因果応報説は 共同主観にはならない。

 1. 因果律とは 別です。  2. なぜなら善悪ないし苦楽という主観による規定が含まれます。  3. すなわち 善...

manuke22 さんからの 回答

  • 2013/01/28 13:55
  • 回答No.23
manuke22

ベストアンサー率 54% (19/35)

「病状についてさえ医師もときには間違えることがある。死期についてはさらに度合いを増して医師必ずしも正しからずでしょう。当たるときもありますが間違うときもあります」
そのためにセカンド・オピニオンなどがあります。自分も間違うことがありますから、どっちを信用するかなら医者でしょう。
「当たるときもありますが」ってのはミスリードで、当たっている場合の方がはるかに多いでしょう。癌にかかった人への余命一年という宣告の場合などを考えているのかもしれせんが、そういうときに安楽死をするかどうかをもちかけはしませんし、もちだされても医者はそれを受け入れてはなりません。安楽死を適用する基準がありますから。病状が極めて進行しているのがレントゲン写真などからわかっているとき、つまり余命宣告より一年長生きできた患者の病気が治療不可能なほど進行しており、かつ回復の見込みがないならば、安楽死を提案したり要求してよいでしょう。基準を載せておきます。
死期が切迫していること。耐え難い肉体的苦痛が存在すること。苦痛の除去・緩和が目的であること。患者が意思表示していること。医師が行うこと。倫理的妥当な方法で行われること
また、筋萎縮性側索硬化症のように治療法が確立されていないケースでは医者は間違えません。患者も自分の状態が悪化していることを間違いようがありません。

「本人がまったく何の医学の知識もなしに死期を知ることはあり得ませんか?」
ないと思いますよ。また、単なる風邪だと思っていたが実は重病であり、病院に行ったときにはじめてわかった、みたいなケースも多々ありますね。

「医師にもその立ち場があります。患者がどうしてつねに優先されるのですか? そんなに死なせてくれというのなら勝手に死ねばよい」
勝手に死ねばよいと来ましたか。笑いました。さすが基礎理論。

「というのはその場で見せる一時的な態度のことです。あるいはつまり《死刑囚》というそのときの状態を捉えて、そうでない人間のその《死刑囚にはなっていないこと》と比べているだけのことです」
その理屈なら死刑に値する犯罪をしていない人間を、死刑に値する犯罪をした人間と同じように扱うことになる。つまり、なんの犯罪もしていない人間を犯罪者と同じように罰するべきだと。それは奇妙です。
死刑囚という状態を捉えているわけではない。死刑に値する行為をしたという事実を考慮している。死刑囚になっていなくても、たとえばナイフで十人の人間を殺した人間が現行犯で逮捕されたなら、彼は裁判のさいには被告人ですが、彼が被告人である状態を理由にして彼に怒りを覚えたり死刑に値すると判断するわけではない。

「人間どうしならその《いのちのとうとさ》は互いにひとしいと言ってよいでしょう」
なぜ等しいと言えるでしょうか? 測ったわけじゃないでしょうに。

「ほかの動物とは比べるということが筋違いです」
なにが?

「《価値》ではないのです、問題は。人間がこの世界におかれた初期条件のことです。否応なく受け留めて行かねばならない条件です」
尊さは価値の一種ですよ。尊さの定義をちゃんと書いておいてくださいね。
ねばならないとか規範化するなんてなかなか固いことを言ってきましたね。基礎固めがはじまってきました。

「この仮説はすでに葬られたも同然では?」
いつ葬られましたか? 私は知りません。

「ウソをつくことはつねに例外なくやましさ反応に会うという基礎理論はもうそこで終えており、そのあとそれでも方便としてウソをつくことがあるかも知れないといったような思考の問題になって行きます。そのような応用部門では、場合に応じて人に応じてさまざまな場合が考えられます。部分的な要素がひとつ違っても その場合というのは違って来ます。

 それでもそのカントは一般理論を捉えようとしているようですが

「ひとつに《ウソをつくことを禁じる規則》と言った時点でそれは基礎理論ではなくなっているということです。《規則〔規則化〕》が問題です」
基礎理論に立て。自由であれ。と言ってましたっけ。基礎理論ではなくなったんですか?

「ひとつに考えてもみてください。《同じ事態》と言っていましょう? そんなことはあり得ないのです。まして他人が経験する同じ事態のことだと言っています。無理です」
それを言うなら、やましさ反応がだれにとってもどんなときに生じても同じことを意味する、なんてのもありえないですね。
あと、それは私が考えたことであり、カントがそれに近いことを言っていたかは覚えていません。まさかカントが言っていると捉えられるとは思いませんでした。
たしかに出来事はその一回性に特徴があります。しかし、「他人が私と同じ事態に直面したなら、彼もそうすることをすすんで意志するとき」です。これはちょっと訂正がいるのですが、意志するときではなく意志するであろうとき、ですね。ここで言う彼とは、自分とは別の理性的存在者です。
「汝の意志の格率が、常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように、行為せよ」、これが定言命法です。これに即して嘘をついてよいかという抽象的な問で考えると、あらゆる嘘をついてはいけないとなるわけですが、私のように具体的な状況に直面したさいの確率を考えるなら、プレゼントをあげたのは自分だと子どもに告げることは、他の親つまり理性的存在者が意志することではないだろうという風になります。

「理性がその欲求の内容を、よっしゃ取り上げてやろうと思って、その方向その志向をある程度の行動の形式に仕立て上げるのです」
理性もエラくなったもんですね。すくなくとも私は、欲求を「取り上げてやろう」なんて考えたことはないです。
欲求はいわば動機、目的です。家を買うたいときは家を買うのが目的なわけです。理性はそのために何をすべきかを考える。つまりはどういう手段をとるかを。目的実現のための理性、欲求していることを実現するための理性であり、したがって理性は欲求の従者です。推論能力の代名詞である理性に「よっしゃ、取り上げてやろう」なんて意志はありません。
お礼コメント
bragelonne

お礼率 92% (10857/11721)

 つづいてです。


 ★ その理屈なら死刑に値する犯罪をしていない人間を、死刑に値する犯罪をした人間と同じように扱うことになる。つまり、なんの犯罪もしていない人間を犯罪者と同じように罰するべきだと。それは奇妙です。
 ☆ ええっとですね。ここは 《人間・存在》と《行為》とを分けただけです。

 ですから 《人間》を同じように扱うと言うことにはならない。
 《死刑囚になった状態》と《死刑囚になっていない状態》とをならべて見ているだけだという見方は それとして成り立つと思います。

 ★ 死刑囚という状態を捉えているわけではない。死刑に値する行為をしたという事実を考慮している。
 ★★(回答No.17) 死刑囚と死刑囚ではない人間への態度に差があります。
 ☆ についてですよね。
 ううーん。やはり 人間存在は 行為や思想に先行すると見ますね。
 ということは《人間への態度》ではなく 《行為についての見解》であり それならとうぜん《悪行をしたこと》にはきびしい態度を取ります。


 ☆☆ 「人間どうしならその《いのちのとうとさ》は互いにひとしいと言ってよいでしょう」
 ☆ つまり 《人間・存在》 これは 悪人も同じです。


 ☆☆ 人間がこの世界におかれた初期条件のことです。
 ☆ これは 価値評価以前のことです。とうといかどうかを考える以前のことです。


 無意識の説が葬られたも同然というのは ヰキぺで見ました。

 
 ★ それでもそのカントは一般理論を捉えようとしているようですが
 ☆ そうみたいですが そこでは 個別の場合ごとに結論を出さねばならないほど一般性を捉えることは むつかしいと思います。


 ★ 基礎理論に立て。自由であれ。と言ってましたっけ。基礎理論ではなくなったんですか?
 ☆ これは すでに一度触れました。
 そういうレトリックです。規則化ではなく。


 ★ それを言うなら、やましさ反応がだれにとってもどんなときに生じても同じことを意味する、なんてのもありえないですね。
 ☆ ただ この反応は 起こることは起こる 誰にでも起こる。とは言えます。


 ★ たしかに出来事はその一回性に特徴があります。
 ☆ 何て言いましたかね。決疑論? カジュイスティック? 個別にその場合その場合に よき判断を考えるというような。

 ★ 「他人が私と同じ事態に直面したなら、彼もそうすることをすすんで意志する〔であろう〕とき」
 ☆ これは あれですね。アダムスミスの《同感 sympathy 》ですね。これは ルウソの sympathie から来ているという話を聞いたことがあるけれど 真偽やいかに?

 ★ 「汝の意志の格率が、常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように、行為せよ」、これが定言命法です。これに即して嘘をついてよいかという・・・
 ☆ いちばんわたしが言いたいことは この定言命法とやらを けっきょく自分で編み出すかたちにならないと そのひと本人の基礎理論は確かなものにならないと思うことです。
 この文章が アマテラス語普遍概念法であり アマテラス人格語の自己表現のかたちだと見ます。

 この場合の《行為せよ》は 文字通り命じていますね。それが 妥当だと納得するのは いろんな場合のやましさ反応(あるいは 納得反応のようなもの)の経験を経て これこれの行動でよいと判断するようになる場合ですね。


 でもサンタクロースの暴露のことは それこそ応用領域だと思いますよ。
 あるいは ほかの人がどう考え行動するかというよりも それは ナラワシの問題である要素が大きいのでは? と思います。
 子どもに なぜウソをついたの? と訊かれたなら そういう慣習だったからという答えになるというようにです。そうしないのなら 自分で決めるよりほかに方法はないように思います。


 ★ ~~~~
 欲求はいわば動機、目的です。家を買うたいときは家を買うのが目的なわけです。理性はそのために何をすべきかを考える。つまりはどういう手段をとるかを。目的実現のための理性、欲求していることを実現するための理性であり、したがって理性は欲求の従者です。推論能力の代名詞である理性に「よっしゃ、取り上げてやろう」なんて意志はありません。
 ~~~~~~
 ☆ ええ。確かに《よっしゃ》と言って前向きになるのは 意志ですね。これは まちがえました。
 問題は 《目的実現のための理性、欲求していることを実現するための理性》が ほんとうに《欲求の従者》であるか? です。

 そしてこの場合に話が分かりやすいのは やましさ反応が起こる場合です。
 欲求にともなって やましさ反応が出た場合です。
 理性が いろいろそれこそあたまをはたらかせて考えるのは それは 《欲求の従者》であるからなのかどうか?

 家を買うというとき 資金をヘッジファンドかFXで儲けようとか考えたとしたら どうか?
 しかも一挙に理性の悪口を言おうと思えば そのような財テクが それ自体を目的となるように変身するとしたら それは――意志も一枚くわわっていますが そして欲望も言わば先にうごめいていますが―― 理性という犯人である要素が大きいように思われます。

 それは 欲望にうながされたりその欲望のもとめるものを意志が問い求めたりするというよりも むしろ理性が自己運動をするごとく《活躍》する場合。これがあるのではないか?

 たぶんそのような理性の自己運動の場合は 自己があたかも神のごとくいかなるものの下にも立つまいと誓ったようになった状態ではないかと推測されます。

 仕事をして報酬を得るという順序ではなくなり 報酬なり結果なりが先に来てそれを目的として理性がみづから方法を編み出して行く。

 この《理性わるもの論》は 急ごしらえです。いま ここまでとします。(中断します。失敗に終わるかも)。
投稿日時:2013/01/29 02:27
この回答にこう思った!同じようなことあった!感想や体験を書こう!
この回答にはまだコメントがありません。
あなたの思ったこと、知っていることをここにコメントしてみましょう。
関連するQ&A
  • 因果応報説は 共同主観にはならない。 哲学・倫理・宗教学

     1. 因果律とは 別です。  2. なぜなら原因や結果となるモノゴトに 善悪ないし苦楽という主観による規定がつけ加えられます。  3. すなわち 善因悪果(ないし善因楽果)また悪因悪果(ないし悪因苦果)という考え方は主観の範囲を出ない。  4. すなわち 善悪はこれを主観が判断するのだから けっきょく因果応報の説は 自業自得という考え方である。ゆえに 主観の範囲を出ない。  5. 言いかえると その前提(初期条件)として 神の愛の――または  ブッダの慈悲の――えこひいきがあることを意味する。のではないか?  6. ものごとがぜんぶ〔歴史の初めから〕一貫して自業自得であったならば えこひいきではないのだが 自業自得というのは 主観の範囲を出て有効になることはないのだから けっきょく自業自得としてすら 規定することにも意味がない。  7. 自業自得は へりくだってこれこれの結果はわたしの自業自得でしたと語ることはあっても 他者との話し合いの主題には 最終的な意義を持つものとしては 成り得ない。    8. つまり ひとつの解決法としては 初期条件において ナゾの何ものかによるエコヒイキがあったという見方が出される。  9. ▼(風は気ままに吹く) ~~~~~~   わたし(=神)は 〔双子の兄の〕エサウを憎み   〔弟の〕ヤコブを愛した。 (マラキ書 1:2-3)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  10. 前項は 母親の胎内にいるときからのことだと言う。言いかえると 神の愛を われわれ人間が勝手にこれこれこうだと決めつけてはダメであるようだ。  11. ダメというより もし人間が理解できるようなその愛ないし慈悲の仕組みであるならば その仕組みをわれわれ人間が仕組みなおすことも可能だとなってしまう。  ですよね?  12. ただし 主観の問題としてわが心の内なるいわゆる善行の道は捨て去ることもない。と考えてよいか? 善と言うのも 主観による判断なんですけれど。...

  • 因果応報説は 共同主観にはならない。 哲学・倫理・宗教学

     1. 因果律とは 別です。  2. なぜなら因果応報説のほうには 原因や結果となるモノゴトに 善悪ないし苦楽という主観による規定がつけ加えられます。  3. すなわち 善因善果(ないし善因楽果)また悪因悪果(ないし悪因苦果)という考え方は主観の範囲を出ない。  4. すなわち 善悪はこれを主観が判断するのだから けっきょく因果応報の説は 自業自得という考え方である。ゆえに 主観の範囲を出ない。  5. 言いかえると その前提(初期条件)として 神の愛の――または  ブッダの慈悲の――えこひいきがあることを意味する。のではないか?  6. ものごとがぜんぶ〔歴史の初めから〕一貫して自業自得であったならば えこひいきではないのだが 自業自得というのは 主観の範囲を出て有効になることはないのだから けっきょく自業自得としてすら 規定することにも意味がない。  7. 自業自得は へりくだってこれこれの結果はわたしの自業自得でした 責任はひとえにわたしにありますと語ることはあっても 他者との話し合いの主題には 最終的な意義を持つものとしては 成り得ない。    8. つまり ひとつの解決法としては 初期条件において ナゾの何ものかによるエコヒイキがあったという見方が出される。  9. ▼(風は気ままに吹く) ~~~~~~   わたし(=神)は 〔双子の兄の〕エサウを憎み   〔弟の〕ヤコブを愛した。 (マラキ書 1:2-3)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  10. 前項は 母親レベッカの胎内にいるときからのことだと言う。言いかえると 神の愛を われわれ人間が勝手にこれこれこうだと決めつけてはダメであるようだ。  11. ダメというより もし人間が理解できるようなその愛ないし慈悲の仕組みであるならば その仕組みをわれわれ人間が仕組みなおすことも可能だとなってしまう。  ですよね?  12. ただし 主観の問題としてわが心の内なるいわゆる善行の道は捨て去ることもない。と考えてよいか? 善と言うのも 主観による判断なんですけれど。...

  • スッタニパータ340に関して 哲学・倫理・宗教学

    中村 元訳「ブッダのことば」 340 戒律の規定を奉じて、五つの感覚を制し、そなたの身体を観ぜよ(身体について心を専注せよ)。切に世を厭い嫌う者となれ。 「切に世を厭い嫌う者となれ。」の真意の解説を希望します。ブッダの思想に通じている方の教説を希望します。 よろしくお願いします。...

  • 《因果の道理》は 道理ではない。 哲学・倫理・宗教学

     つぎのヰキぺの記事にかんする限り それは 何も言ったことにはならない。これを問います。  ▲ (ヰキぺ:因果の道理) ~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E6%9E%9C%E3%81%AE%E9%81%93%E7%90%86  § まえがき  (あ) 因果の道理は仏教の根本的な教理である。「因果律」・「因果論」とも言われ、釈迦が発見した「大宇宙の真理」とされる。日本をはじめ東洋諸国では倫理や道徳の根拠にもなっている。  § 概説  (い) 釈迦は、原因だけでは結果は生じないとし、直接的要因(因)と間接的要因(縁)の両方がそろった(因縁和合)ときに結果はもたらされるとする(因縁果)。  (う) そこで、縁起と呼ぶ法によってすべての事象が生じており、「結果」も「原因」も、そのまま別の縁となって、現実はすべての事象が相依相関して成立しているとする。  (え) 釈迦が悟った上記のような内容を縁起という。その教えを学問上「縁起説」と呼ぶこともある。  (お) 仏教において因果は次のように説かれる。   善因善果…善を行うことが新たな善を促す   悪因悪果…悪を行うことが新たな悪を促す   善因楽果…善を行うことが自分にとって望ましい結果を招く   悪因苦果…悪を行うことが自分にとって望ましくない結果を招く  (か) 例えば最初は嫌々ながら行なっていた人助けでも、何度か繰り返すうちにそれが習慣となったり、それが褒められることで自ら進んで行うようになる。  (き) 逆に最初は躊躇していた犯罪が一度成功すると、また罪を犯すことに抵抗を感じなくなったり、一度嘘をつくとその嘘を隠すために更なる嘘を重ねる様になる。  (く) これが「善因善果」「悪因悪果」の具体例であり、両者は原因と結果の性質が同じであるため、《同類〈因〉・等流〈果〉〔なる因と果との関係〕》と呼ぶ。  (け) 一方、善いことを行えばそのことで満足感・達成感が得られるのに対して、悪いことを行うと良心の呵責や罪が露見することへの恐怖が起こる。 これが「善因楽果」「悪因苦果」の具体例である。   (こ) 「善因善果」「悪因悪果」とは異なり、この場合の結果は一概に善か悪かを判断できない。  (さ) 例えば、善い事を行った自分を誇って他人を軽蔑したり、一度の善行に満足して善行を止めることがあれば、それは善行が悪い結果を招いたことになる。  (し) 逆に悪を行った事による心の苦しみが、その人を反省・更生へと導くならば、それは悪行が良い結果を招いたことになる。  (す) 両者は原因と結果の性質が異なるため、《異熟因・異熟果》と呼ぶ。  (せ) 「善因善果・悪因悪果」について“善いことをすれば良いことが起こり、悪いことをすれば悪いことが起こる”と解説される場合があるが、これは「善因善果・悪因悪果」と「善因楽果・悪因苦果」の混同を招きかねない不正確な説明である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これで記事の全部です。  (そ) この記事内容についてはすでに 出典を明らかにすべきだとか 中立的な観点が必要だとかのクレームがついているようです。  (た) ですが いまはそのような疑問点をもわたしたちが洗い出すかたちで問い求めて行きたいと考えます。  (ち) 出典の問題をのぞけば かんたんな形ながら (お)から(せ)までの説明は ふつうに中立的な内容ではないかと考えるのですが どうでしょう?  (つ) 一つ目の問いは こうです。    善悪が主観的なものであるからには 楽果も苦果もみな同じく主観的であって《のぞましいか否か》で定義するなら それらはやはり善か悪かで捉えても構わないのではないか? すなわちおおきくは 楽果⇒善果 苦果⇒悪果と見てよいのではないか?  (て) しかもいま――因縁の縁すなわち間接的な原因は措いておきますが―― 原因にしても結果にしても いづれもそのワタシにとって 善もあれば悪もあるということでないわけがない。(どちらでもない無記の場合もありましょうが それは当然のこととしてこれも特には触れません)。    * 因縁の縁をいま問わないのは それもけっきょく因と同じように 善をも悪をもふくむのがつねであると見られるからです。その議論は 以下に追ってすすめて行きます。    (と) つまりは 任意の一時点をとってそのとき ワタシの状態は過去の《善と悪とをふくむ原因》の結果として 《善悪の入り混じった》ものとしてみちびかれている。しかもその状態〔から繰り出す行為〕は 未来への《善と悪とをふくむ》原因となって 《善悪の入り混じった》結果をうむ。――このことは あたりまえであるはずです。  (な) ならば そのような・どの時点でもつねに《善と悪とをふくむ》原因かつ結果としての状態にあるワタシについて その行為の軌跡の中から 一本の線としての《同類因・等流果》(く)やあるいは《異熟因・異熟果》(す)を ただいづれか一方だけの取り出して これこそが因果関係であるぞと言ったところで 何の意味をも成さない。せいぜいが気休めである。  (に) つまりブディズムの説くと言われる《因果の道理》は けっして道理などではない。こう帰結されますまいか。どこが 《大宇宙の真理》でしょう。どこが《さとり》なのでしょう。かえってものごとの見方を 一面的な狭いものとしていはすまいか。  (ぬ) なんでこんな子どもだましのような《理論》が 永くつづいて来たのでしょう。日本人はここまでばかなのでしょうか。  (ね) ただし・もっとも 成功したひとたちは その原因を みなさんのおかげですと言って 因縁の縁のほうを重んじた見方で表現してはいます。そのあたりについても 考えるところがありましたら 回答の書き込みをどうぞ。    (の) (つまり 日本人は現実の実践では 好ましい世界観にもとづいていると思われるのに  ブディズムの理論だけは 成っていない。こういうことでしょうか)。  (は) (ブディズムよ 恥を知れというところでしょうか)。  (しかも そのブディズムに対して・またゴータマ何たらという人間に対して へーこらへーこら ありがたやありがたやと おもねっている〔ように見える〕。日本人のこの状態は どうしたものなのでしょう)。  (ひ) ゴータマは ペテン師であり 屁の河童なりと どうして言わないのでしょう。...

  • われわれはブッダという父親を殺して来なかったのでは 哲学・倫理・宗教学

     ないでしょうか?  あるいは ブッダはすでに死んでいると言うべきではないでしょうか?  あるいは われわれ日本人にとってはブッダは母親だと言うべきでしょうか。そのときには 一般に神話の伝えるような《父親殺し》のかたちではなく どうなりましょうか。母親を抜け出るとでも言うのでしょうか それをおこなって来ていない――のではないでしょうか?  さらにあるいは ブッダもしくはそのおしえは もうすでに確かに末法の状態にあり その基本的な思想としてのあり方において賞味期限を過ぎている――のではないでしょうか?  その欠陥は つねに《彼岸》として見られていること――そしてその点では むしろやはり《父親》のごとく立ちはだかっている―― ではないでしょうか?  この《ブッダ》――つまり観念のブッダとしての像――とわれわれとの隔たり これがつねに壁のごとく前にあり道を遮っているのではないか。こういう問いを持ちます。  ご教授を乞います。    減らず口をたたきます。質疑応答に取り上げられるブッダの多さを見てください。その議論の多くは あたかも意識の排泄であって さとりでも何でもなく 排泄であるなら金魚のふんのごとくつらなります。われわれはこの地獄から解放されるべきでは?  ぼこぼこになるまでご批判をたまわりますようお願い致します。...

ページ先頭へ