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北条政子(鎌倉時代)
北条政子が、日本史に重要な人物として登場してくるのは、頼朝と夫婦になってからですよね?それなのに、私の知識不足かも知れませんが、なぜ、「源政子」ではないのでしょうか?当時は、夫婦別姓だったのですか? 「源政子」と記述されている文献はありますか?現代の教科書みたいなものでも構いません。 それとも「北条政子」という、私の質問のタイトルが、そもそも間違っているのでしょうか?鎌倉時代というのは、どうも「源」よりも「北条」の印象が強いですよね。
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中国や韓国では今でも妻が婚家の姓を名乗ることはなく一生実家の姓で通します。 妻が婚家の姓を名乗るようになったのは明治維新のときに西洋の風習をまねてそういうようにしただけで、江戸時代以前は妻は一生実家の苗字・姓で通しました。 系図などにも妻はなんとか氏というように実名はかかれなくても実家の苗字は書かれるのがふつうでした。 ※署名のときは、 正式文書などに書く場合は姓名を書きましたが、この場合の姓とは北条家は平氏で、 源平藤橘の平で北条は苗字ですからその場合は平政子と書いたと思われます。
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- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 渡しは、自称「歴史作家」です。 実は、政子の幼少の頃および頼朝と添い遂げてからも正確な名前は判っていないのです。 建保6年(1218)4月14日(すでに頼朝と頼家は死亡している)に朝廷より、従三位に叙された際に、父北条時政から「政」の一字をもらって名乗り、父が時政「ときまさ」と呼ばれていたことから、政子も「せいこ」ではなく「まさこ」と呼ばれたのではないかとする説が有力とされています。 さらに、同年10月12日には従二位に昇叙し、4年後に剃髪をし「二位尼」(にいのあま)と呼ばれました。 また、尼将軍と呼ばれながらも「政子」という署名などは、現在、全く見つかっていない。ましてや、「政子」にルビ(ふりがな)を付けた史料も一切見つかっていないのです。 鎌倉幕府の公式記録である「吾妻鏡」(あづまかがみ)には「平政子」として出てきますが、より多いのは「二品禅尼」(にほんのぜんに)と書かれています。 「二品」という呼び方は、「二位」(従二位)を中国の唐名に置き換えれば「二品」になり、吾妻鑑は政子をより際立たせるために、唐風の記載を採用したものと考えます。 「品」(ほん)は、中国(唐)の律令制での「一品」(いっぽん)から「四品」(よんほん)まである親王(または、それに準ずる者)の位階。 吾妻鑑の成立は正安元年(1300)頃と言われており、さらには、治承4年(1180)から文久3年(1266)までの鎌倉幕府の事柄が記されています。 従って、吾妻鏡から推測すると、「尼将軍」、「二位尼」、「二品禅尼」、「北条政子」、「平政子」等は共に、夫である頼朝や実子である頼家、実朝なども死亡してしまい「源」の姓を名乗る必要性がなくなり、婚家(源氏)から実家(北条=平氏)への帰属を強めたものと思われます。
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ご回答ありがとうございました。いろいろな呼ばれ方があったのですね。しかし、「夫である頼朝や実子である頼家、実朝なども死亡してしまい「源」の姓を名乗る必要性がなくなり、婚家(源氏)から実家(北条=平氏)への帰属を強めたものと思われます。」というのは、どうでしょうか???「死亡した」のではなく「殺されてしまった」のでしょ。しかも、もしかすると「政子」に???
- Nebu3
- ベストアンサー率29% (114/386)
この時代、女性が名で呼ばれることがあまりありません。ましてや 何らかの文書に名を残すことはほぼ皆無です。ところが「政子」さんは 『吾妻鏡』に「平政子」と名を示されています。それほどこの時代にも 重要人物だったのだと思います。 ですから彼女の姓が「源」であるのか「北条」であるのかは問題に ならないのです。だって男性だって姓が変わるのですから。現代、政子が 「源」姓で呼ばれずに「北条」姓なのは彼女の歴史的役割が頼朝が死んだ 後も北条氏を基盤に鎌倉幕府で采配を振るったからではないでしょうか?
お礼
ご回答ありがとうございました。男性だって姓が変わるのですか???知りませんでした。そのような視点で調べてみます。
- あずき なな(@azuki-7)
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もちろん「源政子」ですよ ただ分かりやすいように北条と名乗っているだけです 織田信長だって正式には平信長 秀吉だって藤原秀吉 家康だって源家康(征夷大将軍就任後)が正式名称です
お礼
ご回答ありがとうございました。「分かりやすいように」???……分かりにくいじゃないですか。(*^_^*)
- tzd78886
- ベストアンサー率15% (2590/17104)
当時、というか夫婦が同姓を名乗るようになったのは明治以降です。 日野富子もそうですし、平徳子(清盛の娘で、安徳帝の母)も入内後もそのままです。 もっとも庶民は姓など持っていませんでしたから、無関係でした。
お礼
ご回答ありがとうございました。ということは、いろいろな記述・表現があったとしても、「源政子」ということはあり得ないということですね。
お礼
ご回答ありがとうございました。大変参考になることを教えていただきました。ありがとうございます。昔の由緒ある家柄は、「源平藤橘」のいずれかが性なのですね。