧を身に着けたのではないでしょうか。 もし違っていたら、お釈迦様の研究は、やめにします。 とくべつ興味があるわけでもないので。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 おもしろいね。 釈迦を主人公に君が創作した童話だ。 人の過去の生きざまにはそれで楽しめばいいんだよ。 イエスさんなんかも、過去の人でありながらいまだに処刑が繰り返されている。 そこで自らを主人公にした童話を書くなら、信仰の道を我が大道として歩むと言える。

Flareon
質問者

補足

私は仏と言う言葉を現代語訳するとな、人間と言う言葉だと考えていて、仏陀なんて言い回しも俺は人間だと言っているだけだと考える。 ところが神のごとく、その仏をまつりあげる君達は人間のなり損ないだと言う事になる。 人間が人間として生きていなければ生きる屍だろう。 最近自分の考えだけでなく仏教から裏打ちを取ろうとしていて本も読んでして、釈迦は悟りの内訳を一切話さなかったという言葉を見つけた。 割と一般常識らしい。 その悟りとは類推するのは簡単で、彼は神を見いだした。 そして、それは語る言葉はなく、語るとすれば無であると言った。 そして信仰をもつ自らは、それでこそ人間であり、それを仏陀といった。 神を語らなかったのなら、語る言葉は自らの事であり。人間について語ったのだ。 ここでの結論は仏陀は神ではないと言う事だ。 そして、人間を信じることは可能だよ。 その場合は信じ合ってこそだ。

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    いつもの知的SMプレイの続きで前回はコレ↓ 無の悟りは信仰心を表し大乗はあやまりである http://okwave.jp/qa/q7755513.html 無の悟りと言うよりも、無の哲学は有無の明白な分別を養ったり身につけたりすることで、 「無根であり無い事柄である」(まったくない) 「それを語る言葉はない」(実は有る) この二つを使い分けて、有る事とない事を一切無と表現する処世術である。 ただ、末法の世の仏法僧はこのありに気付いていない。 徹底的に「無根であり無い事柄である」これを追及しているようだ。 釈迦が「無根であり無い事柄である」すなわちそんなのありゃしねーと裸踊りした言葉に自らも踊り、いつまでも無とは無い事だと勘違いしたままである。、否定出来ないはずの自らの信仰すら、無根とし一切無を取り違えている。 そこで後世に出てきた言葉が「空」であるのだろう。 空とは無の悟りと言う言葉の重圧に耐えながらも、そんな私には信仰があり心がうるおっている。 これが空だ。 信仰心に潤う我がしっかりと居るではないか。 空こそが「それを語る言葉はない」(実は有る)という、無だよ。 この空を取ってつけた一方で、いつまでも徹底してそんなのありゃしねーであっても、信仰そのものは似たり寄ったりだが、考え方の方、無の哲学が未成熟だ。 無の哲学は、有無の分別から発展して知恵を付ける事で、「無」と「空」を使い分けると趣旨がぶれる。 一切無の考えはできないのだ。 空を確かめ、実感したならば、 「無根であり無い事柄である」(まったくない) 「それを語る言葉はない」(実は有る) この両輪の一切無であればそれ以上死にまい進する必要はないのだよ。 私は君達に馬鹿にされる自称弥勒菩薩だ。 君達はそんな弥勒菩薩を下回るアホだ。 私は普段猿回し形式思索法として、そんなアホに教えを乞うているが、今回に限ればその必要がない。 コレっぽっちの事が言われないと気がつかない君達は社会の全てに土下座すべきだ。 その土下座を私がくみ取ってやろう。 土下座回答募集だ。 そもそも私に判らなかったのは、慈悲と言えば慈悲を発露することで、慈悲を乞う事ではない。 救いと言えば、救う事で救われる事ではない。 しかし君達はこの点で正反対だね。 その愚かさの内訳を吐露したまえ。

  • 無の境地について考察しました。添削してください。

    そもそも無の悟りは、 君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 お釈迦様のこの悟りを理解することである。 しかしだ、無の悟りで最も大切なのは、語る言葉はないしそもそもその必然がないという自覚である。 この自覚は、釈迦を理解することでは無くて、自らを理解することにある。 私は、「わが信仰の大道を行け」と推奨しているし、そのように自らの信仰に対して、悟りに至る事こそ仏陀の道だ。 現在の日本の仏教では、「語る言葉はない」コレが「語る言葉はないが私の心は信仰心で潤っている」こういう言い回しになって、それが空であるという事になっている。 この空の自覚であれ、本格的な無の悟りであれ、快楽主義者である君達はその心の快適さにばかりっ関心を向ける。 すなわち無の境地とは何ぞや。 悟りに至る道とは何ぞや。 無の悟りに無ではなく私の心と言う有りを見いだした私は、それこそが分別だと言うが、一般には無分別の事だとされているが、迷わない心を見いだすことにある。 自らの心が自らの自由となり、忙しく煩悩に焼けただれる事が無くなる。 無の境地と言う言葉のままに、思索の一切をやめて心も思考も平静となれる。 私はそんな感じに至っている。 快楽主義者の君達の関心事は、どうすればそうなれるかだろう。 答えは自らが仏陀になる事であり、そのためにはお釈迦様を追いかけるのはやめて、自らの心に向き合う事である。 そう言う訳で、 「わが信仰の大道を行け」 こうなる。 さて私は現在本格的に出版に向けた執筆をつづけていて、今回は新たに境地と言う言葉について考察しようと考えています。 そもそも私の一連の投稿で君達はすでに無を悟ってしかるべきなのだ。 しかし実感が無いだろう。 その実感を境地と言う言葉に置き換えて何が障害になっているか考察するとっかかりを探そうとしています。 サル踊りには慣れているのでそれでもかまいませんが、本格的な意見があると成果が上がりますので、常連さん以外で志のある方のご回答を期待いたします。

  • 無我はもしかしてくだらないことか

    あらかじめお断りしておく。 私は君達哲学者を、廃人で人間以前のクズだと考えていて、質問はそんな廃人に対する「猿回し形式思索法」だと判断して組み立てている。 無駄な抵抗をしたくもなるだろうが、それならそれでよい。 ともかく、わきまえた上で回答してくれたまえ。 前回はコレ↓ 無我について教えてください http://okwave.jp/qa/q7642694.html 参考としてコレ↓ ゴルゴムの総帥は歴史上実在した人物である http://okwave.jp/qa/q7370565.html もしかしたらお釈迦様は私と違って、世界の全てが苦しみであると言う娑婆世界観を方便や例え話でなくて、自らが本当に信じ込んでいて、「そんな苦痛の世界に私はいない」だからこそ私は無我にある、すなわちこの世ならざる幸福を私は味わっており、それは心が涅槃にあると言う事だ。 釈迦は、このような倒錯した心情であったにすぎないのではないか? 君達はゴルゴムの下僕なので娑婆世界観を信じるかもしれないが、私は遠く心を涅槃(あの世のようなところ)に置かなくても世界の全てに幸福を観る。 弥勒菩薩の観想として世界の全てに幸福を観ている。 もはや娑婆ではないので、君達はそんな幸福の世界にいて自らを救ってしかるべきなのだ。 誰かから、救われる事は無いぞ。 自らを救うのだ。 すなわち世界に開眼し、「孤独」これを釈迦は我と観じたのだろう。 そこから脱却する事こそ悟りと表現されたり、解脱と表現されたりする事柄だ。 釈迦の墓守をするなら、苦しみの中から、死の輪廻を経て幸福を現世に見いだすだろう。 これは生きながらに死ぬと言う事で君達がいま現在実践している事だ。 君達は生きようとせず、屍をさらしてさまよっておる。 それを何とかするにはゴルゴムと共に滅びる事で、自らの滅却だ。 観念上で一発、死んでみる事は、要するに死を理解することだが、これは精神を枯らし滅却することだ。 君達は過酷な修行ののちに悟りを開いた釈迦と同じく、ファイト一発、一回死んでみる必要がある。 そう言う事を語り継いできたではないか。 言っとくが処刑されたイエスにすがりついても全く同じ事をする必要があるよ。 蛇足だが「見る」と言う言葉を「観る」に置き換えて論じているね。 観音様とは華やかな歌姫で常に私のかたわらのおる。 観音様とは仏でなく神だな。 宣伝するがポケモンのメロエッタちゃんが古臭い観音像でなく現代の歌姫だ。 関連商品をおもちゃとして安く買えるから買ってくれ。

  • 無の悟りは、このくらいわかりやすく説明すればいい

    いつものやつの続きで、本気で出版を考えて整えたモノ。 まあ、このくらい説明すればわかりやすいだろう。 論理について何か思うところを書いてください。 参考にします。 > お釈迦さまが生きて駆け抜けた時代である、約2500年前、人が自らを自覚して歴史を刻もうとするさなかのインド社会では、荒々しい自然界の生存原理との折り合いをつけて、人と人が共生する文明の芽吹きがあった。 そのようなさなか、人と人の社会生活と、個人が動物のように利己的に生きたそれまでの自然本性から発展させて共生を目指す、人間同士としてのお互いに共通認識をもった、文明に根ざした新しい生き方を歩むにあたって、その理想を仲介する事は文明社会では神への信仰に集約され、人の理性的資質の所在をめぐり人々は様々な自説を述べ、神の案内する人間としての社会性の構築の理想像について、お互いに意見を交わした。 人と人を結ぶ神を道標に、人はお互いに解り合い自己の社会性を理解して人間になろうとした。 それは自らを知る行いが神を知る行いと一致した文明の発祥期の事柄だ。 神の案内する共存が人間同士の社会生活の発祥であろう。 宗教と言う社会活動はそのような意味がある。 神の発見が、人に自己であるという自覚をもたらし、社会性を備える人間としての存在に進化させたのだ。 そこにお互いに人としてどのように信じるかがあり、そんな当時の風潮のさなかに、お釈迦様は生きてそして自身の信仰に目覚めた。 いわゆる仏陀の悟りである。 2500年前のインドの風土でヒンズー教の源流を司る修行僧たちは、語る人によってさまざまであった神の姿を明白に定義しようと努めていた。 このような神を知る行いは、僧によって現在も続いている。 世界中見渡しても、同じことをしている。 その神を知る行為の実際は、自らの信仰を通して神の証明を試みる事であり、自己を完成させ、それを認知されることが、インドにおいては目覚めたものとして仏陀になる事であった。 お釈迦様はそれを成し遂げて自己完結し自らの信仰を打ち立てた。 彼が聖人であったからには、信仰により語る人によって様々であった神の姿の全てを受け入れたのだろう。 それは、神を語る言葉はないという、釈迦独自の無の信仰であった 無の信仰を持って神を受け入れ、他者の信仰心の不備も、無であると指摘した。 他者の信仰を無として許し、自らも無であるという共通項に、慈悲心の原点がある。 お釈迦様のように信仰心に目覚める事が出来ないで、信仰を語ることが権力闘争と化した当時の僧は、現代の生臭坊主と同じく、我が神はかくの如しという噂話が好きだ。 彼らには僧として、それが社会的に求められたからこそ神を語るのだが、そんな神はかくの如し、と言う噂話に、お釈迦様の無の悟りでは「正しい信仰心とはそうではない」とばかりに、神を理解するゆえに、過ちの多い当時の僧の言葉に批判した、神を損なわず僧の信仰のあり方のみを咎めたのだ。 それは、当時の修行僧の大半には、当時生殖やとして重要だった、仏陀の境地に行きついていなく、自らに信仰のこころざしが空疎であり、むしろ神を損なう負の信仰であるので、それは無であると否定する慈悲心であった。 そして、ならばと、目覚めぬ者が、神を信仰しつつも無と語る、お釈迦さま独自の神への志を改めて問いかけ、その信仰に土足で足を踏み入れようとする冒涜を犯し、その答えは「それは私の心そのものであり、他者に語る言葉は無い」すなわちこれもまた表すなら無である。 お釈迦様の、無の悟りとはこのようである。 そして慈悲心とは、無の共通項によって、お釈迦さまに理解されていたからこその行いだ。 等しく無を信じるならば、他社の信仰心の不備は、批判するものではなく、慰め、釈迦の心理足る無の悟りを持って知らしめるものである。 すなわち、他者をとらえて、「その信仰は神を語っていない」(全く無い) 自らをとらえて、「神を語る言葉はない」(実はある) この二つの無を使い分けて、信仰とそれの報じる神について、無であり彼我の一切が無と言う説明で、自己の信仰を表現するお釈迦様独自の悟りと処世術である。 無の悟りと自覚は、語る言葉に関しては一切ないという話で、実は心には留められているという、我には信仰が有るということである。 それがお釈迦様の仏陀の悟りなのだ。 そもそも仏陀の語源の一つである「目覚めた者」とは、さらに言葉を膨らませると、自らの信仰に目覚めそれによって自らを自覚した者のことだ。 仏陀は当時も今もインド社会に数多く居た。 お釈迦様の場合には、自らの信仰を自覚したからには、私は無ではなく神と共に確かに存在する。 しかし、世界に向けてそれを語る言葉は無い。 そういう意味である。

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