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町奉行の与力や同心の採用資格?

以前本で与力や同心は非正規雇用であった、という記述を読みました。 ということは武士の血筋でなくても、町人などでも採用される可能性があったということでしょうか? 採用される場合は試験や面接を受けたり、現在の警察のように身辺調査を受けたりと、明確な採用基準があったりしたのでしょうか? ご回答よろしくお願いします。

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回答No.4

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 まず、「与力」と「同心」の成り立ちからお話しをすると、 与力 (1)徳川家康が天正18年(1590)に小田原征伐での軍功として、豊臣秀吉から関東(江戸)の地を与えられた際、家臣であった板倉勝重が武蔵国新座郡・豊島郡で1,000石を給され、関東代官、江戸町奉行となり、駿府の地から騎馬武者(約10名位)を呼び寄せ、江戸の治安の維持に当たらせたことが最初と言われています。 当然板倉家の家臣として主人の手伝いをしていたと思われますが、その仕事の性格上、勝重が他役に移動した後も請われて与力の仕事を続けましたが、当然身分は板倉家家臣ですから、奉行にとっては板倉家からの与力(寄力)ということになり、与力職を離れた後は板倉家に戻るというのが決まりであったと考えられます。 しかし、時代の流れとともに与力と板倉家の関係が希薄になり次第に幕臣に取り込まれていきました。元が中級の陪臣ですから、当然将軍への目通りや登城ができる資格がありませんでしたので、完全に幕府に取り込まれたのちも慣例として抱え席(後述)の目通り登城資格なしとなりました。 その後、江戸の市民も増加し、悪事を働く者もでましたので、寛永8年(1631)に家光が北町奉行に加賀爪民部少輔忠澄を、南町奉行に堀民部少輔直之を任命し(Wikiでは逆になっているが、それは間違いです)、板倉勝重の代からの与力と、新たに、関ヶ原の戦いなどで足軽大将を務めた者を与力に任命し、南北に各25騎ずつ計50騎を配置しました。 そして、与力は「御家人」と位置づけられましたが、正確には、「御家人」と「旗本」の中間くらいの位置づけでした。 旗本や御家人は、次の3つに分類されました。 ★譜代・・・・・・世襲の家禄の家格。 ★二半場・・・・役職(役料)を世襲で認められた家格。 ★抱え席・・・・一代限りの役職(役料)の家格。 同心 (1)寛永8年(1631)に南北町奉行所が創設された時、与力の配下として関ヶ原の戦いなどで足軽を務めた者の中から選び出し、南北各60人ずつ計120人を任命しました。 >>以前本で与力や同心は非正規雇用であった、という記述を読みました。 「与力」「同心」は、上記の「抱え席」であったため、自分が死亡した時は、原則的には役職を返上しなくてはならなかったのですが、「不浄役人」と呼ばれて、新たにその役に就く者がいなかったため、一旦は役を返上し、改めて、その子などに同じ役が与えられるのが現実でした。 従って、「非正規雇用」という観点からみれば、原則的には一代限りですので、不安定な立場だったと言えるでしょう。 >>ということは武士の血筋でなくても、町人などでも採用される可能性があったということでしょうか? 「与力」や「同心」は常に「不浄役人」と言われ続けてきましたので、家名は残したいが跡継ぎはイヤダと言う者も出てきて、「与力」1,000両、「同心」200両という相場で、町民(商家の次男、三男)などに「御家人株」が売買された例もあります。 >>採用される場合は試験や面接を受けたり、現在の警察のように身辺調査を受けたりと、明確な採用基準があったりしたのでしょうか? 原則的には一代限り、しかし、実態は世襲と同じでしたので、試験も身辺調査もありませんでした。 さらには、嫡子が12~13歳になると、奉行所内での見習いをさせています。 (よもやま話) (1)町奉行所の歴史 町奉行は、古くは室町時代まで遡ると言われています。また、「徳川実記」などでは、三河で松平氏を名乗っていた頃から、すでに、町奉行の職務が定められていました。しかし、当時は、在所の決まりはなく、町奉行を任命された者が自宅に「お白洲」を作って奉行所としていました。江戸幕府が開幕されても、家康、秀忠のじだいまでは、その形式が続いていました。 (2)町奉行は一人四役? 大岡越前守や遠山の金さんでおなじみの町奉行とは一体どんな役目だったのだろうか。町奉行は旗本から選ばれ、役人の花形であった。仕事は江戸の司法、警察、交通行政、民政の全般にわたった。また、四宿(板橋宿、内藤新宿、品川宿、千住掃部宿)を管理する役目も持っていたので、現在の「東京都知事」、「地方裁判所長」、「警視総監」、「東京駅長」を兼務していたようなものである。 (3)大岡越前守が有名になったわけ 享保16年(1731)、無宿の伝兵衛という者が火付けの罪で、江戸市中引き回しのうえ火焙(あぶ)りの刑を火付盗賊改から言い渡された。しかし、越前守の部下である手付同心が「伝兵衛にはアリバイがある」という噂を聞き、越前守に上申した。そこで、密かに、越前守は証拠集めを指示し、吟味のやりなおしをして無罪を言い渡した。当時は、1審制度だったので、再審まで断行し無罪を言い渡した越前守は、当然、庶民から人気の的となった。 (4)町奉行の管轄 町奉行の管轄は、町地だけに限られていた。つまり、町人だけが対象であった。江戸の街には武家地、寺社地、町地の区別があり、武家地とは大名の上屋敷、下屋敷、(また中屋敷を持っていた大名もいた)、旗本の屋敷などを指し、この地に犯人が逃げ込んだときや神社仏閣地へ逃げ込んだときには、町奉行所はいっさい手が出せなかった。武家地に逃げ込んだときは、目付に犯人の引き渡しを申し入れた。また、神社仏閣へ逃げ込んだときは、寺社奉行に申し入れをして犯人を捕捉してもらった。 (5)奉行所が三つ? すでに多くの方がご存知の通り、江戸には南北二つの奉行所があった。通常は奉行所のことを「御番所」と言った。南は現在の数寄屋橋内、北は呉服橋内であった。しかし、元禄十五年(1702)に中町奉行所が東京駅八重洲口付近にできた。しかし、この中町奉行所は17年後の享保四年(1719)に北町奉行所に合併させられた。南北二つの奉行所は一ヶ月交代で門を開けて訴えを受け付けた。非番になると大門を閉じていたが、仕事をしなかったわけではない。前月のやり残しの事件処理にあたった。また、両奉行所同士で「内寄会(うちよりあい)」という連絡事項の回覧や相談書を交わしていたが、細部までは協定がされておらず、訴人は有利な扱いをしてくれる御番所へ、その月番を待って願い出ることもあったという。 (6)与力、同心の数 両奉行所にはそれぞれ25騎の与力と120人の同心が配属されていた。そして、与力は南北合わせて50人が一万石の知行地をもらい、200石づつ分けた。そのほかには、諸大名からの付け届けがあった。これは、その藩に属する者が問題を起こしたとき「よろしく頼む」という賄賂の性格があったが、中期以降は公然と奉行所内で受け取るようになっていった。また、馬上で指揮をしたので「騎」と数えるようになった。200石といえばれっきとした「旗本」であったが、罪人を捕らえる手の汚れたという意味で「不浄役人」と呼ばれ、登城もかなわなかった。同心は三十表二人扶持の御家人であった。ちなみに、同心を数える時は「人」。 (7)南北奉行所・・・どっちが偉い? 南町奉行所の方がやや格が上だったのである。遠山の金さんでおなじみの遠山左衛門尉景元は、天保11年(1840)、はじめ北町奉行に任命されたが、数々の手柄をたてたため、上役(老中)の引き立てもあり、嘉永年間(1846~)に南町奉行に「出世」した。しかし、役高はどちらも3000石だった。 (8)定町廻り同心の範囲 次のサイトの「墨線(ぼくせん、黒線とも呼ばれた)」範囲でした。しかし、時代とともに奉行所としての管轄範囲は広がりをみせています。 定町廻り同心の範囲  http://bungetsu.obunko.com/newpage507.html (9)割合平穏 与力と同心は世襲制で、加増も栄転もまったくなかった。住まいも八丁堀の官舎住まい。「不浄役人」と言われ、一般の旗本や御家人などとの交際も「まれ」だった。縁組も同じ役職者に頼るほかはなかったので、幕末までに、ほとんどの与力、同心は親戚関係になったといわれている。また、凶悪犯罪は、多くて年に数回だったことと「火付盗賊改」がいたので、町奉行所は割合平穏な日々だった。 (10)奉行所付近の火事 奉行所または奉行所近辺で火事があると、髪結床が駆けつけた。「梅床」だとか「亀床」などという印のある提灯を持ち、「駆けつけ、駆けつけ」と大声で叫びながら奉行所に向かった。もちろん、この声を聞くと(現代の救急車みたいなもので)皆、道を空けたという。奉行所の書類は普段から箱に詰めて、麻縄が掛けてあったので、どんどん運び出したという。なぜ、髪結床だったのか?実は、髪結いの仕事は大変な力仕事だったのだ。武士の髪を結うには、髪を束ねて、鬢(びん)付け油を塗って、手首に力を入れて・・・と、かなりの力が必要だった。だから、男の髪結いが多かった。したがって、奉行所の火事には力のある髪結床が選ばれたのだ。では、大工も力仕事ではないか・・・。確かに、しかし、大工は仕事場がバラバラで結束しにくい。そこへいくと、髪結床は店を構えていて一箇所にいてくれたので集合しやすかった。

edobakuhu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 大変興味深く拝読させていただきました。 なんだか非正規雇用の不浄役人という与力同心の立ち居地にシンパシーを感じている自分がいます。

その他の回答 (4)

  • oska
  • ベストアンサー率48% (4105/8467)
回答No.5

>与力や同心は非正規雇用であった、という記述を読みました。 その通りで、現代風に言えば「契約社員」ですかね。 与力は、俸禄は200石+位は御家人クラス。(原則的に)特権として世襲が認められました。 先祖代々、契約社員という事ですね。 同心は、俸禄は30俵2人扶持、身分は御家人クラス。一代限りの契約です。 が、後任には「是非、我が息子を!」と強力に推薦する場合が通例でしたから実質的に世襲ですね。 >武士の血筋でなくても、町人などでも採用される可能性があったということでしょうか? ありました。 他にも回答がありますが、同心株の売買が行なわれています。 大商人(大店=おおだな)の若旦那や豪農の倅が、同心になった実例もあります。 「与力千両、御徒五百両、同心二百両」が、江戸での相場です。 樋口一葉の父・則義は、甲斐国の百姓でした。 が、南町奉行所同心・浅井竹蔵(30俵2人扶持)の同心株を100両で買い、さらに浅井家の負債300両を肩代わりして計400両を支払っています。 結局、500両で百姓から南町奉行所同心に転職していますよ。^^; 地方でも、株売買が盛んでした。 土佐の高知の坂本家(坂本龍馬が有名)は、商人(才谷屋)が郷士株を購入したのです。 >明確な採用基準があったりしたのでしょうか? 契約更新の時は、「可も無く不可も無く」が重要でした。 今でも、公務員が「可も無く不可も無い仕事」をしていますよね。^^; 役所勤めは、「出る杭は打たれる」のです。

edobakuhu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 株で役職を売買?!夢があるんだかないんだか判らないようなお話で・・。 でも百姓が非正規雇用とはいえ役人になれるのですから、500両くらいかかっても惜しくはなかったのでしょうね。

  • hymat
  • ベストアンサー率58% (95/162)
回答No.3

当時は、武士は生まれたら死ぬまで退職できない王侯貴族、農民や町人は自営業ですから、現代的な意味で正規雇用と言えるのは商家の番頭などくらいだったでしょう。 同心などを非正規労働者にたとえる話は私も読んだことがありますが、現代風に言うなら、ホームレス、家出人、逃亡者など、身寄りのない人たちだったと聞きます。火消しや船着場で荷卸をする人足の多くもそういう人たちだったといいます。武士だかなんだか身分すらわからなかったでしょう。 なので、試験などしようにも読み書きすら怪しくて無理だったと思います。前科者を改心させて雇ったりもしたでしょう。経済的に自立したら商人になる、などの道もあったと思います。また、そういう流れ者に職を与えること自体も治安に役立っていたようです。そして、それがヤクザの原型なんだそうです。 ただし、現代の派遣社員などはそういう系統ではなく、武家に出入りする商人や奉公人に近い存在だと思います。

edobakuhu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。

  • kusirosi
  • ベストアンサー率32% (2838/8861)
回答No.2

町奉行の与力同心は 「一代限りの抱え席」(一代ごとに新たに召し抱える)という名目でしたが、 実際は親から子への世襲制が殆どで、幼少の頃から、見習いとして奉行所に勤めたといいます。 ただ手続きさえ踏めば同心株の売買により、 町人でも、同心を世襲する御家人の養子となり、 就職活動が実れば、町奉行所同心になれました。 与力も同様で、原則として与力の職務、俸禄を株として売買することが公式に認められていた訳ではありませんが、持参金(商人や豪農が)を持っていく条件で嫡男のいない与力の家に養子に入り(婿養子で、娘と結婚も可)相続後に姓名変更届けを出せば、実質的に与力株を買うことができました(同心も同様)。与力や同心などの御家人株の相場は俗に、「与力千両、御徒五百両、同心二百両」と云われました。与力は名目は二百石の領主、同心は三十俵二人扶持の蔵米取りでしたから、 高いのか安いのか\(^^;).. 家を継いでも、江戸の治安を預かる与力同心ですから、御家人身分でも無能な人は採用されないはずですが、 そこは奉行と、八丁掘の与力たちの面接へての心証しだい、実家からの付け届け(ワイロ\(^^;)の効験も影響するでしょう。 (例)樋口一葉の父・則義も甲斐国の百姓でしたが、南町奉行所同心・浅井竹蔵(30俵2人扶持)の同心株を100両で買い、さらに浅井家の負債300両を肩代わりして計400両を支払っています。

edobakuhu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 計400両!誰にでも払える金額ではありませんね・・。 世襲でない人間たちはそこでかなりフルイにかけられるようですね。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.1

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%A9%E5%B9%B3%E5%85%AB%E9%83%8E 大坂町奉行所、与力大塩平八郎は代々与力。 武士の血筋という話だと、勝海舟は祖父の代から武士。曽祖父は貧農の家に生まれた盲人です http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E6%B5%B7%E8%88%9F

edobakuhu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 結構血筋というのは大雑把なものなんですね。 意外でした。

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