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本願寺の対立
戦国時代 兄弟で争い対立し 西と東に別れた本願寺ですが 今でも対立は続いているのでしょうか? 本願寺は西と東どちらが正当(本家?)なのでしようか? また 現在の本願寺一族は戦国の頃の様に 本願寺○○という名乗りを使っているのでしょうか?
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本願寺○○なんて名乗っていません。戦国時代に本願寺教団法主を世襲した親鸞の子孫の家系を現代人が勝手に戦国大名と見立てて本願寺○○と読んでいるだけの話です。顕如は顕如であって苗字なんかない。それでは「信長の野望」などの戦国シミュレーションゲームに不都合なので織田信長vs本願寺顕如と勝手に読んでいるだけです。 西と東に分裂したのは織田信長との戦争状態が10年続いて、和睦するか、徹底抗戦するかの方針が分かれたからです。和睦派が西で、徹底抗戦派が東です。どちらが正当も本家もない話で意味ありません。 教団というより戦国時代は信徒が過激化して戦う宗教的地方自治体みたいなものでしたが、その将来の命運がかかった大きな政治決断ですから、和睦派と徹底抗戦派の対立が激化したのは仕方ありません。和睦派と徹底抗戦派の対立は古今東西の歴史にもよくあることです。第二次世界大戦のフランスでは和睦派がヴィシー政権で、徹底抗戦派がドゴール将軍の自由フランスだったわけです。最終的に自由フランスが正統とされましたが、これなどは連合国のご都合主義の極みです。 そんな訳で、今も本願寺は西と東に分かれていますが、もう戦国時代じゃない。どちらも数多く分派した仏教諸派のひとつに過ぎません。 親鸞の墓所を大谷廟堂と呼ぶのですが、大谷とは元は京都にあった地名です。ちなみに西本願寺では大谷廟堂を大谷本廟、東本願寺では大谷祖廟と呼び、それぞれ別な施設になっています。対立が続いているといえばその通りともいえますが、戦国時代末期の運営方針の決定的対立に起因して、それぞれ別な歩みをたどったというべきなのではないでしょうか。
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- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>戦国時代 兄弟で争い対立し 西と東に別れた本願寺ですが 今でも対立は続いているのでしょうか? 今は対立はしていません。 ちなみに、兄弟で対立したのではなく、親子での対立です。(後述) >>本願寺は西と東どちらが正当(本家?)なのでしようか? 「本家」「分家」と言われるのでしたら、「西」が「本家」かもしれませんね。 >>また 現在の本願寺一族は戦国の頃の様に 本願寺○○という名乗りを使っているのでしょうか? 名乗ってはいません。 他の宗派でもそうですが、「親鸞」や「日蓮」などの僧名で呼ばれました。 確かに、寺領を持っていて大名格でしたが、その収入は信徒から集まった「お布施」であり、領主としての土地や民を所有していませんでしたので、他の大名家とは違った勢力でした。 (よもやま話) 西本願寺: 親鸞の遺骨がその末娘である「覚信尼」(かくしんに)によって京都東山の吉水にて改葬され、廟舎が建てられました。これが本願寺の始まりです。 覚信尼は自らが親鸞廟舎の管理者(留守職・るすしき)となって、その職を世襲制にしました。そして、次の管理者に親鸞の曾孫「覚如」(かくにょ)に譲りました。「覚如」は、そこに「本願寺」という寺号を掲げました。 こうして誕生した本願寺教団が、一向宗の名で世に知られるようになるのは、第8世「蓮如」(れんにょ)の時代からでした。 以後、教団の拡大に合わせて各地で「一向一揆」が続発し、その終焉が10年にわたって織田信長と対峙した「石山合戦」でした。 合戦ののち、第11世「顕如」(けんにょ)は天皇の勅命を受け入れて、和睦をしようとしましたが、長男の「教如」(きょうにょ)はあくまでも戦うと言い続けたため、「顕如」はやむなく「教如」を「義絶」(ぎぜつ=破門)しました。 「顕如」の死後、豊臣秀吉によって六条堀川に寺領を与えられ、第12世を「教如」が継ぐと言い出したが、「顕如」の側室であった「如春尼」(にょしゅんに)は「顕如」の遺言を盾にそれを認めなかった。 こうして、亀裂が決定的となり、第12世は「顕如」の末子「准如」(じゅんにょ)が継ぐこととなったため「教如」は家臣とともに寺を出ました。ここで、本願寺教団は分裂し、「准如」の系譜を「浄土真宗本願寺派」(西本願寺)と呼ぶようになりました。 東本願寺: 石山合戦に敗れた本願寺教団(一向宗)は、和睦か徹底抗戦かで対立をし、第11世「顕如」は和睦派であったので、一旦は石山本願寺を離れました。一方、抗戦派の「教如」は寺に残って籠城を続けました。しかし、抗戦派の抵抗もむなしく「顕如」の死と時を同じくして敗れました。 そして、「教如」が第12世を継ごうとしましたが、「如春尼」の猛烈な反対でやむなく「教如」が今度は寺を出ることとなりました。この対立の構造はそのまま本願寺の東西分裂となったのです。 慶長7年(1602)、徳川家康は、本願寺を離れた「教如」に寺所を与え12代本願寺宗主(第12世ではない)として復帰させました。以後、この「教如」の流れが「大谷派」となり、その本山は「東本願寺」と呼ばれるようになりました。 「大谷派」と呼ばれるようになったのは、江戸時代後期から明治時代にかけて、東本願寺の第21代法主となった「嚴如」(ごんにょ)が俗世にいたころ「大谷光勝」(おおたに こうしょう)と名乗っていたため、明治14年に「真宗大谷派」(東本願寺)を宗名とすることとなりました。
お礼
あれ 兄弟で対立したんじゃなかった? まぁいいです 詳しくありがとうございます ベストアンサー迷います
- at9_am
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> 本願寺は戦国時代 本願寺家という大名家でした 信長の野望のやりすぎです。 本願寺は浄土真宗の寺の一つです。浄土真宗は戦国時代には一向宗とも呼ばれていました。 一向宗の寺の元締めの一つが本願寺です。 この当時の寺社は、延暦寺のように武力をもつのが普通です。戦国大名になった有名どころでは筒井家があります。 本願寺もご多聞に洩れず・・・と言いたいところですが、延暦寺に征服されてしまいます。 後に北陸に地盤を移し(延暦寺門徒に襲われ京都から敗走する)、加賀での国一揆に関与した後、近江北岸で力を蓄えます。 というところが1500年頃までのお話です。 この後、戦国大名っぽいこともしますが、決定的に違うのは、いわゆる領土はほとんど持ちません(一応寺領はある)。 信長の野望的に言えば、どちらかといえば土豪や国人衆の方がイメージが近いです。 > また 現在の本願寺一族は戦国の頃の様に 本願寺○○という名乗りを使っているのでしょうか? 混乱を避けるために寺号・法名の順で書くことは多いですが、そのような名乗りはありません。 > 大谷なんですね 吉継も一族かな… 大谷というのは地名です。 浄土真宗の開祖とされる親鸞の廟堂がありますから浄土真宗で使っていたりします。 因みに谷偏に龍と書く字があてられていたこともあり、こちらは「龍谷」大学などで使ったりしています。 > 本願寺は西と東どちらが正当(本家?)なのでしようか? どちらも正当です。
お礼
信長の野望?というのはゲームか何かですか? 大谷って地名なんですね ありがとうございました
- notnot
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>戦国時代 兄弟で争い対立し 西と東に別れた本願寺ですが 今でも対立は続いているのでしょうか? 現在は対立と言うことはありません。同じ宗旨のべつの宗派という関係。 >本願寺は西と東どちらが正当(本家?)なのでしようか? どちらも自分が正当だと言ってると思います。寺院として古いのは西。 秀吉が兄を隠居させて弟を跡継ぎにしたのを正当と思えば、西が正当だし、それを権力の宗教への不当介入で兄の隠居は無効と思えば、東が正当です。 さらに東は40年前くらいからの大谷家と宗派の事務局の対立を契機にして、その後分裂。 >また 現在の本願寺一族は戦国の頃の様に 本願寺○○という名乗りを使っているのでしょうか? そう名乗ってたのですか?そう呼ばれていただけでは? 姓は大谷です。
お礼
ありがとうございます 内部で分裂してるんですね? 本願寺は戦国時代 本願寺家という大名家でした 本願寺顕如とかそういう名前で… 大谷なんですね 吉継も一族かな…
お礼
ありがとうございます