• 締切済み

教員免許制度は必要か

1990年初め頃,情報処理産業は慢性的な人不足で,大手企業では大卒文系女子採用枠を設けてプログラマーなどに育成していました.その後バブルがはじけて,米国のITバブル,金融バブルもはじけて,情報処理業界が現在どうなっているのかよく知りません.しかし,いまだに「IT業務は技術の進歩が激しくてそれに追いつけるのは35歳くらいまでが限界」と聞きます.40代に入ったらこのような人たちは管理業務などにつくのでしょうが,このようなIT関係の人たちが医師などと同じように40代以降になっても無理せずある程度ゆったりと働けるような職場はないものでしょうか. 一方,学校教育は2000年代に入って授業や教育事務のIT化,ICT化を推進しようとしていますが,現場の教員にやらせようとしているため一向に進みません.高価な設備を導入しても,教員自身が使いこなせないのでもったいない(とくに素人にLAN管理などは無理).また,成績処理なども所属教員の中で自発的な学習で身に付けた技術をもっている人が,その学校だけしか通用しない素人システムを作っています(その人が転勤したら0からやりなおし).さらには,高校に教科情報という必修科目を設け,3週間の研修で数学・理科など現職教員に免許を配布して授業をしていますが,有名なIT雑誌で「教科情報は町のパソコン教室以下」と揶揄されています.免許を取らされた教員は,成績処理も,LAN管理も,教科情報と過重な負担を負う場合もあるようです.まったくもってうまくいきません. この二つの問題を考えると,学校教育にIT職採用枠を設け,企業で実務経験のある人などを雇えばよいのではと考えます.しかし,そのような話はありません.なぜ,日本の学校には外部人材が正規採用として入りにくいのか.大きな要因は教員免許制度でしょう.学校で生徒を指導したりするには教員免許がなければならない. 「教員免許は教科知識と人物保証がある.それをもっていない人には教育に関わる業務にあたらせない.」 そんなに教員免許は重みがあるのか疑問です.実際のところ,教員免許を取ることは他の国家資格よりも非常に簡単で,定められた単位の修得さえすればとれるのです.通信教育も利用できます.人物保証などというのは知り合いなどに頼めばどうにでもなります.もし教員免許をもたない人が人物的に問題と言っている人がいればそのひとこそ人物的に問題でしょう.最近始まった教員免許更新制度も単位さえ取れば更新できます.複数免許をもっている人は,そのすべての免許教科の知識の単位を取る必要もなく,更新されてしまいます.情報免許を取らされた教員の中には,この更新制度で情報免許を破棄できると思っていた人もいたようですが全くの逆でした. 教員免許がこんなに簡単に取得・更新できるのであれば,教員免許そのものに存在価値がない可能性が大きいので,教員免許をもっていることが教員になることの前提とされることを見直したらどうでしょうか. 一般に,優秀な人材を集めるためにはできるだけ志望者の母集団を大きくする必要があります.つまり,教員免許をもっている人という条件をかけると,一気にその母集団が小さくなります.つまり,人材の質は限定されたものになるわけです.そういった面からも,教員免許は必要ありません.教員免許をなくせば,広い範囲から各分野で優秀な人材を獲得できるのです. 現在,日本の学校は狭い社会です.いろいろな業界の人々が学校を支えることによって質の高い教育が実施できます.講義に専念する人,カウンセリングに専念する人,IT関係に専念する人,部活動に専念する人,等々と分業化してマネジメントをきちんとやれば,いじめ問題をはじめとする日本の学校の課題と問題を解決する方向がでてくるのではないでしょうか.

みんなの回答

回答No.5

元教師・現役予備校講師が個人的見解を踏まえつつ回答したい >このようなIT関係の人たちが医師などと同じように40代以降になっても無理せずある程度ゆったりと働けるような職場はないものでしょうか. ないでしょ? そもそも、技術は日進月歩なわけでは、これは程度の違いはあれど、全ての産業に言えることではないだろうか? SE・SA世界は知らないが、イノベーションの進捗に対応できない職業人が淘汰されるのは、いつの時代も必然では? 会社・組織は、イノベーションに対応できない職業人を閑職で保護することはするが、それは労働契約上で”仕方なく”だと思うのだが >学校教育におけるIT進捗 現在、タブレット支給関係で行政に助言している立場なのだが、大枠で質問者が指摘する通りである 互換性の問題もあるし、何より学校職員・情報の流動性・反流動性から様々な難しさがあると認めるしかないだろう 現在でも一般教員職での情報管理の限界が指摘されているが、専門職を雇用する予算がないことから先行きが不透明であるし、民間を活用するにしても、下手な競争入札の結果、無責任なメンテ・情報漏えいのリスクなどでIT化の進捗は芳しくない しかし、本件は免許制度云々ではなく、専門職の配置問題であり、教職員技能としては、初歩的な操作スキルを問題にするだけで十分だろう もっと言えば、学校教育におけるIT進捗は、ハードが先行して、ソフト開発が絶望的だと思えて仕方ない。 予備校などの私的教育機関のソフトを援用する事例も多く、知的財産権の関係上もお粗末な実態がある >学校教育にIT職採用枠を設け,企業で実務経験のある人などを雇えばよいのではと考えます.しかし,そのような話はありません. 「ない」のではなく指摘する人間の声が聞こえてこないだけ。 そもそも、大阪市でタブレット支給関係では、専門職雇用はしっかり言及している専門家はいる しかし、予算の問題で委員会レベルで抹殺されているのである >なぜ,日本の学校には外部人材が正規採用として入りにくいのか.大きな要因は教員免許制度でしょう.学校で生徒を指導したりするには教員免許がなければならない. 取りにくいのではなく、予算がないだけである ちなみに、運転免許と同じで資格を前提にするシステムを形成して法秩序となっている以上は、法改正するしかない しかし、教職員能力を適切に見抜ける客観的制度はないのだから、免許が支持されているに過ぎない 要は免許制度を批判するのは勝手だが、それよりも優れた教職員選別システムを提示するべき・・という話である 質問者の見解は理解するが、リアルポリティクスからすれば、単なる”無い物ねだり” >教員免許がこんなに簡単に取得・更新できるのであれば,教員免許そのものに存在価値がない可能性が大きいので,教員免許をもっていることが教員になることの前提とされることを見直したらどうでしょうか. 上記した通りである。見直しは否定しないが、代替する選別システムが存在しない ちなみに、資格を前提にした意識は社会前提に根付いているのであって、資格神話を否定するには、上記したように、代替する優れた選別システムなしには論及できないし なにより公務員選別のシステムとしては、公選制度の代替である資格制度が法的にも妥当であることは言うまでもないだろう 官僚批判する人々がドレだけ批判しても、彼らよりも優れた技能者を選出できない現実があるように、批判が単なる批判である以上は、空疎として処断されることは回避できない・・ということである >そんなに教員免許は重みがあるのか疑問です. 重みを認める人間が多くいるだけだろう。少なくとも個人的には免許に重みを感じないが、それは大多数の見解でもない >実際のところ,教員免許を取ることは他の国家資格よりも非常に簡単で,定められた単位の修得さえすればとれるのです.通信教育も利用できます.人物保証などというのは知り合いなどに頼めばどうにでもなります.もし教員免許をもたない人が人物的に問題と言っている人がいればそのひとこそ人物的に問題でしょう.最近始まった教員免許更新制度も単位さえ取れば更新できます.複数免許をもっている人は,そのすべての免許教科の知識の単位を取る必要もなく,更新されてしまいます.情報免許を取らされた教員の中には,この更新制度で情報免許を破棄できると思っていた人もいたようですが全くの逆でした. 想定内である。だからこそ免許制度なんぞ現場も支持していないのである 免許制度を提唱した人々は、現場を知らなかっただけであって、無駄な行政コストを発生させただけ、のが実態である。 それでも一定の緊張感を持たせる部分はあるようには思うが、そういう締りのない教師は、西日本地域だけの話なので、国政規模ではなく、地方レベルで制度化すれば良いだけである もっと言えば、学校・自治体レベルの審査でも第三者を介在させれば十分とも言えるが・・・(効果の程度は痴れているがw) >一般に,優秀な人材を集めるためにはできるだけ志望者の母集団を大きくする必要があります.つまり,教員免許をもっている人という条件をかけると,一気にその母集団が小さくなります.つまり,人材の質は限定されたものになるわけです.そういった面からも,教員免許は必要ありません.教員免許をなくせば,広い範囲から各分野で優秀な人材を獲得できるのです. そりゃ無理だw人件費がないのだからw 今、教職員の人間は安い賃金で奴隷労働しているのが大半である(例外はある) 教職員の母集団のパイを大きくすることで有能な人間が発掘できるが、有能な人間が進んで教職に就くとは思えない 免許を排除しても、優秀な人材は集まらないのは、予備校・私立学校を見れば明らかw 先立つものがないのだから、質問者の考えは、否定できないでも、机上の空論・取らぬ狸の皮算用というしかない 理想論というか、ご都合主義の考えすぎるよw >現在,日本の学校は狭い社会です.いろいろな業界の人々が学校を支えることによって質の高い教育が実施できます. それは論理的には全く保証できない 例えば、イタリアは職能技能者を教壇に立たせているが、それでも高い質は保証されていないし、むしろ程度が落ちている そもそも、学校に広い視座があるべきことは否定しないが、多角的産業の職業人が多様な指導法を網羅的に習得するまでの教練時間とそのコストはどうするの? OJTのような指導法が可能ではないし、そもそも業界の慣習に沿う行動に陥るのは目に見えている そもそも、質問者が提示する”質の高い教育”が怪しい 質問者が提示する”質の高い教育”は学校教育法・保護者・児童・生徒が求めるものだろうか? 正直言えば、質問者のような独りよがりな教育論は常に提示されるものである。 しかし、それらが独善的かつ効率的であった試しはない。その最大の理由は”質”という価値観において価値観の相違が存在しえるからであり、予算問題を思慮できないことにある 断言できるわけではないが、学校教師は概してマゾである。一般企業を積極的理由もなくリタイアするような人間には到底務まるものではないし、継続性がない 免許制度の適否については理解するが、教職員人材を多角化することによる混乱と、そのためのコストについての解決策がないなら、採用できる道理はない もっとも、質問者がコストを支払ってくれるならば別だが ちなみに、この部類の話は実は80年代から指摘されていて、そのたび、予算・合理性・教育観において荒唐無稽なものとして却下されているのである 見解は否定しないが、先立つものがない・・という最大の障害と質問者の教育観の妥当性について思慮された方が良いだろう もし、質問者が考えるシステムで「質」が保証されうるというなら、何を持って質の向上と評価しえるのか?という論説をしてもらいたい。 おそらくそれを論説できたとして、それは様々な視座で「学校教育が担う領域ではない」「要請がない」「適法性がない」などという部分で却下できることだろう 以上

ereserve67
質問者

お礼

ありがとうございます。結局難しいということですね。

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.4

 失礼とは存じますが、質問者様のご指摘は的外れともいえます。 学校現場の教員と職員では職務内容が異なることもご存知でしょう。実際に教職免許制度の意味を理解出来ているのかは疑問です。  「教職資格制度」は学校と教科目の種類毎に公布される制度です。つまり国語科の教職課程を履修し終えた学生には国語科の教職免許が交付され、「国語の先生」として学校の教壇に立って授業をやってもいいよ、との資格を付与することを意味する。  質問者様は恐らくIT関連の業界で働いた経験がおあり、もしくはテクノストレスと呼ばれる精神病理状態にあるともいえます。この問題が厄介な点は、コンピュータの可能性を「過大に評価しすぎるあまり」、それが全てであると思い込んでしまう点が指摘されてもいます。  国語科の先生が実際に業務とする中で「最も比重の大きい業務」は何だお考えですか?。「日々の授業」であることは疑いの余地もありません。そしてその「授業」をするには何が必要でしょうか?。「教案作り」や「授業計画」「教材研究」であり、それこそ時間が幾らあっても足りないのが現実です。そこに事務処理的な学級通信やら個別問題への対応、更には進学指導のための資料作りなどが加わります。  質問者はそうした部分をコンピュータ処理、ITやICTを利用すれば簡単に済むじゃないか、と自慢気に御主張されるのでしょう。  確かにIT業界の方々(それも未熟な経験しか持ち合わせていないSEなど)からみれば、町工場のモノ作りと学校現場で日々対面している教師-学童では質が異なります。モノを作るときには品質として製品の画一性が判断基準ともなりますが、学校ではそれが適用できないのです。生身の人間ですから学童一人一人の「理解度」も当然異なります。試験評価も単に○か×かを問うなどの低次の問題ではありません。「どこまでを理解出来ているのか」を知り、以後の指導に反映させるための材料としての意味を持ちます。  質問者は学校現場にオペレータとしての職員を増やせといい、そして「情報科」の授業をコンピュータ操作能力を引き上げることと誤解しているようですが、「情報科」はコンピュータをどう利用するか、コンピュータと社会の関わり方はどのようなものか、などを考える姿勢を持たせること、つまりコンピュータ・リテラシーに主眼が置かれています。  もし質問者が「教育」と教育の本質にご関心がおありでしたら、「教育基本法(旧)」の第一条「教育の目的」をお読みになることをお勧めします。  かつて80年代には情報処理資格があり、そこに数多くの志望者が殺到しなにがしかの資格を取得しましたが、それが実際の現場ではさほどの効果を示すに至らなかったとの事例もありました。プログラムを組むことが出来ることと「ユーザーのニーズを的確に受け止める能力」は全く別問題です。もし質問者の提言?を別の言葉に置き換えるならば次の様になります。 >「一般に,優秀な人材を集めるためにはできるだけ志望者の母集団を大きくする必要があります.つまり,教員免許をもっている人という条件をかけると,一気にその母集団が小さくなります.つまり,人材の質は限定されたものになるわけです.そういった面からも,教員免許は必要ありません.教員免許をなくせば,広い範囲から各分野で優秀な人材を獲得できるのです」 >「一般に,優秀な人材を集めるためにはできるだけ志望者の母集団を大きくする必要があります.つまり,IT技術をもっている人という条件をかけると,一気にその母集団が小さくなります.つまり,人材の質は限定されたものになるわけです.そういった面からも,IT資格は必要ありません.IT資格をなくせば,広い範囲から各分野で優秀な人材を獲得できるのです」  これはどう見てもおかしな論理とはいえませんか?。母集団を小さくすること=資格を持っている人であるならば、それが「つまり~」との結論を導くのは無理でしょう  そして質問者が主張する「質の高い教育」とは一体、何を指しているのでしょう?。その部分に続く「それぞれの分野でのスペシャリストを導入する」には、それぞれの分野のスペシャリストであるとの「資格認定制度」が必要なのではありませんか?。  学校は企業や工場とは異なります。モノを作る場ではありません。分業化ができない職域です。製品としての一つのモノを作りそして納品すればお終いとの行程作業に従った手順で処理される場所とは異なります。質問者の論理の最大の問題点は「マネジメント」に重点を置いている部分にある。マネジメントが貫徹されれば、学校現場は今よりもどの様に変化しますか?。「マネジメント」はモノを作るには便利な評価手法ですが、人を育てるには硬直しすぎた論理ともいえます。

ereserve67
質問者

お礼

ありがとうございます.「質の高い教育とは何か」など何か崇高な教育論を展開したつもりはなく,ITに過度に肩入れしているわけでもなく(5年以上週100時間働きつづけたことはありますが今精神病理状態でもありません),単に教員免許とか教員研修というのがかけた時間とお金相当の効果があるのかということが気になるので例をあげて書いてみただけです.教育界に限らず費用対効果はいつでも問題になります.最近ある教育経済学者が著書で「教員免許は参入障壁,教員研修に教員の質向上に因果関係はない」と実証データ付きで述べていてます.私はこの学者の言っていることすべてに賛成ではありませんが,この本は読んでみる価値があるとおもいます.おそらく「だからなんだ」という反応でしょうが.

回答No.3

学校内システムについては、各学校で出来る人が勝手に構築していますから、本来は仰る通りに統一すると良いと思いますが、なかなか民間企業のようにはいかないのが、公務員の世界です。 教育免許については、やはり必要だと思います。 全く教育を受けていない人に子供を預けることは親としては信頼できませんからね。 運転免許と同じだと私は考えます。 無免許で無茶苦茶な授業や適当なことを教えられるのは困りますね。 ましてや、コスト意識や効率化を求め過ぎると、学校教育では出来ない部分が多々あることが分からない人にやってほしいとは思いません。 まだ、単位とるだけと言っても講義を聞いて教育実習に行けば、教育の大切さは分かると思いますし、教育とは何かを少しは見ることができることは良いと思います。 そこで、自分で出来るかできないかを考えさせるきっかけにはなっていると私は思います。 なお、今は教員免許は更に取得ができにくくなっていることは確かです。 学校は狭い社会であることは確かですが、分業化については反対ですね。 これにより、一番困るのは生徒です。 要は、誰に聞いたり相談したら良いかが分からなくなります。 会社のようにピラミッド構造なら責任者がいますが、学校は鍋蓋構造から責任分担がはっきりしていないので、分業化をすると責任逃れをする人が増えます。 会社でも一緒ですよね。 学校に限らず会社でも人育が出来ていない状況で、民間から投与してもあまり意味が無いと思います。 唯一よいのは、異なった思考に触れることでしょうかね。でも、ほとんどが消されますが。 個人的に思うのは、新卒ではなく全て5年以上の企業経験者で教員免許を持っている人を採用すると、現状より違った学校になると思います。

ereserve67
質問者

お礼

冷静な回答ありがとうございます。鍋蓋型組織であることが問題だと思います。

noname#211894
noname#211894
回答No.2

教員免許すら取れないのがほざいているように感じます。 自動車免許も同じですよ。 自動車の販売台数を稼ぐために、AT免許を創設して、免許保有人口の増加を図りました。 おかげで変速操作すらまともにできないかたわが免許を持てるようになりました。 で、事故も多発していますね。 志望者数が減少しているのは、医療技術が上がっているからです。 事故発生から24時間以内が交通事故死としてカウントされます。 大型トラックを運転するためには、普通免許から足していかないと取れません。 教員資格も同じで良いでしょう。 教員免許を持っていることが最低条件であれば良いのです。 そこから資格試験を細かく設定して、出来ることを資格認定していけば良いのです。

  • k-josui
  • ベストアンサー率24% (3220/13026)
回答No.1

> 医師などと同じように40代以降になっても無理せずある程度ゆったりと働けるような 失礼ですが医師の現状をご存じないです。 私の知っている開業医ですが、午前中の診察が1時、2時まで掛かっています。 その後10分か15分で遅い昼食を食べ、往診に出掛けます。帰ってくれば3時から午後の診療です。7時までは掛かります。 患者ヵら緊急の電話が入ることもしばしば、そのたびに夜でも朝でも駆けつけていらっしゃいます。 土日関係ありません。「このままでは先生が倒れる」患者からはそんな声さえ上がっています。      今の時代、40代で「ゆったり働く」ような職種はないと思います。     そして学校は学校事務員がいます。 彼らは教員免許など持ちません、事務専業です。 ただ、彼らが一定のスキルを持つか?というと甚だ疑問で、あなたがおっしゃる学校のIT化はこの事務員をきちんと教育すれば事足りると思います。 しかし、教育業界は過日のいじめにも見られるようにものすごく閉鎖的です。 これそのものを見直さない限り、何ともならないと思います。 教育業界(まさに業界です)からは、猛烈な反発が起きることでしょう。

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