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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:哲学。結局、「他者」とはどのように理解できますか?)

哲学。結局、「他者」とはどのように理解できますか?

このQ&Aのポイント
  • フッサールの現象学においては「他者」とはどのように理解できるのか研究されています。物質的なものに対してはなんとなく理解は可能な気もしますが、他者についてはどうでしょうか?なぜ他者と関係性を構築できるのかも疑問です。
  • 「他者」と言語の意味についても興味深いです。なぜ言語の意味は他者と共有可能に感じるのでしょうか?これについても議論がされています。
  • フッサールの時代から現代に至るまで、「他者」と関連する議論が数多く行われてきました。具体的な議論の流れや記号論についても知りたいです。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.11

追伸: >つまり各指の「自」および「他」は手の一部、つまり同じものの一部なのですね。これが共有可能であ>ることの証明です。 すべての生き物、存在物、人間も全く同じ原理なのですね。 >この部分だと思いますが、「東洋的」というのは具体的に誰のどの部分(どんな著書?記録?経典だとしてもどの時代のものの解釈なのでしょうか?)のものなのでしょうか? ○釈迦仏教(哲学)の基礎:涅槃教の一節、((一切衆生)悉有仏性)、曹洞宗の開祖、道元禅師道元禅師(山川草木悉有仏性)などが全て仏性で繋がっているという認識のことのですね。 仏性が、たとえの「手」ですね。 近代では、京都学派の哲学者の西田は、これを、自身あるいは自と他の関係に置き換えて、「絶対矛盾的自己同一論」を出しています。矛盾する自、あるいは矛盾する他は自身の一部であるという認識ですね。 どれもわかれば簡単なことですが、解説書読んでも、解説するものがわかっていないので理解は難しいですね。これも参考に。

ryouma20001
質問者

お礼

いろいろ詳しく解説していただきありがとうございます。 >矛盾する自、あるいは矛盾する他は自身の一部であるという認識ですね。 これが部分と全体との関係ということですね。 今回、こちらの回答をベストアンサーにさせていただきます。ありがとうございました。

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その他の回答 (11)

回答No.1

もし自他が互いに相手の主格・目的格の間柄になる関係性が成り立ち続けているのでしたら、 其処では、主語の…。

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