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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:因果応報説は 共同主観にはならない。)

因果応報説とは何か?理解するためのポイント

manuke22の回答

  • manuke22
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回答No.42

「本人の自己申告あるいは申告はしなくてもいいですから自己診断となります」 多くの人は基礎理論なんて知らないし、「去勢」「惰性(習性)」になってると診断した人に基礎理論を教えてまわらなきゃダメなんじゃないですか? 人格とか気質という「ゴミ」を漁ってる人ばかりなんでしょう? それは「ゴミ」だと教えてあげなければ。あなたの人格なんぞ人命に比べたら「ゴミ」だと。まさに脳を洗うと書いて洗脳しなければ。 「その結果が基礎部門ではもともとなかったと言っています」 胎児とか胎芽には比較する主観なんてないから当然ながら応用領域なんてありませんね。まさに「ゴミ」に穢されていない「聖なる」「清らかな」存在だったことでしょう。 母の糞便と血に塗れて産まれた「無垢なる」存在、その存在に近いと思われる知的障害者は(理性的能力はあなたにとってゴミだから理性的能力が少ないほど無垢に近い)電車で騒いだり涎を垂らしたりするわけですが、しかし理性的能力があまりないので「尊さ」や「対等」という関係がわからない。それとも知的障碍者はいわゆる健常者より無垢ではないのでしょうか? 人にロボトミー手術をすれば理性的な判断能力はなくなるので、人類全員ロボトミー化するのが理想なのでは? フマニタスとアニマリタス、健康と病気、主観と基本主観、さらには聖(無垢)とゴミ(垢)、ゴミを漁る人間とゴミを漁らない人間。二項対立の古典的な形而上学がボロボロでてきましたね。 「ひとりの人の《一》がほかの人の《一》と共通であるゆえに、十人いたとしてもどこまでも共同主観としては《一》である」 人間と動物のキメラとか面白そうですね。その場合だとキメラさんは0.5とかになるわけでしょうか?  「《いのちとしての存在。またそのとうとさ》」 尊さってなんですか? 存在とはなんですか? 「《飾り》によって友情やじんるいの仲間であることを共同化するならば、それこそ《何億人かいる人びとの中に同化吸収されてしまう》ものでしょう」 なぜ? 私は友人をあなたと同等に見たりはしませんよ。飾りによってとか言いますが私は飾りだと思いませんし。友人はあなたと同化しない。また、私が友人を大事にすることにフランス国民や人類とかなおさら関係しません。 「この現実の世界をどう見てどう認識するか? そのために基礎理論を提出しています」 「改善」とか「ゴミ」とか「落ちぶれた」とか言っているんですから、どう認識する「べき」か、でしょう? もしくは「こう認識してほしい」ですか? 解釈の仕方にハウツーをもたらすと言いますが、べつにあなたの理論もどきがほかより優れているわけではないんでしょう? あなたは比較しないんですから。 フッサールの自然主義的態度のエポケーのほうが「生活態度」をどうたらより方法論的にも優れています。もっと魅力的なプレゼンをお願いします。 「それには相手がおとな一般(=ふつうの判断力)にはまだ成っていないことと」 命とかすべてとか大げさなんですよ。 「普通の」判断力をもってるのは誰でしょう? 誰が誰を「普通の」判断力をもっていないと判断し、そのように判断した人間の判断力は誰がなにを基準に判断するのでしょう? 「やましさのみを殊更に取り上げるのは基礎理論ゆえです」 なぜ基礎理論は疚しさのみを大々的に取り上げるんですか?  「《存在することそのもの》にかんしてヤマシサを感じることはありません。そう思うのは理性です。飾りかあるいはわるいゴミです」 なぜ生きることに疚しさを感じないんですか? なぜ悪いゴミなんですか? 「これらを並べ集めていまの基礎理論が出来あがればそこまでです」 無理ですね。デリダやレヴィナスはあなたに絶対そぐわない。バタイユも無理。単に言葉をその意味もわからないまま使うことができるだけ。 あと「基礎理論」のどこがどう「新しい」んですか? まったくわからないんですが。 「《産みだした》がすでにそこにあるものを見い出し」「基礎理論が共同主観であると言っているのに」 あなたが考えを巡らせて思いついたもの、発明したものにすぎません。どこに「在り」ますか? 「在る」とはなんですか? そことはどこですか? なぜ「すでに」あるものだと言えるんですか? 見出したdis-cover。つまり「飾り」という覆いvealを除いたreことで、あなたは基礎理論を見出したre-vealと言う。あらかじめpreそこに在るものensを自分は見出した。まさか。 「これは人間観の間違いでしょう。人間の精神が外から他者によって損傷を受けることはあり得ず」 なぜですか? 人間がまさに傷つく、不正in-juryを被ることは多々あります。PTSDなどありえないということですか? PTSDはつまり仮病だと? 「本人が主観にもとづき思惟し行動するという問題のみなのだから」 どこが本質主義ではないんですか? 人間本性は本性naturaであり本性は本質でしょう。違うならどう違いますか? 「本体の樅の木はいのちとしての存在」。本体essense。「ゴミ」や「飾り」という枝葉末節を切り捨てた「人そのもの」。「ゴミ」や「飾り」は偶有であり、実有は「命としての存在」。もろに本質主義です。そして命なら動物にも植物にもある。しかしあなたによれば動物は「共同主観」をもたないことがまさに本質的な違いなわけでしょう。存在esseを語る時点で本質essenseは不可分。 偶有/本質。 偶有→ものに付け加わったり失われたりして、xがxそのものであることには関わらない付帯的な性質(ゴミ、飾り) 本質substantia, essense→xがxであると云いうるために最低限持たなければいけない性質(命としての存在) 動物は人間と違ってすべての人間がもつ共同主観をもたないのだから、人間とは本質的に違うわけでしょう。言語が「人間に」生得的innateであり動物はそうではないという生得論nativismをとるなら、それは本質論と不可分です。 「まづ本人の主観こそが問題だというときモデルはあるようでない。あったら、また作ったら、それは主観の動態にならない。共同性が固まってしまう」 なら人命を神聖化しない主観があってもなんら問題ではないでしょう。それをわざわざ「歪み」や「去勢」などと評価する意味がない。 「もしお望みならばみづからに対して従僕であるのみです。ナラワシとしてみづからをかたちづくる」 自己洗脳ですか。そうであるならやはり共同主観など要りませんね。自分がしたいようにすればいい。これだけなんですから。 「ちゃんとしたおとなは誰もが自分ひとりで考えて生きます。話し合ったり助け合ったりすることは何の障害にも変な補助にもなりません」 「ちゃんとした大人」、「変な」。おかしいですね。あなたは議論や批判はなんの役にも立たないと言っているようです。 「誰もが」? どうやって確認しましたか? 夫婦は話し合います。妻は母に自分をどう育てたかなどを尋ねたり友達と情報交換をします。具合が悪い人は医師に相談したりします。なぜか? 自分一人で考えることの限界を知っているから。分を弁えているからです。 あなたもルソーをパクりアウグスティヌスをパクり色んな言葉をパクります。ここで質問してる人はみんな「ちゃんとしていない」のでしょうか? 「ちゃんと」ってなんですか? 「ちゃんと」「ひとりで」考えたら誰でも人格や能力を「ゴミ」や「飾り」だと断定する「基礎理論」という独断論を採用するのでしょうか? なら私は「ちゃんと」しておらず、基礎理論を採用しているあなたは「ちゃんと」していることになりますね。そしてあなたみたいになってしまうなら、私はすくなくともあなたの言う「ちゃんとしたいい子ちゃん」にはなりたくないし、なれません。 「《エポケー》の一発です。飾りとゴミなるシガラミから白紙状態になれば一発です。ハカラヒをやめれば一発です。理性から自由に」 エポケーもわかっていない。「ちゃんと」考えた結果がそれですか? 理性から自由に?PTSDや虐待による脳の萎縮が「えぽけー」で一発ですか? もしそうならすごいですね。医学会に激震が走りますよ。こんなところで自説を開陳せずに早く精神病院や南米の少年労働者やその雇用者に「えぽけー」を教えてあげてください。

bragelonne
質問者

お礼

 § 59 生きること。存在。  ★ まさに脳を洗うと書いて洗脳しなければ。  ☆ いままさにしているぢゃないですか。  ★ まさに「ゴミ」に穢されていない「聖なる」「清らかな」存在だったことでしょう。  ☆ 《聖なるあまえ》は ものごころがつく前だという或る種の仕方で特殊な時期をあつかっています。  きよらかなおそれは そのような赤子の状態とほぼ同じだと言いたいのですが むろん《ものごころがつく》という事件をはさんで前後の違いがあります。したがって 後の段階では 聖なる甘えと同じ状態をこそ言うために しかも言葉を変えて《きよらかなおそれを持っている状態》と呼びます。  聖なる甘えは きよらかなおそれすら――おそれすら――まだ持てない状態です。  《共同主観》は 共同と呼ぶからには普遍性があると見ているし 或る種の仕方で言えばわが心なる非思考の庭においてそのように受け容れているものです。(無根拠にて受け容れているという意味です)。    そうしてこの共同主観に立つわたしは 基本主観の動態として生きる。その文体としての自己表現をおこなうにあたっては だからけっきょくその共同主観から逸れることはないかという――あのやましさ反応と何らかのかたちで相携えてはたらくかのような――《きよらかなおそれ》を持つ。自然に持つようになる。  言いかえると 主観の共同性への言わば《愛》を持つのが 基本主観の動態である。この《愛》をもたないなら きよらかなおそれをも持たない。ということになります。  このきよらかなおそれを持つ主観の動態は むしろ――その段階はすでに上級であって むしろ――《飾りであれゴミであれ 人びとの・社会関係におけるシガラミの中へ すすんで入って行く》のをつねとします。それが 基本主観にとっては そのまま《生きる》ということを意味します。それよりほかの生き方は 見い出しがたいでしょう。  そうして あえて言うならば この生は《「ゴミ」に穢されていない「聖なる」「清らかな」存在》と言うよりも どれだけ《ゴミをアース役として浴びようとも あなたの言う〈洗脳〉のためには そのシガラミに中にあって生きる》ということになります。  要するに《けがれ》がどうだこうだは どうでもよい。これです。  次のご理解は 成りません。  ★ フマニタスとアニマリタス、健康と病気、主観と基本主観、さらには聖(無垢)とゴミ(垢)、ゴミを漁る人間とゴミを漁らない人間。二項対立の古典的な形而上学がボロボロでてきましたね。  § 60 生きること。存在。(つづき)  ★ ~~~~    「《飾り》によって友情やじんるいの仲間であることを共同化するならば、それこそ《何億人かいる人びとの中に同化吸収されてしまう》ものでしょう」  なぜ?・・・飾りによってとか言いますが私は飾りだと思いませんし  ~~~~~~  ☆ ぢゃあ 《洗脳》あるいはマインドコントロールによってでしょうか?   ★ 自然主義的態度  ☆ が飾りの一種です。  ★ 「普通の」判断力をもってるのは誰でしょう?  ☆ 《純粋意識》とて 樅の木本体ではなく 飾りだと言っています。そのように見るのが ふつうの判断力だと考えます。  ★ なぜ基礎理論は疚しさのみを大々的に取り上げるんですか?  ☆ 《本質直観》が 形而上学でしかないからです。  ★ なぜ生きることに疚しさを感じないんですか? 〔生きることにやましさを感じるとそれが〕なぜ悪いゴミなんですか?  ☆ 存在は もう問い求めてもそれ自体が行き止まりだというあたえられた条件のもとにあるからです。それ以上あるいはそれ以外の場をもとめてもそれは すでにもう飾りであり 形而上学のゴミであるからです。  ★ 「基礎理論」のどこがどう「新しい」んですか?  ☆ 《わたしがわたしである》という自己表現の動態を――つまり文体を――打ち出したところです。  ★ つまり「飾り」という覆いvealを除いたreことで、あなたは基礎理論を見出したre-vealと言う。あらかじめpreそこに在るものensを自分は見出した。まさか。  ☆ とは まさか!  ★ 人間がまさに傷つく、不正in-juryを被ることは多々あります。PTSDなどありえないということですか? PTSDはつまり仮病だと?  ☆ 基本主観の理論としては みづからがやましさ反応をかいくぐってわが心にさからう負の善を思惟し行動することをしないならば 決して心が傷つくことはない。と見ます。  それでは 言わばやましさ反応によって判定するしないにかかわらないところで みづからの意志が踏みにじられ身としてにせよ社会的な生命としてにせよ 傷をこうむることがあったとしたら それは どういうことか?  これは 《ウソをつきイツワリをおこなったこと》の後遺症です。すでにそのような《過去における負の善と それによる傷》は癒されているわけですが その――単純に言って――後遺症が出ることがあります。  これは 遠い過去に負った傷であっても 出ることがあります。それは 人間の心や意志行為が 傷が有る無しについて全か無かで割り切ることのできないかたちに成っている部分があるからだと考えられます。  言いかえると またまたたとえですが 母斑がまだ残っている状態だと考えられます。あざ・しみ・そばかす・ほくろなどのように 過去の傷跡がかすかに残る。またその傷跡が疼く場合があるのだと考えます。  § 61 存在  ★ 人間本性は本性naturaであり本性は本質でしょう。  ☆ 自然本性は 身と心だと言いました。心が 記憶・知解および意志の三つの行為能力から成る精神だと。  《本質》は むしろこれら自然本性がいのちのもとにあるという存在のことを言うのでしょう。あるいはつまり その存在はさらに何から成っているのかという問い求めの答えでしょう。  自然本性は 現実存在です。  ★ 「ゴミ」や「飾り」は偶有であり、実有は「命としての存在」。  ☆ 《本体》たる樅の木は むしろ偶有性――応用領域――の世界においてこそ生きる。これは すでに言って来ています。  ★ 本質substantia, essense→xがxであると云いうるために最低限持たなければいけない性質(命としての存在)  ☆ 《本質》という用語には 何かを規定するという意味合いがつきまといます。《最低限持たなければいけない》という規定になります。  微妙ですが やはりそうではなく 誰もが持つ《主観》から出発します。それは互いに違っているが しかも共通のものがあるかも知れない。それが いのち・存在・それのとうとさうんぬんだということです。  つまり 現実存在について捉えたまでの認識です。  そこから 同じ生命存在であっても その中でも 種差があると捉える区別もある。うんぬんとつづきます。それだけです。  そのとき  ★ 言語が「人間に」生得的innateであり動物はそうではないという生得論nativismをとるなら、それは本質論と不可分です。  ☆ とおっしゃいますが 言語能力ないし言語活動――つまり ヒトに見られる文体なる動態――という基準で判定したのが 動物との種差です。  種差が見られるということは 一方に生得的であり 他方にそうでない。という見方をするというものです。これも 現実存在について認識したというのみです。  § 62 いのち。  ★ なら人命を神聖化しない主観があってもなんら問題ではないでしょう。  ☆ 《神聖化》しなくても 《とうとぶ》つまり命をまもることはおこないます。後者は ひと一般に共通だと見るというものです。  ★ 「ちゃんと」「ひとりで」考えたら誰でも人格や能力を「ゴミ」や「飾り」だと断定する「基礎理論」という独断論を採用するのでしょうか?  ☆ そのとおりです。  ★ なら私は「ちゃんと」しておらず、基礎理論を採用しているあなたは「ちゃんと」していることになりますね。  ☆ やましさ反応を突破する意志行為は いくらでもあります。  ★ そしてあなたみたいになってしまうなら、私はすくなくともあなたの言う「ちゃんとしたいい子ちゃん」にはなりたくないし、なれません。  ☆ 自由です。そして 《洗脳》することも――互いの自由な批判をまじえての対話――も自由です。  ★ PTSDや虐待による脳の萎縮が「えぽけー」で一発ですか?  ☆ 本人の主観が それを知ったらそのとおりです。  そして 確かに母斑の残滓という問題もあります。  そして こればっかりは 言っても聞かないでしょうがそれでも言いますが 人間の社会と歴史は たしかに命がけの跳躍を結果的におこなったということもあるのでしょうが あくまで全体として自然史過程をたどります。人びとが意志行為をおこなって社会の改革や人間の前史から後史への回転をおこなっても その進み具合いはゆるやかな自然史過程にしたがいます。  つまり なにごとにも ときがあります。ときにかなうこと これも必要です。歴史は一足飛びにすすむことは むつかしいでしょう。  けれども 《 PTSD や虐待による脳の萎縮が「えぽけー」で一発です》。本人の主観内面におけるその自己表現の過程としてです。

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    輪廻と業の説は 無用ではないか  あらためて問います。  (1) 生まれ変わるという意味での輪廻転生は 同じ DNA を持つひとが自分のほかにいないとすれば あり得ない誤謬である。このことの確認を願います。  (2) 業が行為を意味するとすれば この意志行為が原因となって――縁をも呼びこんで――その意志のあり方(単純に善か悪か)に従ってその決まった結果をも招くという見方は まづ一生涯を超えてはたらくということはあり得ない。同じく確認です。  (3) ではこの業にもとづく所謂る因果応報の説は ひとりの人間の生まれてから死ぬまでのあいだのこととしてなら 現実性を持つと見るべきか?  (3‐1) たとえば拉致という被害に遭った本人や家族は その単純に言って悪という結果を得たのは この世に生まれて来てから何らかの悪因となる行為をおこなったからか?    (4) 言いかえると すべての結果=かつ原因(つまり 原因=かつ結果)は 自業自得であるのか? そんなことが言えるのか?  (4‐1) すなわち 輪廻と業の説は いっさい無用であるのではないか? 大いなる勘違いではないだろうか?

  • めぐみ(恩恵)について

     次にかかげるパウロの文章を読んで お考えになるところをおしえてください。      これはまづお事割りしますが――集団の宗教やその教義に関すること    は一切取り上げていませんが―― 個人の信仰ないし神学にかかわる    特殊な主題です。ですが その判断基準は 経験科学としての哲学に    あります。  ▲ (パウロ:ローマ書9:11-18) ~~~~~~~~~~~~~  (α) その子供たち(双子)がまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、    「兄は弟に仕えるであろう」(創世記25:23)  と〔母〕リベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行ないにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。    「わたし〔=神〕は〔弟の〕ヤコブを愛し、〔兄の〕エサウを憎んだ」     (マラキ書1:2-3)  と書いてあるとおりです。  (β) では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。 神はモーセに、    「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を   慈しむ」(出エジプト記33:19)  と言っておられます。 従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。  (γ)  聖書には〔モーセに敵対したエジプト王〕ファラオについて、    「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現わし、   わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」(出エジプト記9:16)  と書いてあります。 このように、神はご自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは――α・β・γ三つの主題はいづれもひとつの課題におさまるように思われ――端的に言って 神による《えこひいき》あるいは《不条理》のもとに《めぐみ》があるという意味なのでしょうか?  たとえば   ▲ (ヨハネ福音 3:8) 風は思いのままに吹く。  ☆ とありますが そういう意味でしょうか? つまりこれは イエスの言葉で 次の話につづくものです。  ▲ (ヨハネ福音 3:6-7) ~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。  『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしに見方はあり考えも持っていますが どうも柔軟性が劣って来たかに感じたものですから みなさんからの知恵をお借りしたいと思いました。(ですから わたしに分かっているところは ただちに突っ込みを入れさせてもらいます。そうして なにかが得られどこかの地点に出られるなら さいわいです)。ブレインストーミングのごとくにでもご見解をお寄せください。

  • 《神は有る》のみや《神は無い》のみは アホバカ教

     神は 《神は有る》なる表現も《神は無い》なる表現をも 許容する。《有無や善悪を超えている》のだから。  どちらか一つに定まったとしたら それはどちらにしても 人間が勝手にそのように神を規定し創ったに過ぎない。  あるいはつまり その人間たる人が 神は何であるかが分かったと言っていることになる。  つまりは その人は神になったか もしくは神と同等の存在になったことを意味する。  ――あり得ない。  あり得るのは 神をその人自身のいだく人間という見方に引き下ろして来たというだけである。  《かみ》は 言葉でもあるから いかようにも想像し作文することが出来る。  《神は存在する。これを信じないのはバカだ》派も 《神などはいない。いるというのは阿呆だ》派もいづれも ひとしくアホバカ教である。  人間が神になったつもりでいる。  なんで神の心が人間に分かるのか。  ちっとはへりくだったら どうなのか。  という問いです。

  • 親鸞の《義なきを義とす》は 神の依怙贔屓か?

     しかも これを わがシントウの《神ながらの道》にひとしいと仮説して問います。  1. たとえば 次のように言っています。  ▼ (親鸞:義なきを義とす) ~~~~~~~~~  1-1.(親鸞の書簡:末燈抄・十) 他力と申し候ふは とかくのはからひなきを申し候ふなり。  1-2.(同上) 仏智不思議と信ぜさせ給ひ候ひなば 別にわづらはしく とかくの御はからひあるべからず候ふ。ただ ひとびとのとかく申し候はんことをば 御不審(=疑問)あるべからず候ふ。とかくの御はからひあるべからず候ふなり。  1-3.(同上:九) 他力には 義なきを義とするとは申し候ふなり。  1-4.(歎異抄・十) 《念仏には 無義をもつて義とす。不可称・不可説・不可思議のゆゑに》と仰せ候ひき。  ~~~~~~~~~~  2. 《無義》の中の義は けっきょく《おのがはからひ》のことだと思われ それを《義》とするというときの義は それでよいという意味なのでしょう。  3. だとすれば アミターバ・タターガタ(阿弥陀如来)の《他力》については いちいちわれわれ人間が詮索し考えることはない。と言っているはずです。  4. 《念仏》についても (1-4)で同じく無義を言うのですから 何ら思考する余地を残すものではない。こうでしょう。  5. 言いかえると 称名念仏は《非行非善》なのですから 修行や思考・思索を経て《信じる》ことがあたえられるというものではなく 善行を積んだから《アミターバの光に摂取され すくわれる》わけのものでもない。  6. アミターバの名をわが心に受け容れたそのとき 《即得往生》である。と。  7. もしこうだとしたら 人びとは何故 《修行をして浄土にたどりつく》と考えるのでしょう?  8. 善行をなさなければ 極楽往生しないと何故おのがハカラヒにて 考えるのでしょう?  9. アミターバとワタシの関係は あとは そのときそのときおのが実存をどう生きるか。これだけではないでしょうか?  9-1. 生きたあと どうなるかは 関係ないのではないでしょうか?    9-2. 生き切ったなら その実存の総体がたたえられる。これでおしまいでいいのではないでしょうか?  10. では アミターユス(アミターバ)とワタシの関係として 不遇の目に遭い逆境を生きなければならないとき それは 何をあらわしているのか?  11. 神――もしくは ブッダの慈悲――は エコヒイキをするということであろうか?  12. たとえば:   ▲ (神のえこひいき?) ~~~~~~  12-1. 神は あわれもうと思う者をあわれみ       いつくしもうと思う者をいつくしむ。       (出エジプト記 33:19 / ローマ書 9:15)  12-2. わたしは〔双子の兄弟のうち兄の〕エサウを憎み      〔弟の〕ヤコブを愛した。      〔しかも母の胎内にいるときにすでに〕       (マラキ書1:2-3)  12-3. 神はそのあわれもうと思う者をあわれみ      かたくなにしようと思う者を かたくなになさる。        (ローマ書 9:18)  12-4. 神は すべての人が救われることを欲したまう。        (テモテ第一書 2:4)  12-5. 風は思いのままに吹く。 (ヨハネ福音 3:8)  ~~~~~~~~~~  13. このあと 《だから 言わんこっちゃない。やっぱし こうぢゃないか》か あるいは 《けれども じつは こうこう こうなのだ》か ご見解をお示しください。  14. たたき台として示し得た内容について そのすべては シントウないし《日本的霊性》とよぶべきことをも等しく表わすものと思っています。  15. このシンラ二ズム(親鸞思想)は 老荘思想や儒教とは・そして仏教とさえも基本的に異なると考えます。《はじめ(アルケー)》を立てないところです。アミターバ・ブッダを立てていますが――神を立てていますが―― その《義ないし思考または純粋理念》〔なる観念〕から自由な場におのれを置いているからです。これが 神ながらの道であると信じます。  みなさん 思いっきり自由なお考えをどうぞ。遠きを慮り つつしむことこそが 自由なのだというお考えもあるかも知れませんが。

  • 《分かるか分からないかが分からないナゾ》が 神。

     たたき台を述べます。その当否を問うています。  《分かるか分からないかが分からないナゾ》 とは《非知》と呼ばれる。  それは 《非経験の場》である。  すなわち 図示しますが:  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《宗教》というのは 個人が信仰にあって得られたヒラメキを観想(テオーリア)としてコトバに表現したところに発する。すなわち その観想を表現したものを オシエとするところからである。  オシエのもとに群らがり始めたら それは個人の信仰を去って その抜け殻としての宗教に変身したことを意味する。そこは 《信じる》の問題ではなくなり 《考える》をとおして理解した人間のあたまの中の観念の神へと変わる。  けれども 神は 非知なるナゾである。    人間は いのちのもとにあるから・そして命のつづくことを欲し・また良くつづくことを志向するから このイノチのみなもとなる神を 善と見る。至高の善という属性を 神に付与する。じっさいには 善悪の彼岸としてのナゾの場である。  同じようにして この上ない愛・慈悲・また 義あるいは真理とも呼ばれるようになる。愛憎をふくむ愛 あるいは 相対的な主観真実における義不義や真偽を超えたところの真理。  神が この世界を見守るというようなイメージにまで人間の想像が及び これは 摂理というコトバで呼ばれる。そこから ダルマまたは宇宙の法則などとも呼びたくなり呼ぶ場合もある。  ところが 《非知:すなわち 人間の能力では分かるか分からないかが分からないナゾ:つまり非経験の場》のことを想像し思ってみたとき そこにすでに神に触れた感覚(予感)が得られるのではないだろうか。  これを 《考える》ではなく 《信じる》と呼ぶが この信じるは 信じないと言っても 同じコトになる。信じないと信じたことになる。《非知に触れた感覚》 これが神と接した体験である。