• 締切済み

「聞く」「話す」能力の発達と、感情の理解力

「人の話を耳で聞いて、その場で内容を十分に把握できる能力」また、 「感情や状況を、的確に言葉に置き換えて話す能力」を育てれば、 「他者の感情を察する力」も付随して育ってくるのでしょうか? それとも、言語理解力を高めるだけでは、「他者の感情を察する力」は育たないのでしょうか? (人は、もし相手の感情を察していても、例えば自分の感情を優先したり、相手の立場を尊重できなかったり、共感を示せなかったり、場にふさわしい行動が意に反してとれない、などの場合は誰にでもあります。しかし、ここではあくまでも、「察する」能力についてお尋ねしたいのです。) 「他者の感情を察する力」は、言語による意思疎通の訓練を重ねれば身に付くものでしょうか? まるで直感かのような「察する」でさえも、分析すればあくまでも言語理解がベースにあるものなのですか? 例えばですが、言語理解力は高くても、他者の感情に気づけない、また聴覚での理解力に乏しい、高機能自閉症などがあります。高機能自閉症などの人はそれを補う為、人間の持つ感情や顔の表情を、「嬉しい」「悲しい」などの言語という記号に置き換え、経験と結びつけて繰り返し覚えます。経験と感情を言語にパターン化して暗記して、人間関係を営みます。 では、その正反対の人っているのでしょうか? それは、空気を読んだり察したりするのが上手いのに、話を組み立てるのが下手、語彙が少ない、そして人の話の把握ができない、というような人のことです。 乳幼児の「聞く」「話す」能力と、感情の理解力は、どのように関係して発達するのでしょうか。 成人についても知りたいです。素人の思いつき質問で恐縮ですが、この分野に詳しい方がいらっしゃいましたら、教えて下さい。

みんなの回答

  • ruehas
  • ベストアンサー率68% (816/1194)
回答No.4

こんにちは。 我々の「情動理解」といいますのは「非言語コミュニケーション」によって成り立っています。従いまして、言語能力を高めても情動理解を深めることは基本的にできないです。 我々は相手の行動や言動の中から「表情」や「手振り」といった「情動表出」に当たる情報を基にそれを推測しています。 このように、他者の情動に対して推測・判定を下せるということは、我々の脳内では既に「対象の表象化」は行われているということです。ですから、この場合、「非言語疎通」において言語による表象化という作業は一切必要とされません。 これに対しまして、 「俺は怒っているんだぞ」 このような「言語疎通」においては「意味理解」という手続きが必ずや必要です。ですが、それが「本気なのか」「冗談なのか」ということになりますと、こればかりは相手の「表情」や「口調」などから「非言語疎通」を行わなければ絶対に判定することができません。つまり、我々は言語情報だけでは相手の情動を理解することはできないわけです。 では、文学小説など全てが言語情報である場合、我々はどのようにして主人公の情動に共感し、感情移入を行っているのでしょうか。 そこに「主人公は悲しい」と明記してあれば誰でもその意味を理解することができます。ですが、我々にとって最も重要な情報とは「主人公は何故悲しいのか」ということです。これが書かれていなければ我々は主人公の運命に共感することはできません。 これがどういうことかと言いますと、我々の脳は言葉の意味に対して情動を発生させているのではなく、「状況判断」を行うことによって感情を決定しているということです。 我々の脳内で「情動反応」を発生させているのは「大脳辺縁系(扁桃体)」というところですが、ここでは「快情動」と「不快情動」、この二種類の判定しか下すことができません。ですから、ここで「不快」という判定が下されたならば自分にとっての不利益であることに間違いはないのですが、それが「悲しいのか」あるいは「悔しいのか」、ということになりますと、何らかの状況判断が行われなければ決定することはできません。 友人が自分に「悲しい」というメールを送ってきました。その友人は最近可愛がっていた飼い犬を亡くしています。果たして、言語による情動理解といいますのは「友人は何故、悲しいという言葉が用いたのか」という状況判断によって裏付けられています。 「悲しい」「悔しい」、このような言葉に特定のイメージを持つことは可能です。ですが、大脳辺縁系に学習されるのは飽くまで「快・不快」の判定結果でありますから、我々は何らかの情報を基に状況判断を行わない限りそれを特定の感情に誘導することができません。ならば、対人疎通において我々にその情報を与えているのは言語ではなく、表情や手振りといった「相手の情動表出」と、そして「今現在の状況」です。このため、空気の読めないひとは相手の話を理解することができません。 このように、我々の「情動理解」といいますのはその全てが「非言語疎通」によって成立しているとしましても決して言い過ぎにはならないです。従いまして、言語能力を高めることによって情動理解を深めるというのは、やってできないことではありませんが、それは極めて遠回りな作業と考えなければなりません。 >乳幼児の「聞く」「話す」能力と、感情の理解力は、どのように関係して発達するのでしょうか。 「高機能自閉症」には言語の発達が遅いという特徴がありますが、実際に不足していますのは「聴覚言語」ではなく、主に「視覚認知」と考えます。このため、視覚を用いる「非言語疎通」が困難となるわけですが、これがまず「機能障害」である場合は生後学習との関係は結べません。 では、この症状として見られる、 「アイコンタクトができない」 「会話のタイミングが計れない」 「動作に目的意識がない」 このうち、上記ふたつは幼児期に両親との対話によって学習されることなのですが、この時期の言語発達といいますのは最も初期の段階に当たりますので、言語能力の不足がそのままコミュニケーション学習の障害になったとは考えられないわけです。そして、概ね二歳を過ぎるまでは「他者」というものを認識することができませんので、それが我々の「知性の基盤」であることは間違いないのですが、情動理解の学習といいますのは基本的に不可能だと思います。 では、問題になるとしますならば生後二歳を前後とする両親とのコミュニケーションと生後三歳(人格形成期)頃までの「情動体験」であり、言語学習といいますのは直接の関係が薄いと考えます。そして、それが「遺伝病」及び「器質性障害」であるならば話は全く別です。 このように、高機能自閉症では聴覚言語の理解が不足しているのではなく、身振り手振りなどによる意志疎通ができないために対話に困難が生じ、それが結果的に言語の遅れと評価されることになります。ですから、ここでは逆に言語学習を積み重ねることによって「非言語による疎通能力の不足」を補わなければならないのだと思います。ですが、只今申し上げましたように、これは本人にとってはたいへん困難なことであり、完全な克服の手段とはならないのではないでしょうか。 >では、その正反対の人っているのでしょうか? 高機能自閉症の場合は「情報の獲得」が困難であるのがその原因です。ならば、その反対ということになりますと、情報の入力はきちんと行われているわけですから、問題は「出力側」にあるということになります。そして、この場合は「発話障害」や「認知障害」などが考えられますが、その行動の結果だけでは正しい情動理解が行われているかどうかの判定は難しくなると思います。では、仮に正しい情動理解が行われているにも拘わらず行動に矛盾があったり社会性を欠いているということになりますと、やはりその判断能力を疑わなければなりません。 ひとつには単純に価値観の問題です。 ひとが困っているのに鈍感なひと。 みんな怖いと思うのに平気なひと。 このような個人差といいますのは生後環境によって作られるものですが、万人に共通する感情といいますのはその多くが社会環境からの刷り込みでありますから、よほど特殊な環境でなければ適応性に欠けるという事態にはならないと思います。ちょっと変わったひとっていますけどね、それも個性です。 ところが、近年ではこれに関係致しまして現代社会に影響を及ぼしかねない由々しき情報が飛び交っています。 情動理解といいますのは感覚情報の処理でありますから、この機能が正常であれば問題はありません。あるお医者様からの報告によりますと、コンピュータ・ゲームを行っている脳の磁気捜査を行った結果、側頭葉や頭頂葉は活発に反応していたのですが、大脳の統合機能を司る「前頭葉」の活動が著しく乏しかったということであります。他の二つの領野はコンピュータ・ゲームで視覚や聴覚を鋭敏に働かせるために活動していていましたが、ここでは前頭葉の高次機能を働かせる必要はありません。 成人でしたら全く問題はないのですが、これが子供の成長期で頻繁に行われますと、感覚処理能力といいますのはたいへん発達するのですが前頭葉の発達が遅れ、結局、脳全体ではバランスが摂れなくなってしまいます。そしてこの結果、情動理解を受け入れるための感覚機能は十分に発達しているのですが、前頭葉の発達が未熟なため出力側に当たる「理性行動」や「情動行動」の統合が上手くゆかなくなります。 このお医者様は「これは大変だ!」と社会に警告を鳴らし、コンピュータ・ゲームの普及は近年の暴力犯罪の低年齢化と関係しているのではないかと指摘しています。 目鼻は利くが行動が伴わない、このような事態は十分に考えられるということだそうです。但し、この場合は情動を理解していると言いますよりは、「相手の情動は察知できる」、というのが正しい表現のような気が致します。

noname#58441
質問者

お礼

非言語コミュニケーションの重要性がよくわかりました。言語能力を高めることと情動理解は深めることは違う、よくわかりました。それから、感覚処理能力に偏っている若者が増えていることは、常日頃から実感として本当に良くわかります。脳のバランスの悪さなんですね。相手の情動は察知できても、ふさわしい言動がとれないんですね。ただそういう人の中にも、非社会的、反社会的なタイプから、社会生活には適応できなくとも他者を和ませることができるタイプまでいるんじゃないのかなあって、そんな気がするようになりました。他にも多数の側面からの、面白いお話しと回答をありがとうございました。よく読み返しました。今後もまた熟読してみます。

  • nosunosu
  • ベストアンサー率36% (30/83)
回答No.3

うろ覚えなので,嘘かもしれませんよ(*^_^*) 自閉症の心理学的な研究として90年代の初めごろ「心の理論」に関する研究一連の研究がありました。「心の理論(Theory of mind;略してTOM)」についてはウィキペディアでも見てください。その結論は自閉症の人はTOMの獲得が非常に悪いが,一部にTOMの獲得ができている人もいる。しかし,脳の動的な画像診断によると獲得できている人たちも我々と同じ部位を使ってTOMに関する情報処理をしているのではなく,言語野に近いところで情報処理をしている。そのために,処理に時間がかかったりちょっと場違いな結論を得たりすることもある。さらに,TOMに関する訓練を行えば訓練場面では成績向上するが,それが実際の生活に生かされることはほとんどないという結論だったように思います。 つまり,言語系と感情系は本来脳の違う部位で処理されている。しかし,感情系の理解がうまく働かなくても言語系の部位に余力があれば,処理内容が似ているので,処理できなくはない。しかし,それも完璧ではないということなのだと思います。つまり,言語理解と感情理解は別物なのだと思います。 さらに,お尋ねの「正反対の人」ですが,いるんじゃないですか? 私は知的障害のある人と接することがあるのですが,その中にいますよ。妙に一緒にいると和む人…そんな人がどんな人でこれまで研究対象とされてきたかどうかは知りませんが。それから,乳児の言語能力と感情の理解力はかなり研究されていますが,まだ諸説ある段階だと思います。それぞれについて述べるのは私の能力を超えるのでNo.4の人が答えてくれると思います。m(_ _)m

noname#58441
質問者

お礼

言語と感情は、根本から別々なんですね。言語系のよる処理の訓練が実生活にほとんど活かされない、というお話しは、ちょっと衝撃です。心理学について今後もっと勉強したいところです。「正反対の人」についてのお話、為になりました。会って見たいですね、そういう方には。役立つ回答で助かりました、ありがとうございます。

noname#66078
noname#66078
回答No.2

他者の感情を察する能力と、言語を理解したり表現したりする能力は、脳の違う部分を使っているようですよ。 よく知られているのが右脳と左脳の違いなんですが。 それで説明してみますと、理屈や言語を理解するのが左脳、絵的なイメージで理解するのが右脳です。 「他者の感情を察する力」は言語能力をベースにしているか? ということですが…、 確かに「他人の感情」を記号とすれば、その経験を繰り返すことで、言語を覚えるのと同じように記号を覚えていく、と考えられます。 しかし、しかしです。 言語と、感情という記号は、それを表示する機能と読み取る機能がまったく違うのです。 これが先に述べた右脳と左脳です。 言語は左脳ですが、人の感情などは絵的なイメージで伝達されるのです。 時計のデジタルとアナログの違いと同じです。 あるアナウンサーが言ってましたが、生放送中は必ずアナログの腕時計をするそうです。 秒針の作る面積であとこれくらい喋れる、と時間配分できるからです。これがデジタルだと数字の羅列を見てもさっぱり、時間のイメージが沸かなくて、本番中にしどろもどろになってしまうそうです。 時間という空間的なものを二次元の文字で表されても、それを脳内でまた時間のイメージに変換するという二度手間が、脳に混乱を引き起こすのだと思います。 人の感情という、空間的イメージ的、絵的なものは、言語で伝達するものと違うルートを通るということです。 言語といっても自然に私たちが考えもなしに喋っている会話は右脳で(高速学習法はこの原理を利用している)、幼児が母親に怒られてとっさに「怖い!」というのは右脳です。 これは「人の感情の表示」機能が右脳、「自分の感情を読み取る」機能も右脳であるためにスムーズに言葉が出るわけです。 けれどもう少し複雑な感情を察する場合、input能力はあってもoutput能力が弱ければ変換ができないということです。

noname#58441
質問者

お礼

有難うございました。興味深い例をあげていただき、よく分かりました。 >…変換するという二度手間が、脳に混乱を引き起こすのだと思います。 なるほどです。アナログ、絵的なもの、日常のお喋り、とっさに感じ取る他者の感情、等の通るルートを意図的に鍛えるような方法をいっぱい知りたいです。俗にいう「右脳を鍛える」的な訓練だったりするのでしょうか。。。 複雑な物事をわかりやすい言葉にかえてペラペラ喋り続ける実況中継のキャスターとか、架空の状況でも何でも言語だけで表してしまう作家の人たちって、すごいなあと思います。脳内での変換に時間がかからない特別な能力のように感じます。どうやって身に付くのでしょうか。。。 mujieさんのおっしゃる最後の行みたいな人は、表現の為の知識や技法を訓練で身に付けるしかないんでしょうか…逆にinputが苦手ではoutput用の知識とスキルも活かせませんよね。スイスイと右脳左脳を使いこなすひとになりたいです。

回答No.1

要は、大脳的理解と間脳的理解の関係じゃないでしょうか?私は、双方独立したものではないと思いますし、インターフェイス的で、どちらかの発展は必然的に他方の発展に寄与するのだと感じます。気持ちのついていかない論理的理解は、あまり有益でないでしょう。また、定着度も低いでしょう。逆に、論理構成のない曖昧模糊とした感覚だけでは、その感覚に対する認識ができないために、はなはだ扱いに迷うものになってしまう気がします。 高次自閉症的な感覚、情緒過多な感覚、その間に人はバラけているのではないでしょうか。 ということで、質問に対しては「yes」です。

noname#58441
質問者

お礼

ありがとうございます。よくわかり、焦点がしぼられました。どちらも同等に発達すれば、各能力は互いに発揮しやすくなり、双方とも更に伸ばしていける、というふうに理解しました。もし、どちらか片方の強化ばかりに偏った環境で長期間をすごした場合、思考にアンバランスがでてくるように思います。たとえ、もう一方の訓練不足を後から補おうと鍛えても、これまで過剰に鍛えられている片方ばかり働き、もう一方の能力が阻害されてしまう気がします。偏らず双方同時に発達させる環境っていいなあとおもいます。片方が少し伸び、それに間もなくもう片方が追いつき追い抜かし…と、幼少期からの少しずつの発展が、もっとも可能性を含んでいると考えるようになりました。

関連するQ&A

専門家に質問してみよう