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北条政子の名を「まさこ」と読むのは。

平安時代の女性の名前は、例えば、藤原道長の娘、彰子は「しょうし」と音読みされています。 これは、当時の読み方(呼び方)が不明なので、音読みするという約束事があるからだそうです。 しかし、鎌倉時代の北条政子は、「まさこ」、室町時代の日野富子は「とみこ」と読んでいますが、これも約束事ですか。 「まさ」は、訓読みでしょうか。 よろしくお願いします。

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回答No.3

こんにちは。 bungetsu です。 >>疑問は、政子を「まさこ」と呼ぶのは(読むのは)歴史仲間の約束事でしょうか。 「まさこ」と記した史料があれば、「まさこ」と読めばよいのですが、それがなければ「まさこ」と呼び慣わしている、ということになります。 「政子」という署名などは、現在、見つかっていません。ましてや、「政子」にふりがなを振った物も見つかっていません。 そこで、「せいこ」ではなく「まさこ」と呼ぶのは、父の時政の「政」を貰ったことから、父が「ときまさ」と呼ばれていたので、「政子」を「まさこ」と呼ぶというのが、学者や歴史作家の間では共通した認識となっています。 あなたの言われる通り、単なる「慣わし」です。 鎌倉幕府の公式記録である「吾妻鏡」には「平政子」とありますが、より多いのは「二品禅尼」という敬称で記載されています。 また、源頼朝卿妻、あるいは、「源政子」などでなく「平政子」という記載がありますが、女性としてはたいへん珍しく、政子の特別な地位が考慮されているものと思われます。これなどにも「ふりがな」が書かれてありませんので実際にどう呼ばれていたかは、正直なところ「不明」です。 「吾妻鏡」は治承4年(1180)~文久3年(1266)までのことが記されていますが、その成立は正安元年(1300)頃と言われています。 従って、頼朝や頼家、実朝の死後、政子が「尼将軍」と呼ばれ、父の時政(初代執権)や義時(2代執権)などと鎌倉幕府を動かしていたことを前面に出すため「平政子」と書かれたものではないでしょうか。 多分に「吾妻鏡」が記された時には、政子は頼家や実朝などの実子も失ってしまっていましたので、「源」の姓を名乗る必要性がなくなり、婚家(源氏)から実家(北条=平氏)への帰属を強めたものと考えます。

kouki-koureisya
質問者

お礼

詳しく説明して下さって誠にありがとうございます。 大変よく解りました。 <「政子」を「まさこ」と呼ぶというのが、学者や歴史作家の間では共通した認識>だったのですね。 つまらないことかも知れませんが、ここのところを確かめたかったのです。 お陰さまですっきりしました。 また、吾妻鏡に「平政子」と書かれている理由もよく解りました。 とにかく次から次へと疑問が湧いてくるのです。 いつも丁寧に回答して下さって誠にありがとうございます。

その他の回答 (3)

noname#175206
noname#175206
回答No.4

 とりあえず、以下の辺りが参考になるかと思います。 http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/saiku/hyakuwa/journal.asp?record=14  現代になってから、記録や口伝にない名前の読みについては、いろいろと悩んで読みを「選んでいる」ことが窺えます。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 斎宮歴史博物館では、斎王の名前を「訓読み」にしているのですね。 「訓読み」を採用したいきさつが、大変参考になります。 感謝申し上げます。

回答No.2

こんばんわ。 私は、自称「歴史作家」です。 多くのメディアでは、北条政子は最初から「政子」と出ていますが、これは間違いで、 実は、北条政子の幼少の頃の名前は判明していません。 政子と名乗るようになったのは、頼朝と一緒になってから、父の北条時政の「政」の一字をもらって「政子」と名乗ったと言われています。 従って、時政(ときまさ)の「政」(まさ)をもらいましたので、「政子」(まさこ)と呼ぶようになったと言われています。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 時政の「政」をもらって「政子」と書いたのですね。 疑問は、政子を「まさこ」と呼ぶのは(読むのは)歴史仲間の約束事でしょうか。 「まさこ」と記した史料があれば、「まさこ」と読めばよいのですが、それがなければ「まさこ」と呼び慣わしている、ということになります。 平安時代の「彰子」は、歴史仲間(学者先生?)で「しょうし」と音読みする約束になっているそうです。 NetでもTV(NHK高校講座)でもそのように説明されています。 小難しいことを言ってすみません。

回答No.1

別に読み方が不明だったわけではありませんよ 道長の長女は 彰子(しょうし)     次女は 妍子(けんし)     三女は 威子(いし)     四女は 喜子(きし) ともともとがこの呼び方です 当時の貴族の娘(特に摂関家の中宮)は こういう風に呼ぶ習慣があっただけです 

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

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