- ベストアンサー
「創造」と「発見」は、対義語か?同義語か?
- 「創造」と「発見」は、1つの物事の異なる側面を書き表わしているだけであって、対義語じゃなく、むしろどっちかというと同義語のような気がします。
- 芸術家にとっては創造力が最も大事であり、優れた作品を創るには創造力は最も欠かせないものだと思います。
- 広い意味で考えると、芸術家でも「探究力」が重要であるかもしれませんが、芸術家イコール探究心ではないような気がします。この場合、"なぜ?なぜ?"の「探究」と、"直感"の「創造」が結び付きません。
- みんなの回答 (14)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
その他の回答 (13)
- Kirby64
- ベストアンサー率27% (668/2450)
- missshitsumon44
- ベストアンサー率20% (53/263)
- 1
- 2
関連するQ&A
- 具体例と本文の趣旨の一致・不一致
問題を解いていると、必ず残り2つの選択肢でたいへん悩みます。そして、必ずといっていいほど間違ったほうを選んでしまいます。 問 ひとたび身につけた意味づけの体系―それが慣習として確立すると、それは逆にそれを身につけた人を捕らえて放さない「牢獄」にもなる。それを捉えた人間を、今度はそれが虜にするのである。捕らえられた人間は、その意味付けの体系の決まりに従って、ものを捉え、行動する。人間は機械のように動き、すべてが「自動化」する。何かが起こっているようで実は何も起こっていない。―そういう世界が生じている。 しかし、機械とは違って、人間は―一方では秩序を導入しなければ気がすまない存在であると同じように―完全に秩序づけられた閉じた世界に長くは安住していられない存在でもある。遅かれ早かれ、創造への営みに人間は駆り立てられる。そして、既存の秩序を部分的になり、全面的になり、組み替えることを試みるようになる。詩人は何よりもこのことばの牢獄に挑む人たちである。そこでは日常のことばを超える言語創造を通じて、新しい価値の世界が開かれるわけである。言語習得の場合と較べると、もう一段階高い次元での意味づけの営みがなされるのである。 人間は、自分のまわりの事物に対して意味づけをしないではいられない存在である。しかもその際の意味付けは、すべて人間である自らとの関連で行われる。自然的な対象であっても、それが人間との関連でどのような価値を有しているかという視点から捉え直され、人間の世界のものとして組み入れられる。その世界は、すぐれた意味での文化の世界である。 1.言語の習得と異なり、詩人の言語創造においては日常性はその対象とならない。←日常のことばを超える言語創造を通じて、という記述があるので、×。 2.機械は秩序を維持することで価値を生産するが、人間は創造によって価値を生産する。←2段落の始めで、人間=既存の完全秩序はNG(機械とは違って)・新しい価値の世界が開かれる、と記されているので、○。 3.ことばや事物に対する過度の意味づけは、人間の創造活動の妨げとなる。←創造活動の妨げ云々の話題はないので、×。 4.普段に創造され続ける意味づけによって保持されている文化は、人類にとって普遍的なものとなる。←この話題もない、×。 5.人間が事物に対してする意味づけは、創造的な営みをする点で詩人の言語創造に相通じている。←詩人=ことばの秩序を組み替える人たち、人間=(ことばだけでなく)秩序そのものを組み替える人たち。「何よりも」という言葉から、詩人が行うことが、人間とは違うという点が確かに強調されており、本文中には、「共通している」などといった相通じるを表す言葉もないため、×。 と、2と5で悩んだ結果、上記のような結論をだし、自信満々で2を選んだのですが、正解は5でした。テキストの解説では、「機械は秩序づけられた閉じた世界に安住するものの例でしかない」と書かれていました。←具体例だって立派な内容では? 問題や解説を読んでいると、「着眼点をどこにするかで答えは違ってくるんじゃない?」「考え方を変えればこうも解釈することができる」と思えるものが多く、いまいちピンときません。
- 締切済み
- 日本語・現代文・国語
- 太宰治がいった、罪と罰は対義語ではないか?
以下は『人間失格』での一節なのですが、 もしもドスト氏が、罪と罰をシノニムと考えず、アントニムとして置き並べたものとしたら?罪と罰、絶対に相通ぜざるもの、氷炭相容れざるもの。罪と罰をアントとして考えてたドストの青みどろ、腐った池、乱麻の奥底の、……ああ、わかりかけた、いや、まだ → その後、主人公の絶望シーンへ。シノニム(同義)←→アント。 僕は「罪と罰」は、普通に同義語だと思ってたのですが。だって罪のないところに罰は、在ってはならない。在るとすれば、それは間違った罰、つまり冤罪になる。濡れ衣。 確かに罪は、犯罪者に利益をもたらす。 一方、罰は、犯罪者に損害をもたらす。 けどその損益は対応してる。お互いが当然の報いでつながる。 無罪の人が受ける「罰」は、存在しない。 無罪の人が受ける、損害は、ただの事故だと思う。 そして損害という事実を、「罰」と呼ぶか「事故」と呼ぶかは、 人間の主観に過ぎない。 で要するに、罪と罰は、普通の主観上、互いに対応する、兄弟みたいな同義語じゃないですか。 太宰治が、「わかりかけた」仮説?罪と罰の対義語説?ってどんな可能性がありうるのでしょう?ただの悲劇の主人公の言い逃れ? 自分は罪を犯してきたのに、まだ罰を受けていない? 自分は罪を犯してないのに、なぜ罰を受けるんだ! 絶対に相通ぜざるもの、ドストの青みどろ…って? 僕は「罪と罰」も「人間失格」も両方読みましたが、どんな解釈ができるのでしょう?長く考えてみたいので、締め切りも遅めにします。ご協力ねがう。
- ベストアンサー
- 文学・古典
- 理解の対義語、分からないの同義語
「理解」の対義語は何ですか?「否定」ですか?「誤解」ですか?ちょっと違う気がするのですが。 要するに「ワケわからん」や「意味不明」と同じ意味の言葉を探しているのですが、どちらも私の広辞苑に無い言葉です。広辞苑に書いてある言葉を探しているのですが、否定と誤解が思い浮かんだだけです。より適した言葉が他に有るのではと思い、質問しました。 (1)難しくて専門的な学識であり、その人が学ぶには基礎知識や前提知識が足らず、学力が劣っている様。 (2)ある意見に対して自らの考え方や主義と対立し、反対する事。嫌う事。 (3)常識や既成概念から逸脱している事。少数派である事。 (4)情報の中に矛盾や欠陥が含まれており毒性を帯びる事。 (5)自分の目的や想定や意図に反して都合の悪い出来事が起こる事。失敗して悔しい事。
- 締切済み
- 日本語・現代文・国語
- 日本における「芸術」の位置付け
本来芸術とか美術というのは人間の精神の解放との戦いでした。だから、芸術というのは王様や貴族、枢機卿のためにあるものでも、人々に「拝ませていただく」という位置付けでもないはずです。事実オーケストラクラシックやオペラは日本では割高の値段で香水臭い香りを漂わせながら格式張って聞くものでもなく、海外では割安の値段で聞けたり野外のフリーライブはよく聞く話です。なのに、日本ではドレスコードが決まってたり、緊張しながら聞かないといけなかったりし、少し違和感を覚えます。 また、最近とある美術館で、新古典主義やバルビゾン系、印象派の絵を見る機会がありました。これでもかと言うほど華美なフレーム(額縁)に、これはうん億円の価値だとか言う話も聞きます。値段よりも、そのえが描かれた背景としては人々の退廃的な神仏信仰主義だったり、印象派に至っては人間の本来の姿を描く(印象派は貴族の集合像よりカフコン、つまりカフェコンセールでダンスする姿とか、当時としては「下品な絵」とされていたほどの)と言う目的があると思います。この絵は何億の価値がある絵なんだ、だから拝ませてもらうように見なくちゃねとかそういうのって本来の芸術のあり方でしょうか? CMでも華美なクラシックをBGMにあたかも「俺たちが来てやったぜ」感。 実際にそういう著名な画家の絵を拝見させてもらうのはありがたいけどそう言うのって本来の絵画のあり方でもないし、 私はゴッホと同時期に活躍したロートレックが好きです。彼は娼婦の館に出入りして、著名なシャンソン歌手と「身近な」芸術を体現するような画家でした。 もちろん「そんなんじゃ行くな」とか、そういう話でもなくタイトル通り、「日本における芸術の位置付け」という議題ですから、そういう答えはあえて受け付けませんし、「的を得てない」という理由でもスルーさせてもらいます。 ましてや田舎や地方に住む人にとってはそういう「肌」にふれる機会はあまりないです。しかし、イタリアやフランスなどは地方の修道院や教会には、啓発の意味でも壁画に神々の絵が書かれてます。当時は「神様」は身近な存在であり、自分の心にあるものだという考えもあったせいか拝観料をとったり、「この絵はかの有名なルーベンスの~」何て気持ちは多分なかったと思います。ルーベンスよりもその神様を崇拝する気持ちがあったと思います。 今は、絵がかかれてる内容とか色使いは私には出せないとか表現はできないはまだしも、「この絵はテレビでもよく出ているあの画家の絵だ。ひとつ30億はする」などの内容にシフトしてて少し違うんだよなと思ったりします。けして著書が出てなくとも、テレビに出なくとも、実力がある画家は五万ともいます。なのに、「よく見かける画家だよね」ってだけで評価するのもどうかとも思います。
- ベストアンサー
- 美術
- 人間の直感は絶対宇宙パワーとリンクしている!
皆さんごきげんよう! 機械や今までの研究や専門家でも答えを見いだせ無かったものを 物の見事に直感であっさり当ててしまうケースがあるんです! これって機械や今までの研究や専門家でさえ分からなかったものを直感で当てるってことについて 単なる偶然とか単なる直感では済まされないと思うのです。 これは?人間が?勝手に? 直感とか偶然と、決め付けたりまぁそう考えるのが自然なのでそうと決め付けられてきたのですが でも? 機械や研究や専門家でも分からなかったものがあっさりと分かるなんてこれは直感の中に秘めたる未だまだ発見されていない部分であってもしかしたら? 人間や本人は気づいてないだけで? 宇宙のパワーを直感が強いその人だけがたまたま拾ったとかリンクしたとかシンクロとかしてまさか宇宙パワーの力と本人の感が合わさって生まれた直感だとは気づいていないだけかも知れませんよね? こんな事考えるのは私だけですか? 私はそう思います根拠はありません 証拠もありません なのでだから直感なのです! だって超能力とか?直感とか 本当に当たる超能力や直感は? 機械や研究専門家でも分からなかったのにまるで答えを知ってたかのように当ててしまうんです これはもう奇跡でもあり 直感とか偶然だけに決め付けるのは 絶対おかしいと思います。 物凄い直感は宇宙パワーを受けている目視的には見えませんが見えないだけでその力はあるかも分かりませんよね? 月の光もそうですよね 満月に浴びる月の光のパワーも凄いとされています ムーンライトパワーMoon Light なんか物凄い直感が当たる時ってありませんか? そーゆー人は宇宙のパワーを受けているんです 宇宙に地球が存在していて 宇宙の中に地球があるので 地球は宇宙に生かされていて 地球は宇宙の波動やパワーを絶対受けていると思うのです。 目に見えないだけで絶対そうなんです 人間は宇宙のことを知らないのです この地球80億人には宇宙人や超人や物凄い直感の持ち主が絶対にいると思います その創造は全て宇宙が基なんです 万物の創世は全て原子から成り立っていると言うならその原子は宇宙が創造したのです もっともっと今の技術より細かいものが見える顕微鏡なり望遠鏡なり赤外線感知レーダー等が開発されれば今まで見えなかった宇宙電波?宇宙波動?宇宙テレパシー?宇宙パワー?宇宙光線? 等をキャッチ出来る技術が誕生して私の質問が解明される日が来るかも知れないと私は思っています。 皆さんどう思いますか?
- ベストアンサー
- 超常現象
- 「神様が私たちのすべてを創造された進化論でたらめ」
【宗教】「神様が私たちのすべてを創造された。進化論はでたらめの新興宗教、日本人が神を受け入れる大きな妨げに」…埼玉医科大准教授 6月30日、クリスチャンアカデミー(東京都東久留米市)にて開催された 第66回コーヒーアワーにて、埼玉医科大学准教授の今中和人(いまなか・かずひと)博士が 「心臓外科医が語る驚異の人体」と題して講演を行った。今中氏は講演において、 現在もなお日本の義務教育下で「進化論」が正しいかのように教えられていることに 深い遺憾の意を表し、キリスト者である私たちは「進化論」が完全に誤った考え方であり、 全知全能の神様が私たちのすべてを初めから創造されたお方であることを堂々と宣べ伝えていかなければならないと強調した。 今中氏は心臓外科医となり、生きている人間の内部にある心臓の驚くべき 仕組みを発見することで、人体は徐々に進化して形成されていったのではなく、 神様が御心に従って人体のすべてをご計画の通りに初めから創造されたことを確信したことを講演で証しした。 同氏は日本人のキリスト教に対する考え方として、「イエス・キリストの教えに 否定的な人はほとんどいないが、イエス・キリストを通して表される全知全能の神が 存在しているということを受け入れることができない日本人が多く、神の存在を 受け入れられないことがイエス・キリストを受け入れられないことにつながっているのではないか」と指摘した。 特に今中氏は「進化論」については「でたらめの新興宗教である」と厳しく非難し、 未だに学校教育で進化論が教えられている現状に危機感を募らせ、「進化論」の 考えが日本人が神という存在を受け入れるのに大きな妨げになっていると警告した。 科学万能主義のようにも思える現代日本においては、初代教会の時代の 偶像崇拝に満ちたコリントの都市での伝道と同じく、「ムードや直感に 頼って行うのではなく、聖書が正しいことを理論的に証できる知識を身につけた上で伝道するべきではないか」と述べた。 http://www.christiantoday.co.jp/view-3297.html クリスチャンって21世来の今も進化論否定してマジで神が創造したと信じてるの? クリスチャンってものすごく人数多いけどこのせいでどんな問題が起きてると思う?
- ベストアンサー
- ニュース・時事問題
- 同義語について
贈進と贈呈。電子辞書のスーパー大辞林で調べると 贈進 :人にものを贈ること。贈呈。進上。 贈呈 :人にものを贈ること。進呈。 とあります。何か使い分けで違うところがあるのでしょうか? 人にものを贈る時に使う熟語はいろいろありますが、意外にどの状況でどの熟語を使用するのかはっきり理解してないことに恥ずかしさを感じてます。今回の贈進と贈呈の使い分けの回答も知りたいのですが、このような使い分けを調べる方法(例えば使い分け辞典があるとか)を教えていただければ助かります。 よろしくお願いします。
- ベストアンサー
- 日本語・現代文・国語
- 「にぎやか」と「うざい」は同義語ですか?
ニュースなどで、去年の夏は駅や空港もにぎやかでしたが、今年は閑散としている。 新幹線なども昨年のお盆時期は100%を超えるものも多かったが、今年は平均30%前後で閑散としている。 空港なども昨年は混雑でにぎわっていたのが今年は閑散として人はまばらとか報道していました。 お客さんとか利用者のほとんどからみても使う方からすれば 今年は快適で車内景観もきれい、昨年とかは人が多くてウザイという表現が正しいと思いますが、 ようするににぎやかとうざいは同義語ですか?
- 締切済み
- その他(社会)
お礼
ご回答有難うございます. >少なくとも【その時点での人類にとって】という >基準が暗黙裏に想定されるでしょう。 ということですが,そのような前提であっても,やはり「創造」と「発見」は同じものであると思います. なぜならば,「創造」は「【その時点での人類にとって】既存(既知)のものを組み合わせて「新たなもの」を創り出す」と仰いましたが, これは言い換えると, 「【その時点での人類にとって】それまで知らなかった新しい組み合わせを『発見』する」 ということにならないでしょうか. そう考えると【その時点での人類にとって】も,「創造」と「発見」は本質的には同一であると思うのですが... (ちなみに「発見や創造なんて区別すること自体おかしく」なんて,私,一言も書いてないし思ってませんよ(笑)ただ本質が知りたかっただけです.)