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仏への道と畜生への道

馬鹿 禿(@baka-hage)の回答

回答No.2

どうもご無沙汰してます。お元気でしたか??  少しおしゃべりさせていただきます。 こないだの質問がけされちゃったので似たようなことをもう一度書きます。  こないだの質問には >>更に親鸞は善人も悪人もみな極楽浄土に行けるとゆーておる。 中略 >>日蓮は仏界を説き、地獄界を説き、輪廻転生を説き、そして悪人は地獄に堕 ちるとゆーた。 と書かれていました。文脈的にはこれが人の道において畜生と人を分ける要因のひとつなのだと思います。  少し教学的な麺から整理しますと、ここの日蓮聖人の「悪人は地獄に堕ちる」というのは『妙法蓮華経』の 若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん。或は復顰蹙して疑惑を懐かん。汝当に此の人の罪報を説くを聴くべし。若しは仏の在世、若しは滅度の後に、其れ斯の如き経典を誹謗すること有らん。経を読誦し書持すること有らん者を見て軽賤憎嫉して結恨を懐かん。此の人の罪報を、汝今復聴けり。其の人命終して阿鼻獄に入らん。 という文を、法華経以外の経典を主な拠りどころとしている宗派に適応したものといえます。ですから日蓮聖人が言いたいことは、『妙法蓮華経』を信じず誹謗(毀謗)する者は地獄に堕ちるというわけですね。つまり、この教学的な背景を踏まえたうえで人に道がいうところの悪人とは誹謗する者という事になり、「誹謗する者」=「悪人」ということになります。  しかし、そうであるなら親鸞聖人御制作の御和讃の中には、 念仏誹謗の有情は 阿鼻地獄に堕在して 八万劫中大苦悩 ひまなく受くぞと説 きたまう と説いておられます。つまり親鸞聖人も阿弥陀仏を誹謗する者は、地獄に堕ちると説いておられます。  ですから、『妙法蓮華経』と「阿弥陀佛」対象は違いますが、日蓮聖人・親鸞聖人双方「誹謗する者は地獄に堕ちる」と説いておられますね。  それなのになぜ、人の道では 前回の質問には >>南無阿弥陀仏と唱えれば次第に常人に近づき、南妙法蓮華経と唱えれば次第 に畜生に近づくゆーことである。 と述べ、この質問においては >>南無阿弥陀仏と唱えれば仏への道に近づき、 (中略) >>南無妙法蓮華経と唱えればこれ即ち畜生への道に近づく。 という結論になるそうですが、「誹謗する者は地獄に堕ちる」というのは共通の意見のようですが、他にどのような要因をもってそのような結論になるのでしょう。    急ごしらえの文章のため誤字脱字乱文どうぞご容赦ください。 合掌 南無阿弥陀佛

hitonomichi23
質問者

お礼

ご無沙汰しております。 今日は。 思うにこのよーにして浄土真宗のお坊さんと直々に対話できるゆーのは不思議な事であり、また有り難いことであります。 >こないだの質問がけされちゃったので・・・ 確かにこないだの質問は既に消されて無くなりました。 ここで日蓮とか南無妙法蓮華経のこととかの批判すると直ぐに消されるゆーのは周知の通りです。 おそらく畜生の仕業に違いないと思うが、まー想定内の出来事です。 さて親鸞聖人も御和讃の中では、「念仏誹謗の有情は 阿鼻地獄に堕在して 八万劫中大苦悩 ひまなく受くぞ」と説いたとあります。 まー 浄土真宗のお坊さんがそーゆーのであればこれは間違いないかも知れんね。 しかし、親鸞聖人は「善人であれ悪人であれひとたび南無阿弥陀仏と唱えれば皆等しく極楽浄土へ行ける」と説いたのであるから、一度は念仏誹謗した者であってもひとたび南無阿弥陀仏と唱えさえすればそれで極楽浄土へ行ける。 これでよろしいのではないでしょうか。 つまり衆生救済に対する考え方が南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経では天と地ほどの開きがある。 これが即ち人と畜生の違いゆー訳です。  

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