• ベストアンサー

他者理解について

AKARIHIMEの回答

回答No.2

文章完成法、バウムテスト、エゴグラム、PFスタディ、ロールシャッハテストなど、主に投影法と呼ばれる心理テストがあります。 名の通り、書いた人の意識していない部分までを作品に「投影」する方法です。 箱庭などもそうですが、言葉に出せず、心の奥底にしまい込んでいる辛い気持ちを箱庭を作ったり、 風景構成法という絵に書いたりすることを繰り返すうちに、そのような辛い気持ちが作品に「投影」されて、言葉に出せるようになる、あsるいは言葉にならなくても、苦しさが浄化されるものです。 文章完成法(SCT)で検索すると、SCTの理論が出てきます。 バウムテストや箱庭は、ユング心理学が根底にあるといわれています。 しかし、これらのテストは、解釈する人の主観が入りやすいので、注意が必要でエスよ。 手紙の文面だけから相手を知るというのは、ある程度は可能でしょうが、限界はとうぜんあります。、 解釈しても、それを思いこみにならないよう気をつけた方がいいかとお思いマス。

yakkobe
質問者

お礼

お礼が遅くなり申し訳ありませんでした。とてもよく分かりました。もっと勉強します。ありがとうございました。

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