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宇宙の周期

ok9608の回答

  • ok9608
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回答No.5

No. 2です。お礼ありがとうございました 人の道さんの主張『我々に出来ることと言えば、真理を探求しアルケーに近づく以外にないのである。』は分かりました。ただし アルケーは全知全能の神であって我々には ほとんどその中身はわからない ようですね。 通常の思考をする人は『我々に出来ることと言えば、真理を探求し続ける以外にないのである。』と発言します。中身の分からんアルケーがいるかどうかの差です。真理の探究の前には 小差でしょう。 真理の探究のなかから ビッグバン宇宙論の仮説が生まれ 現在 検証されつつあると思うのです。それに対して アルケーはそんなものは創っていないとか そんな法則はデタラメであるとか 宇宙は無限大とか の発言を人の道さんは何回がしてますね。真摯に真理探究をしている あるいは それらを見守っている人々に そのような発言をするべきではなく 真理探究のための仮説、実証を議論するべきではないでしょうか。 今回の宇宙の周期については 1990年代には 宇宙膨張と収縮 の周期の可能性があり50回目の膨張期にあるという説がありましたが、2000年代の観測結果 有限宇宙が広がっていて周期的に収縮はしない という説が有力のようです。 以上失礼しました。

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    すいません、哲学ではないです。こじつければ、ニーチェの永劫回帰と関係があるかもしれませんが。 あくまでも空想です。 宇宙が膨張と収縮を繰り返していると仮定すると、そこに無限の時間が流れた場合、「宇宙に存在するもの」の可能性はほとんど試されることになる。それゆえ、人が「あれか、これか」と選択するようなことは、時間の違いはあるけれども、どちらもすでに起きている(あるいは、未来に起きる)のではないか。 もし、そうならば、大好きな彼女と別れたのを後悔したとしても、違う時間においては、自分は彼女と一緒に暮らしているのではないか、そう思えれば、慰めではあるが、何か希望を感じることができる。 逆に、悲しいことも永遠に繰り返されるという絶望もありますが。 このような宇宙はありえると思いますか? もちろん、証明は無理なので、個人的な意見でお願いします。また、「ありえる」と思う方はこの宇宙観に希望を感じますか、絶望を感じますか。 お聞かせ下さい。

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  • ニーチェの「永遠回帰」とは?

    ニーチェはスイスの保養地、シルスマーリアの近郊の山々を散策している時、突然、人類と地上を遥か超える3000フィート!と叫んで「永遠回帰の思想」を懐胎した、と、「悦ばしき知識」の中で言っています。 「永遠回帰の思想」はニーチェにとって、キリスト教の「福音」に代わる、新しい「福音」でした。 どういう意味で、それが「福音」なのかといえば、古代ギリシャ以来の哲学と形而上学に代わって、自分の「力への意志」が、これからの哲学でなければならない、と言ったものでした。 ニーチェは言っています、存在に対して生成の優位を唱えること、それが「力への意志」であると。 存在に対して生成の優位を唱えることは、アリストテレスの目的論と、キリスト教の終末論に対して、古代ギリシャの円環的な時間の考えを対抗させること。 直線的な時間の考えに対して、円環的な時間の考えを対抗させること。 時間が直線的と言ったのは、キリスト教とその終末論です。 最後の審判に向かって、時間は直線的に進行する、という。 アリストテレスの目的論も、有機体をモデルに、歴史には、その目的がある、という。 ニーチェは、このアリストテレスとキリスト教の「目的論」を否定するために「永遠回帰」の思想を唱えました。 すでに、ニーチェの前のショーペンハウワーは、世界の根源は「生きんとする意志」で、「生きんとする意志」は目的を持たない、盲目である、と言っていました。 だから人間が救われるためには、この「生きんとする意志」を否定しなければならない、と言っていました。 ニーチェはショーペンハウワーの思想を受け継ぎましたが、ショーペンハウワーとは違い、逆に意志を肯定すべきだと言いました。 それはこれまでの、最高価値であったキリスト教の価値観、人類は終末に向かって、最後の審判で人々が天国に迎えられるために、人生は意味のあるものでなければならないと言ったことへの否定でもありました。 ニーチェはそのようなキリスト教の価値観を「ニヒリズム」と言って、断罪します。 それは存在を優位に考える思想であり、それは「ニヒリズム」である、と。 (この場合「ニヒリズム」とは日本で「虚無主義」と訳しているのとは逆の「存在主義」という意味で) ニーチェはキリスト教のみならず、古代ギリシャ以来の哲学と形而上学は「ニヒリズム」であり、西洋の哲学の歴史は「ニヒリズムの歴史」であり、キリスト教は「ニヒリズムの宗教」と言って断罪します。 彼らは、存在だけを論じ、無を無視してきた、それが西洋の哲学の歴史であり、キリスト教なのだ、と。 この「存在を無視する」というのが「ニヒリズム」です。 事実、西欧世界に仏教の「無の思想」が知られたのは、19世紀の半ばでした。 それを知って西欧の人々はびっくりし、そして畏怖しました。 「なんと、東洋には無を唱える宗教がある!」というわけです。 ニーチェは「神は死んだ」と宣言しましたが、それは文字通り、神、すなわち超越的な存在がいなくなったということと同時に、西欧の哲学と形而上学の歴史が終わったことを宣言するものでした。 天に超越的な存在としての神があり、地上に私たちの世界がある、そして天の世界こそ、ホンモノの世界であり、地上の世界はニセモノの世界とキリスト教は言ってきましたが、その「二元論」、有と無の対立を否定し、生成の世界を対抗させなければならない、とニーチェは言います。 ニーチェの「同一物の永遠回帰」を、無が回帰する、無意味が繰り返す、と解釈する人がいますが、それは誤解です。 「存在に対して生成へ!」を唱えるものです。 直線的な時間に、円環的な時間を対置することです。 直線的な時間はキリスト教の終末論と、アリストテレスの目的論につながり、歴史の「進歩発展」につながりますが、ニーチェの円環的な時間は生成ですから、目的を持ちません。 そして「力への意志」は目的を持たず、その強化と増大を目的とします。 目的よりも「力へ!」です。 それこそが、ニーチェにとって、「永遠回帰」の思想が、新しい「福音」であるゆえんです。 どうですか?

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