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人はみな完全/不完全?

いろんな人間観があります 悲観的人間観や楽観的人間観 障害者パフォーマー曰わく 「この世は全員障害者」(私も他のみんなも不完全) タオイズムや禅によると 「すべての人は完璧」(自然からすれば生き物に不全はない、 多少がたついてもそれぞれそういう完璧さだ) 世間の人々はよく 「完璧な人はいない」(みな不全)という (自己不全感をみんな持ってる社会か) あるいは「健常者と障害者とがいる」とか 不完全な人々を出来の良し悪しで分別したり どの、または他のどんな人間観が幸せだと考えますか? (個人的にはタオイズム押し。自己不全感は万障の元、気の毒だから)

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回答No.4

完全に近いが、放射線の影響を修復する能力が不足するのと、体内臓器の寿命を統一出来ない部分において改善の余地があるね。

noname#174066
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 プラグマティックなヒト観と技術で、不老不死を目指すのですね。 理科はタオイズムだと思いましたが、先端科学はいつも野心的です。(欲望と不全感の相乗効果?)

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その他の回答 (13)

回答No.14

 こんにちは。  《絶対》ではないという意味で 人は誰でも《不完全》です。  またもし《完全》を目指すとすれば それでも どこまで行っても それは――絶対でないのですから―― 《未完成》です。  《絶対》という場を別とすれば あとはすべて相対の世界であって 人間はその経験世界に属します。  もっとも 相対性の世界にあっても 《瑕疵(きず)》がなければ 《完璧》です。  ★ どの、または他のどんな人間観が幸せだと考えますか?  ☆ いづれの見方であっても 人間の存在は 動態であり このことを前提とする必要があります。  その道を――と言ってもたしかに主観にとっての道に過ぎないのですが――逸れずに・そして逸れてもまた道草を食ってもまたわが道に戻るという過程を経て行けば その過程という観点から見て ひとはすでに――未完成のまま――完全な動態であると見る場合もあり得ましょう。  たとえ瑕疵があってもです。つまり 主観の問題です。  ほかの人びととくらべてどうかという意味ではなく――つまりもしそういう比較の問題であるなら すべてどんぐりの背比べでしかありません―― 《わたし》にとっての道のことです。    この独り善がりは あんがい有効のようです。(なぜか?・・・)

noname#174066
質問者

お礼

こんにちは。回答ありがとうございます。 神に比べると人は不完全ですね。神を知ろうと人々が学問をどんどん発達させます 完全は神。完璧でありうるは個々。と言葉を使い分け。 完璧か不完璧かによらず人は存在であれば変化する動態。 完璧から不完璧へ、不完璧から完璧へ、 またある不完璧さから別の不完璧さへ移行したり、 ある完璧さから別の完璧さへ移ったり。 道は人が主観する前からある自然の理なのだと、先人がそう主観的に定義したという点では主観ですが、理の中身を決めるのは先人や現代人の主観じゃなく自然のほうで。 人は生き物なので自然の理から出られず、主観も道の一部で、もし主観を失っても道の中で 道にいるのを忘れ、人為ばかりの世界、言葉の世界などは分別でなり、人同士で優劣を見て、どういう不完全さかで自他を把握し、自己不全感が強いと背比べも過度になり。 禅では「私が」という自意識をなるべく弱めて日常所作に没頭するよう勧めています。

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noname#189751
noname#189751
回答No.13

楽観バイアスや悲観バイアスに逃げ込んではいけないと思います。 健常者も障害者も、精一杯生きればいいのではないでしょうか。 与えられたものの価値を定めようとするよりは、活かしきる事の方が大切だと思います。 活かしきれるかどうかが、たとえ主観であっても完全か不完全かを決めるのだと思います。 人生を完全燃焼できるか、不完全燃焼で終わるのかが境目ではないでしょうか。 そんな気がします。 完全燃焼は理想かもしれませんが、それに近ければ完全といってもいいのではないかと思います。けど

noname#174066
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 そう思います。 楽観/悲観どちらかに偏ったり固着したりは認知の歪みですね。 精一杯生きられたら良いと思います。 本気になれ、と松岡修造が言ってました。禅もタオも言ってました

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  • MOG777
  • ベストアンサー率14% (20/139)
回答No.12

Pさんの述べるように 完全・不完全というのは範囲を限定しての相対的判断にすぎないということでしょう。 Aという円形とBという円形を比較して、円というテーマにおいて相対的に片方が円に近いというような感じです。 「この世は全員障害者」(私も他のみんなも不完全) というのは、概念上にある完璧な左右対称と比率をもつ肉体と比較してだと思います。 >どの、または他のどんな人間観が幸せだと考えますか? 人間観の良し悪しも範囲を限定しての相対的判断にすぎないわけであり 状況に応じて心を支えるものになったり挫くものになったりします。 例えば受験でも、悲観的に計画をたて楽観的に実行する逆だと失敗するとおり 適材適所でいろんな観点で点検しなければなりません。 そういう意味では、観点を固定する絶対主義的思考よりも柔軟な相対主義的思考の方が 適材適所でいろんな観点を活用できるのでよいでしょう。

noname#174066
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 理想像を置いてそこからの距離を不完全者どうしで比べたり比べなかったりしている様子を遠くから眺めやってる感じということですね。 障害とかいわれてるのは体の対称性や比率だけでなく、知的障害、身体障害、精神障害などあります。 不完全さみたいなのは、それらの障害以外にもあって、くさいとか禿げてるとかニートなどがあります。 たしかに人とかのことをずっと不完全と見なし続けたり、ずっと完全だと見なし続けたりするのは硬い見方ですね。悲観しつづけるのも、楽観しつづけることも変なことですね。 時や場合によって楽観悲観とかの配分を変えて調合するのが賢く適応的でよいとのことですね。

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  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.11

人(つまりは存在するということ)としては完全ですが、人間(つまりは社会行動)としては不完全。 行動にも完全さを目指す(人に求めるものではなく)のが人間的成長かと思います。 完全とは、自分が成す姿が自己の理想ということであり 完全であるというより完全を目指すだけで、その理想は絶えず変化する。 それは例えば、5歳児が思う完全と20歳が思う完全と、60歳が思う完全は違うからである。 そこで、自分の完全と他者の完全が一致する必要もなく 私が思う完全を他者に強要する必要もない。 それぞれが、自分の思いで他者を妨げるでなく、また他者によって妨げられるものでもない。 できる範囲で協力しながらやっていくのが、それぞれの幸せに繋がることだと思います。 それが人して人間として社会を営む集団として、すべて満たされますよね。

noname#174066
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 そうですね。楽観的というか好意的、肯定的な人間観というか、志の高い楽観的社会観ですね。理想というか。 人は存在的観点から見ると全く問題なく、個人目標とか社会的観点とかからすると不足や問題が各人それぞれ多少ある場合があるということですね。 もしも凹んでる人に、「あなたは存在的に完璧です」と言って励ましても、凹んでる当人が社会的不完全さや、個人目標からの遠さで悩んでいるなら、いくら存在自体を完璧と認めても助言の効果がなく、むしろそのままで満足せよと言うなら当人の社会的・個人的目標達成の邪魔になりますね。 存在的に完璧だと知らず実感としても持たない人の場合、他の人か本人が、自分という存在を完璧だと言いきったり言い張ったり言いきかせたりする方がいいような気がします。あるいはむしろ言葉以外でも、言葉以外の方が大切で、自分の存自体については申し分ないものとして扱う習慣をじっくり持つと、不全感を脱し存在的完全性の自覚を身体化できると思います。 社会行動や個人目標達成の度合いで失敗しても、自己の存在的な完璧さを信じてればあまりくじけずにたえられますが、 もし存在の完璧さを自覚していないまま社会的・個人的目標追及に失敗したら、心がすぐに折れて失意の淵に沈むと思います。存在的な不全感はロゴス以深に巣食っているので、なぜそれほどの失意にあるのか、くじけているのかを当人は意識化も言語化もしにくいです。 存在的には完璧だという、生まれて以来あって然るべき感覚・自覚・人間観を脅かすような状況がしばしばあり、そこにいる人の全員か殆どが人間存在自体の完璧さを見失っているような場面が、個人や家庭や教育機関や組織など社会のそちこちにあるような気がします、悲観するとですが。 そんな状況で個人らが凹みくじけ病み、病むのはそれはそれでそういう完璧さで、自己への存在観が不全の方向に傾いて社会行動も個人活動も不全に陥るという、そういう形での無意識の反応行為は、自己および外界社会のそのあたりに、人に対する存在観上の問題がありますよという報せになるので、そういう弱さというか不完全さは、個人的・社会的には完全に確かに機能しているということになりますよね。

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回答No.10

完全or不完全と考えるのは健全とは言えない。完璧主義なんて、違う角度で見れば ただの病人ですから。金子みすずではありませんが「みんなちがって みんないい」 それでいいんじゃないの? 第一、本当に完全ならば、結婚したりしてコミュニティを 形成する事はないし、完全とは完成されている事と近似なので、成長する事もない。 そうなれば、種としては淘汰されるだけです。歴史をみても、人間は技術を文明を 紡いで進歩してきました。(進化ではない)。不完全だから学べるのです。 色だって無数に種類がある。自分自身を受容できればそれでよくて、ありもしない 完全という考えを持つ事に不自然さを感じるし、傲慢とも言える。過大評価も 過小評価もする必要は無い。ありのまま受容すればいい。

noname#174066
質問者

お礼

回答ありがとうございます。健康的だと思います。 「みんなちがって、みんないい」。いいと思います。 二分思考は極端すぎますね。/の中身、まんなかの働きがうんと大切です。 完全だと見なそうとするのは極端な内容の自己暗示だと思います。そういうのが必要な悲しさもあることがあります。 無為自然というタオイズムが人のことを完全と見なしますが そういうふうに完全と見なすのも不自然だと感じますか。とか。 結婚・種・歴史とか文明とか進歩とか学ぶとか、そのとおりですね。 ありのまま受容できればほんといいですね。 完璧主義、過大・過小評価、雑さ、やっつけ、枝葉末節にこだわるとかも不全感のせいだと思いました。

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  • zebura23
  • ベストアンサー率30% (252/820)
回答No.9

人間は本来、完璧で完全に創られている存在であると考えます。 しかし悠久の永い年月の間にはさまざまなことが起こった結果、 人間はその完全さから堕ちてしまいました。 その決定的なものは、 自分が本来、完璧で完全な存在であることを忘れてしまったことにあります。 その結果人間は、物質的次元に身を置くことによって、 つまり、 自分自身を自覚するために必要な、 分離された物質的状態から学ぶことを選択しました。 それは「孤独」とはどのようなものかを学ぶためには、 孤独の中に身を置くことによってしか学べないようなものです。 人間とは、たとえていうと「超高性能な万能マシン」のようなものです。 しかしそれを使いこなすためには扱い方を学ばなければなりません。 それよりも何よりも、 自分が本来そういうものだということを信じることが必要になります。 よって人間は、他人ではなく「自分を信じる」という初歩の第一歩を学ぶために、 物質的世界の特長である比較や競争、羨望や挫折といった世界に生きることを あえて選択しているのだと思います。

noname#174066
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 そうだと思います。

noname#174066
質問者

補足

厳しい世界ですね。 競争環境での比較優劣が嫌になりそこを俗世間と呼んで脱落し、 他のところで憩いたくなります。 憩ってます

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回答No.8

「完璧」という概念は、こちらが何らかの基準を用意した 場合に、それにマッチしているかどうかで得られるものです。 正しくは、「全ての人は有限」です。 物質的にも機能的にも有限ですが、実はその認識の有限さ ゆえにこの世界は存在(有限)しているのです。 全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限に つめこむと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。 この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に、 認識体の仮定断面の運動(プランク定数hの収束の時系列化 =物体収縮=宇宙膨張)を想定すれば、相対的に無の風は光 になり、認識体はその光の向うに、自我仮説の補完としての 時空仮説=宇宙を認識するのです。 しかしその「存在」は、認識される階層的現象の表面的に 生じるもの(自我仮説に対する相補)で、根源的に絶対化し ようとすると、元の無限不確定性に発散します。 不完全な認識により、物事を表面的に捉える時に、不確定性 原理の相補的不確定性は確率性を伴う有限性(存在)を可能 にするのです。 それは、超弦理論において量子性(光速)に還元される本質を、 階層現象性(量子<クォーク<素粒子<原子<分子<細胞 <認識可能性)に潜在化する事で、非光速性を可能にし、 認識可能性(感受表面/現在/光速)からの、過去(記憶/ 時間的流れ/超光速)と未来(予測/空間的広がり/光速下) の対発生を(仮想的に)可能にしているのです。

noname#174066
質問者

お礼

回答ありがとうございます。年が明けても完璧に 雪中庵さんです。 タオイズムとか禅とかは天然自然の理法などとの 古めかしい基準を用意しているそうです。その基 準に照らすと人などの生き物は完璧にマッチして いるそうです。ので完璧だと見なすと言い張りま す。正しく全ての人は有限ですが、そういう自然 な有限さも込みでの完璧さを主張するタオです。 雪中庵さん独自のいつもの世界観(人間観・社会 観・幸福感はしょられてる)は、読解が難儀でい つも読み飛ばしてますが、お年玉として読みます。 ようするにモノのふるまいは細かく見るほど不確 かになり、その有無さえますます曖昧になり果て は有る無しどっちつかずの均等世界であるEva。 そこで僕は夢を見ました。ただただまっ白い闇に ぽつんとひとり浮かんでいると、とうもろこし色 の光が皮ふから生えてきてふうっと辺りをゆり起 こしました、懐かしい香りがしました。 そこでは僕は他の何者にも害されることなく全く もって満たされていたわけです。僕以外という物 はありません、全ては僕だから何もかも了解でき ました、どこまでもつぶさに見えるわけですから、 また詳しく見れば見るほど各細部が勝手に不確実 に変わり、有無さえ曖昧になるあの再びのっぺり としたまっ白い闇に戻るのでまた退屈しそうです。 そこで僕は少し不自由になることにしました。無 限のものから有限のものになるのです、僕は人間 になりました。すると世界の様子がとても安定し ました。父親からもらった腕時計をぶら下げて丘 の上を歩き、それから海辺で象牙を拾いました。 夜になっていました。星があまり多くないのは 潮風のせいかも知れません。明日がゆっくりと近 づいてきます。 ということですか。

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  • Gusdrums
  • ベストアンサー率39% (699/1787)
回答No.7

中高年です。 今年、最初の回答をさせていただきますよ。 先ず、人間は皆、完全ということなんて有り得ません。 完全=全知・全能・健全の3つを挙げます。 これは、人間が作り上げた神を示す一部ですが、理想という概念、つまり空想という概念です。 思考は、皆、自由で、そうなりたいが、それにより近づくことを目指すが、完全=100%までは到達できないのです。 それが、人間に100%を求める方がおかしい、ということです。 この世に生を受けて、親から与えられ育まれるもの、自身が吸収して覚えていくもの、全て同じの者なんて、居ない。 だから不公平な人間界となる。 よって、現実的に人間は不完全な者で当然といえます。 ただ、完全とか不完全とは別として、人様々ですが各自身の生き方や在り方に納得できている方は、大変幸せではないでしょうか。 つまり、現実を受け止めて、こんなものだ、と納得が出来る人。 平凡でも非凡でも、障害を持っていても、現実を受け止め前に進むこと。 折れない心、他人に対しての純粋な優しさや献身さ、こんな人間観って少ないし、尊いことだと思います。

noname#174066
質問者

お礼

あけましておめでとうございます。 回答ありがとうございます。 神を持ち出すと人はたしかに不完全なものとして自己規定することになります。人は神よりも不完全で、まちまちに育ちばらばらの生き方をするから、みんなそれぞれ違う不完全だということですね。 自分の生に納得できる人は確かに幸せだと思います。 問題は、自分をとても不完全と見なす癖がついている場合です。 たとえば呼吸の度に自己不全感を深く認識するくらい悲観的な場合、自分の生に納得できてないと思います。折れてますし、折れやすいです。 そんなとき「完璧な人はいない」という悲観的否定的合理化としての励ましより、「自他が多少不完全でも、それはそれでぞれそういう完全さだ」と強引にでも自らに言えば、少しは楽観的な励ましになると思いました。 その上でというか同時に納得できる生になるよう活動とかするといいと思いました。 納得できる生または、そうでない失意の生にあっても、「自分も人も不完全」というだけの言葉では、つぶやきとしてもあんまり元気になりません レッテルに惑わされず、安易な楽観にも逃げこまず、事実をそのまま認識しつつ元気に生きられるのは尊いです。 奉仕も、尊いです。

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回答No.6

鋭いことを考えていらっしゃいますね。 私の考えは、、、 人間は、本来は、完全、完璧、パーフェクトな存在だと思います。 そのままだと、喜びや、発展、成長が無いので、あえて、不完全の課題を持ち、 いろんな感情を味わい、発展、成長していく様に、自分が選んでそうしているように、 おもいます。 つまり、その人にとって、ベストなタイミングで、 ベストな事しか起きてこないし、自分自身がそう選択している。 と考えますが、いかがおもわれますか、、、。

noname#174066
質問者

お礼

回答ありがとうございます。タオイズムと禅の考え方の一端です。自分で体得できてない不全感から、それらの考え方を人に送り、自己の不全感の解消・共有をはかるとか。 回答は、自分で書いた脚本通りに自分を壊しては超回復する、一人遊びみたいな人生を皆それぞれ送っているというものですね。 ちょっときもちわるいと思いました。 本当に自分で選べるなら、本来の完全状態のままでいることを選ぶ人もいるだろうと思います。

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  • arcorb
  • ベストアンサー率28% (35/122)
回答No.5

概念ですから、そのものが幸せというわけではなく、その概念の中心となってる視点が自由に移動(完全/不完全)して、さらにそれによって現実に対応できることの方が幸せなんじゃないでしょうか?

noname#174066
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 そう思います。人間観じたいは幸せではないですし、人の見方をどうこうするだけでは幸せになれません。 禅は現実生活を充実させるコツを提供してるようですが、体得するのに時間がかかりそうです。 状況に応じて、色んな対立概念間を自由に右往左往できるような、フレームの柔軟さやバランス感覚があると物事への認識がより正確に、豊かになりそうです。とたしか西部邁の本にそういうこと書いてありました、それはそれでけっこう緊張して辛いとも。 質問文が下手でした。幸せという言葉を何となくいれましたが、主な疑問は ・「人はみな不完全」という世論みたいな言葉は適当なのか  と ・自己不全感から脱するには、どんな方法、どんな価値観・人間観などがふさわしいか  でした。

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このQ&Aのポイント
  • 印刷前に用紙を確認すると、印刷用紙に油のようなシミが付いています。
  • シミは用紙の先頭から2㎝ほどの部分の中心にあり、楕円形で1㎝×0.5㎝ほどの大きさです。
  • お使いのプリンターはブラザーのDCP-J4140Nです。
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