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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:因果応報説は 共同主観にはならない。)

因果応報説とは何か?理解するためのポイント

manuke22の回答

  • manuke22
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回答No.38

「《無差別化》というのはもともと基礎理論において《いのちと存在》は無差別だと見ると述べています」 理論theoryという色眼鏡をかければそういう風に見るtheoreinことができる。ただの観想theoria。なんら人間の基礎ではない。そういう風に見ればそういう風に見える、それだけ。 尊ぶ「いのちとその存在の保持はよきことと捉え大切にすること」 「人命は尊い」は、「人命の保持および保存を善いことだと捉えて大切にする」。 変ですね。尊いと尊ぶは違います。それは尊い、それを尊ぶ、違います。 尊ぶto respect stではなく尊いrespectable, respectfulの定義を頼んだのですが。 「《葬られた》と言うのはムイシキが独り歩きすることは出来ないという意味です」 そんなことウィキペディアには書いてないですし、心的外傷や夢などは意識と無意識の関係があってはじめて成り立つ。独り歩きなどしない。「性なる甘え」とか言っていましたがフロイトも母子関係について言及してましたし、あなたに自覚がないだけです。あなたの基礎理論は精神病理学になる。 「言いかえるとその原因をつきとめがたい心的現象について、その原因はありもしないムイシキ領域にあるとする説が問題です」 意識の根底にある無意識と同じように、主観の下にある基本主観とやらへブーメランしていきますね。人間一般に共有されていると言うあたりユングの深層心理学とむしろ近そうですが。 「ひとは他人のウソなど負の善をこうむることによってはなんら傷つきません」 あなたの理論ではそうなるんでしょう。あなたの解釈ではそうなるんでしょう。「人は」?  せいぜい「自分は」でしょう。あなたはそうなのかもしれませんが、あなた以外がそうだとする根拠は? サンタクロースを信じている子どもがどのような悪を意図しているのか、具体的にどうぞ。 「つまり心が傷つくのはおのれの基本主観をゆがめることによってのみであり、ほかの人間の負の善は関係ありません」 目の前で家族を拷問された人間は「自分で自分の基本主観を歪めた」わけですか? 明らかに自発的にも意図的にも「歪めて」なんかいないですよね。なら主観の更に下にある基本主観が自動的にそうしたのでしょうか。 「《欲求》もその《意志》もむろん大いにかかわっていましょうが、それでも理性の単独分立およびあたかも傍若無人のごとく自己運動する場合がありませんか?」 無意識は独り歩きしないのに理性は独り歩きするんですね。そこまで拘るのはなぜでしょうね。「理性が単独で犯行に及ぶケースがあって欲しい」と言っているようだと私は見てしまいました。 あなたは人間の「基礎」に「感性」を置いており、欲求や感性は基本的に善いものだとしている。しかし人間は悪いことをする。その原因に感性とは対極にあると考えられている理性を挙げ、理性が感性から「分立して」「単独で」機能すると言う。つまり感性や感情との共犯ではなく、単独犯としての理性が要請される。理性が単独犯であるなら、「感性」を重んじるあなたには都合よい。だから「思えない」んですよ。 私は理性が単独で悪いことをするんだ的な論法を飽きるほど目にしてきましたが、昔の人は別として、理性が単独で善いことをするという論法をとる人をついぞ見たことがない。 「つまり意志もあれば欲求もあるのですがそれらはすべてひとつの目的のもとに集められ収められてその一辺倒とする」 私からすれば、事実報告だけでなくあらゆる解釈や比喩(燃え続けている)を駆使したり、オランウータンが学校に行けばとか温度計を見ればとか瑣末なことを持ち出したり、たいして変わりないと思いますけどね。もちろん私は違うとは言いませんよ。 友人を目的ではなく手段として扱っており、その動機はコネを作るというものだとすれば交友の動機が不純とは言えるかもしれませんが、理性の帝国主義とか大げさなものには思いません。 それにあなたの解釈に過ぎず、本人のみぞ知るところです。ここで欠席裁判を行うつもりはありません。 科学、経済、資本主義、いかにも哲学者が嫌いそうなものですね。近代の理性重視に対する極端な反動です。 「悲鳴を無視したとすれば、それは《主観》として見止め受け止めたゆえにひとつの選択としてそうした」 自分が主観「として認めれば」よいわけでしょう。主観はその程度のものです。 「おそらく電流による刺激は人体にだいじょうぶな範囲内に設定されていると解釈したのでしょう。悲鳴には左右されずに悲鳴の引き続き聞こえる道を実験の予定する範囲内ではえらんだ」 著書どころかウィキペディアさえちゃんと読んでないようです。 「270ボルトになると苦悶の金切声を上げる。300ボルトになると壁を叩いて実験中止を求める。315ボルトになると壁を叩いて実験を降りると叫ぶ。330ボルトになると無反応になる」 「375ボルトのところに危険などと表示されている」 「この実験のために自分たちに支払われている金額を全額返金してもいいという意思を表明した者もいた。しかし権威のある博士らしき男の強い進言によって一切責任を負わないということを確認した上で実験を継続しており、300ボルトに達する前に実験を中止した者は一人もいなかった」 「実際の実験結果は被験者40人中25人(統計上62.5%)が用意されていた最大V数である450ボルトまでもスイッチを入れたというものだった」 「「教師」と「生徒」を同じ部屋にいさせた場合や、「教師」が「生徒」の体に直接触れさせることで電圧の罰を与えて従わせる場合など「先生」の目の前で「生徒」が苦しむ姿を見せた実験も行われたが、それでも前者は40人中16人(統計上40%)・後者は40人中12人(統計上30%)が用意されていた最大V数である450ボルトまでスイッチを入れたという結果になった」 実際に直視していてもこんな結果です。 あなたの解釈における被験者(教師)は実験中止を強く求めながら(悲鳴に左右されてますね)、「本心では」大丈夫だと確信していたわけですか? あなたの「解釈」は、キング氏暴行で明らかに抵抗や加害の意思をもっているようには見えない映像を、反抗的だとか攻撃的だと「解釈」した裁判員を彷彿とさせます。 実験では「悲鳴」が聞こえなくなっても「電流を流しつづけ」ました。「大丈夫です」と言われたらどんなに「悲鳴」が酷くなっても電流を流す。「実験を下りる」という声が聞こえてもその自由意志を無視して電流を上げつづける。人は「善の損傷」をする程度には無視できるようですね。 「作者スタッフの主観なのではありませんか?」 実証してください。チューリングマシンを通して制作スタッフが文字を打ち込んでいるわけではありません。あなたの理屈なら人間以上の計算能力をもつスパコンによる自動的な計算が、人間の主観だとか自己表現だとなります。翻訳サイトの自動翻訳がプログラム作成者の「主観」だとなります。チューリングマシンに主観があるとは、意識あるいは意図あるいは自己がマシンにあるということですか? あなたの言う主観とはなんですか? 「お遊びとしてです。そしてそれはオランウータンとの《会話》の場合もいまのところ同じです」 あなたにとっては同じでしょう。 オランウータンやチンパンジーとの学者の会話がなぜ「お遊び」だと言えるのでしょうか? あなたはその学者に「お遊びで会話してるんですよね」と尋ね、「はいお遊びです」という返事をもらったのでしょうか? また、なぜマシンを人間だと本気で思った人間の主観を「お遊びだ」とあなたが独断できるんですか? 「分からないから主観の自己表現が文だという命題が無効になるわけではありません」 つまり「或るxがあり、xが文ではないならば、xは主観の自己表現ではない」となります。オランウータンの手話は「私」や「~である」などの主述形式をもちます。鏡に映った自分の姿を認識して「あれは私」と手話をしたり、「私は○○」と自称するのですから。これは文です。オランウータンの手話は文なのですから、この文はオランウータンの主観の自己表現です。 ならなぜオランウータンを機械と同レベル扱いできるのか? 論証をどうぞ。チューリングマシンには意識があるわけですか?

bragelonne
質問者

お礼

 § 48 《いのち》とそれをめぐる基礎理論ということ  ★ ~~~~    「《無差別化》というのはもともと基礎理論において《いのちと存在》は無差別だと見ると述べています」    理論theoryという色眼鏡をかければそういう風に見るtheoreinことができる。ただの観想theoria。なんら人間の基礎ではない。そういう風に見ればそういう風に見える、それだけ。  ~~~~~~~  ☆ それだけでじゅうぶんです。  テオーレオーというわが主観の宣言において そう見えたというだけで よいでしょう。  § 48-1 いのちを《とうとぶ》。いのちが《とうとい》。  ★ 尊ぶto respect stではなく尊いrespectable, respectfulの定義を頼んだのですが。  ☆ ちょっと屁理屈で応じましょう。《とうとぶ》なら そのものが《とうとい》と思っています。  § 49 フロイト・ムイシキ  ★ 心的外傷や夢などは意識と無意識の関係があってはじめて成り立つ。独り歩きなどしない。  ☆ ですから 《潜在意識》と言えばよいのです。  ★ 「性なる甘え」とか言っていましたがフロイトも母子関係について言及してましたし、あなたに自覚がないだけです。あなたの基礎理論は精神病理学になる。  ☆ これは フロイトだけに ホームラン級の入力マチガイですね。  赤子の《聖なる甘え》にも 潜在意識ないし自然本性のハタラキだけでじゅうぶんです。    § 49-1 アース役の DNA  このわたしの基礎理論は 精神に病理がないという世界観です。世の中のガミガミ電波なる意識の排泄をパワーハラスメントとして受けてそのアース役になった場合 心理的な悩みや苦しみはもとより 精神をいちど覆ってしまって休ませるというやましさ反応ならぬ健康反応が出たときには やすめばよい。というだけのことです。  ただし このアース役の常習化などなどにより――暴論を吐きますが―― DNA にも影響をあたえるであろうし 家庭において配偶者や子どもたちに向けてもアース役の反動が出てしまうこともある。このようにして DNA なら遺伝さえ起き得る。そういう精神の休息季という状態にあること。こう捉えるのみです。  § 49-2 潜在意識・深層心理  ★ 意識の根底にある無意識と同じように、主観の下にある基本主観とやらへブーメランしていきますね。人間一般に共有されていると言うあたりユングの深層心理学とむしろ近そうですが。  ☆ 独立した《無意識》領域でなければよろしいが。 潜在意識とすればよいのではないか?  《深層心理》は 自然本性として持って生まれたものかどうかが区別されねばならないでしょうね。  § 49-3 精神は傷つくか?  ★ ~~~~~    「ひとは他人のウソなど負の善をこうむることによってはなんら傷つきません」  ・・・あなたはそうなのかもしれませんが、あなた以外がそうだとする根拠は?  サンタクロースを信じている子どもがどのような悪を意図しているのか、具体的にどうぞ。  ~~~~~~~  ☆ この基礎理論はむろん普遍性をもったものとして提出していますが 現実問題として目指すのは 人びとの三分の一の同感を得ることです。この命題が 疑義をまねいたのは初めてです。  心理的な波風は 精神の表面においても立ちますが 精神が傷つくことはないでしょうね。  その子どもも自分の内にウソがあるわけではないので 《サンタクロース》を親たちとは別の人間だとウソをついたところで 傷つくことはない。と言っています。  焦点が やはりズレていましょう?  § 49-4 精神は傷つくか? つづき  ★ 目の前で家族を拷問された人間は「自分で自分の基本主観を歪めた」わけですか?  ☆ こころを痛めているということでしょう? そのことがどうして《基本主観のゆがみ》につながるのですか?  その拷問を見せられたあと その家族の仇に仕返しをしようと思った。そのときのやましさ反応をさらに突破したことによりへそが曲がった。ゆえに 基本主観もゆがんだ。こういう事例として考えたのでしょうか?  § 50 理性の蛮行  ★ 欲求や感性は基本的に善いものだとしている。  ☆ 中立・中性だと見ている。しかも そこに色をつければ――《生きる》ことがとうといと考えられるゆえに―― やましさ反応としてのハタラキは よきことを知らせようとしている。と見ています。  ★ つまり感性や感情との共犯ではなく、単独犯としての理性が要請される。  ☆ 二段階がある。あなたの言う《欲望の従者》として理性がはたらく場合 これは《共犯》でしょう。  そして それだけにとどまらず理性は 単独分立してしまう場合があるのではないか? と問うています。  蒸し返しませんが ぢゃあ この理性の暴走をそうだと認識するのも 理性であると言っときます。  あるいはまた 科学のいとなみにしろ資本主義における経済のいとなみにしろ そこには 勤勉とガリ勉とがあると見るとも言っておきます。  後者は 一定の目的や事業を決めたときにそのあとは もはやそのコトの自己運動となった姿だと捉えます。つまり理性の単独暴走のことです。欲望のこともあるいは意志のことも もう視野から見えなくなっていると推し測られるからです。これは 理性の帝国主義です。(けっきょく 蒸し返しましたが)。  § 50-1 アイヒマン実験  ★ あなたの解釈における被験者(教師)は実験中止を強く求めながら(悲鳴に左右されてますね)、「本心では」大丈夫だと確信していたわけですか?  ☆ 《大丈夫なように実験の全体が仕組まれていると確信していた》のでしょう。  《左右される》のと《影響をうける》のとは 別です。左右されなかったから 実験をつづけました。  言いかえると 《実験》ということについて信用していないという意味です。  § 50-2 チューリングマシン  ★ 翻訳サイトの自動翻訳がプログラム作成者の「主観」だとなります。  ☆ 全部が全部すでに特定されていた《主観》ではないでしょう。つまり 特定されていた主観の内容から派生しうることがらが 自動翻訳で現われましょう。でもこれをプログラマーの主観に入れてもよいと考えます。  チューリングマシンは分かりませんが 出来事にかんしては その起因があってその起因には起源がある。機械の場合は 起源は 人間の主観だと思われます。  § 50-3 機械との会話  ★ オランウータンやチンパンジーとの学者の会話がなぜ「お遊び」だと言えるのでしょうか?  ☆ 科学のいとなみは 目的を持っておこなっていても その目的とは関係のない結果が出る場合もありましょうし 実際やろうと思えば一定の目的から自由なものもあり得ましょう。つまり それが(それも) 学問であり科学だと承知しています。    では 機械や動物が 人間と同じ次元で=同じ社会の成員として 生きているという主張にかんしては どうか? それは 受け容れられません。どうして受け容れねばならないのでしょう? どうして《お遊び》だと言えないのでしょう?  ★ また、なぜマシンを人間だと本気で思った人間の主観を「お遊びだ」とあなたが独断できるんですか?  ☆ 《本気で思った》ことが世にとおるのなら そこら中の宗教という宗教は 科学的にすぐれた名誉ある栄光の業績として讃えられましょう。  § 50-4 動物との対話  ★ オランウータンの手話は「私」や「~である」などの主述形式をもちます。鏡に映った自分の姿を認識して「あれは私」と手話をしたり、「私は○○」と自称するのですから。  ☆ 人間の話し合いというのは ディアレクティークです。その繰り返しです。さあ 夕飯にしよう。きょうは何を食べようか? まづは手を洗ってらっしゃい。・・・と話がつづきますか?  一生 対話をして生きるようになったら 考え直しましょう。  《文》という自己表現は このような動態です。

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    輪廻と業の説は 無用ではないか  あらためて問います。  (1) 生まれ変わるという意味での輪廻転生は 同じ DNA を持つひとが自分のほかにいないとすれば あり得ない誤謬である。このことの確認を願います。  (2) 業が行為を意味するとすれば この意志行為が原因となって――縁をも呼びこんで――その意志のあり方(単純に善か悪か)に従ってその決まった結果をも招くという見方は まづ一生涯を超えてはたらくということはあり得ない。同じく確認です。  (3) ではこの業にもとづく所謂る因果応報の説は ひとりの人間の生まれてから死ぬまでのあいだのこととしてなら 現実性を持つと見るべきか?  (3‐1) たとえば拉致という被害に遭った本人や家族は その単純に言って悪という結果を得たのは この世に生まれて来てから何らかの悪因となる行為をおこなったからか?    (4) 言いかえると すべての結果=かつ原因(つまり 原因=かつ結果)は 自業自得であるのか? そんなことが言えるのか?  (4‐1) すなわち 輪廻と業の説は いっさい無用であるのではないか? 大いなる勘違いではないだろうか?

  • めぐみ(恩恵)について

     次にかかげるパウロの文章を読んで お考えになるところをおしえてください。      これはまづお事割りしますが――集団の宗教やその教義に関すること    は一切取り上げていませんが―― 個人の信仰ないし神学にかかわる    特殊な主題です。ですが その判断基準は 経験科学としての哲学に    あります。  ▲ (パウロ:ローマ書9:11-18) ~~~~~~~~~~~~~  (α) その子供たち(双子)がまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、    「兄は弟に仕えるであろう」(創世記25:23)  と〔母〕リベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行ないにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。    「わたし〔=神〕は〔弟の〕ヤコブを愛し、〔兄の〕エサウを憎んだ」     (マラキ書1:2-3)  と書いてあるとおりです。  (β) では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。 神はモーセに、    「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を   慈しむ」(出エジプト記33:19)  と言っておられます。 従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。  (γ)  聖書には〔モーセに敵対したエジプト王〕ファラオについて、    「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現わし、   わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」(出エジプト記9:16)  と書いてあります。 このように、神はご自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは――α・β・γ三つの主題はいづれもひとつの課題におさまるように思われ――端的に言って 神による《えこひいき》あるいは《不条理》のもとに《めぐみ》があるという意味なのでしょうか?  たとえば   ▲ (ヨハネ福音 3:8) 風は思いのままに吹く。  ☆ とありますが そういう意味でしょうか? つまりこれは イエスの言葉で 次の話につづくものです。  ▲ (ヨハネ福音 3:6-7) ~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。  『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしに見方はあり考えも持っていますが どうも柔軟性が劣って来たかに感じたものですから みなさんからの知恵をお借りしたいと思いました。(ですから わたしに分かっているところは ただちに突っ込みを入れさせてもらいます。そうして なにかが得られどこかの地点に出られるなら さいわいです)。ブレインストーミングのごとくにでもご見解をお寄せください。

  • 《神は有る》のみや《神は無い》のみは アホバカ教

     神は 《神は有る》なる表現も《神は無い》なる表現をも 許容する。《有無や善悪を超えている》のだから。  どちらか一つに定まったとしたら それはどちらにしても 人間が勝手にそのように神を規定し創ったに過ぎない。  あるいはつまり その人間たる人が 神は何であるかが分かったと言っていることになる。  つまりは その人は神になったか もしくは神と同等の存在になったことを意味する。  ――あり得ない。  あり得るのは 神をその人自身のいだく人間という見方に引き下ろして来たというだけである。  《かみ》は 言葉でもあるから いかようにも想像し作文することが出来る。  《神は存在する。これを信じないのはバカだ》派も 《神などはいない。いるというのは阿呆だ》派もいづれも ひとしくアホバカ教である。  人間が神になったつもりでいる。  なんで神の心が人間に分かるのか。  ちっとはへりくだったら どうなのか。  という問いです。

  • 親鸞の《義なきを義とす》は 神の依怙贔屓か?

     しかも これを わがシントウの《神ながらの道》にひとしいと仮説して問います。  1. たとえば 次のように言っています。  ▼ (親鸞:義なきを義とす) ~~~~~~~~~  1-1.(親鸞の書簡:末燈抄・十) 他力と申し候ふは とかくのはからひなきを申し候ふなり。  1-2.(同上) 仏智不思議と信ぜさせ給ひ候ひなば 別にわづらはしく とかくの御はからひあるべからず候ふ。ただ ひとびとのとかく申し候はんことをば 御不審(=疑問)あるべからず候ふ。とかくの御はからひあるべからず候ふなり。  1-3.(同上:九) 他力には 義なきを義とするとは申し候ふなり。  1-4.(歎異抄・十) 《念仏には 無義をもつて義とす。不可称・不可説・不可思議のゆゑに》と仰せ候ひき。  ~~~~~~~~~~  2. 《無義》の中の義は けっきょく《おのがはからひ》のことだと思われ それを《義》とするというときの義は それでよいという意味なのでしょう。  3. だとすれば アミターバ・タターガタ(阿弥陀如来)の《他力》については いちいちわれわれ人間が詮索し考えることはない。と言っているはずです。  4. 《念仏》についても (1-4)で同じく無義を言うのですから 何ら思考する余地を残すものではない。こうでしょう。  5. 言いかえると 称名念仏は《非行非善》なのですから 修行や思考・思索を経て《信じる》ことがあたえられるというものではなく 善行を積んだから《アミターバの光に摂取され すくわれる》わけのものでもない。  6. アミターバの名をわが心に受け容れたそのとき 《即得往生》である。と。  7. もしこうだとしたら 人びとは何故 《修行をして浄土にたどりつく》と考えるのでしょう?  8. 善行をなさなければ 極楽往生しないと何故おのがハカラヒにて 考えるのでしょう?  9. アミターバとワタシの関係は あとは そのときそのときおのが実存をどう生きるか。これだけではないでしょうか?  9-1. 生きたあと どうなるかは 関係ないのではないでしょうか?    9-2. 生き切ったなら その実存の総体がたたえられる。これでおしまいでいいのではないでしょうか?  10. では アミターユス(アミターバ)とワタシの関係として 不遇の目に遭い逆境を生きなければならないとき それは 何をあらわしているのか?  11. 神――もしくは ブッダの慈悲――は エコヒイキをするということであろうか?  12. たとえば:   ▲ (神のえこひいき?) ~~~~~~  12-1. 神は あわれもうと思う者をあわれみ       いつくしもうと思う者をいつくしむ。       (出エジプト記 33:19 / ローマ書 9:15)  12-2. わたしは〔双子の兄弟のうち兄の〕エサウを憎み      〔弟の〕ヤコブを愛した。      〔しかも母の胎内にいるときにすでに〕       (マラキ書1:2-3)  12-3. 神はそのあわれもうと思う者をあわれみ      かたくなにしようと思う者を かたくなになさる。        (ローマ書 9:18)  12-4. 神は すべての人が救われることを欲したまう。        (テモテ第一書 2:4)  12-5. 風は思いのままに吹く。 (ヨハネ福音 3:8)  ~~~~~~~~~~  13. このあと 《だから 言わんこっちゃない。やっぱし こうぢゃないか》か あるいは 《けれども じつは こうこう こうなのだ》か ご見解をお示しください。  14. たたき台として示し得た内容について そのすべては シントウないし《日本的霊性》とよぶべきことをも等しく表わすものと思っています。  15. このシンラ二ズム(親鸞思想)は 老荘思想や儒教とは・そして仏教とさえも基本的に異なると考えます。《はじめ(アルケー)》を立てないところです。アミターバ・ブッダを立てていますが――神を立てていますが―― その《義ないし思考または純粋理念》〔なる観念〕から自由な場におのれを置いているからです。これが 神ながらの道であると信じます。  みなさん 思いっきり自由なお考えをどうぞ。遠きを慮り つつしむことこそが 自由なのだというお考えもあるかも知れませんが。

  • 《分かるか分からないかが分からないナゾ》が 神。

     たたき台を述べます。その当否を問うています。  《分かるか分からないかが分からないナゾ》 とは《非知》と呼ばれる。  それは 《非経験の場》である。  すなわち 図示しますが:  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《宗教》というのは 個人が信仰にあって得られたヒラメキを観想(テオーリア)としてコトバに表現したところに発する。すなわち その観想を表現したものを オシエとするところからである。  オシエのもとに群らがり始めたら それは個人の信仰を去って その抜け殻としての宗教に変身したことを意味する。そこは 《信じる》の問題ではなくなり 《考える》をとおして理解した人間のあたまの中の観念の神へと変わる。  けれども 神は 非知なるナゾである。    人間は いのちのもとにあるから・そして命のつづくことを欲し・また良くつづくことを志向するから このイノチのみなもとなる神を 善と見る。至高の善という属性を 神に付与する。じっさいには 善悪の彼岸としてのナゾの場である。  同じようにして この上ない愛・慈悲・また 義あるいは真理とも呼ばれるようになる。愛憎をふくむ愛 あるいは 相対的な主観真実における義不義や真偽を超えたところの真理。  神が この世界を見守るというようなイメージにまで人間の想像が及び これは 摂理というコトバで呼ばれる。そこから ダルマまたは宇宙の法則などとも呼びたくなり呼ぶ場合もある。  ところが 《非知:すなわち 人間の能力では分かるか分からないかが分からないナゾ:つまり非経験の場》のことを想像し思ってみたとき そこにすでに神に触れた感覚(予感)が得られるのではないだろうか。  これを 《考える》ではなく 《信じる》と呼ぶが この信じるは 信じないと言っても 同じコトになる。信じないと信じたことになる。《非知に触れた感覚》 これが神と接した体験である。