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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:やっぱしゴータマ・ブッダは 阿呆である。)

ゴータマ・ブッダのなぜ阿呆であるか?

このQ&Aのポイント
  • ゴータマ・ブッダのアーナンダへの懇請を無視し、悪魔にとりつかれていたことが質問されている。
  • 人生の四苦説が最後まで取り消されることはないか?また、ブッダの楽しいという言葉と、苦を楽に変えることができるのかという疑問が提起されている。
  • ブッダが自灯明・法灯明として自らを照らすことと、人間の能力や愛情によって一時的に照らすことの違いが質問されている。ブッダは阿呆なのか?

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回答No.15

こんばんは。 ☆☆☆ ★ ニルワ゛-ナの文字通りの解釈は 無意味だとさえ考えます。ねむりねこさんも 生のため・生ゆえにというご見解だったと思いますが。 ☆はい、わたしは、「宗教は《生のため・生ゆえに》必要だ」と考えています。より良い《死後》のためのものだとは、まったく考えていません。 ですから、ゴータマ・ブッダの《生(命)軽視》《肉体軽視》の考え方は大嫌いです。 わたしの考え方とは根本的に相容れません。 「夫(それ)、仏法、遥(はる)かにあらず。 心中にしてすなわち近し。 真如、外(ほか)にあらず。 《身を棄(す)てて、何(いづく)にか求めん》。 《迷悟》、われにあれば、すなわち、発心(ほっしん)すれば、すなわち到(いた)る」 (空海・般若心経秘鍵) この部分の現代語訳は、以下のアドレスで。 http://www.kurusonzan.or.jp/ShingonMikkyo.htm 今ある《からだ》と《こころ》を離れ、この二つを棄てて、仏教(宗教)などありえない。 これが僕の根幹をなす考えです。 《自灯明》と《法灯明》つながりで、《理趣経》の一節を、ねむりねこ語で紹介。 「日々、よく読んで、《自分の頭》でよく考えれば、 お父さんとお母さんからもらった《今のからだ》のまんまで、 最高の《さとり》を得ることができるさ、きっと」 (般若理趣経) ということなので、僕としては、 《自灯明》は《いま現勢態としてある、ココロとカラダ》と考えたいです。 これが、  ★★ ナーガルジュナの《アートマンの考察》なる見解にもとづき 《客塵煩悩》をも容れた《わたし》を それ(ヒトなる生物)としての主体と見て立てるものです。    と述べましたが これを焦点としては どうでしょうか? に対する、僕の返答です。 ◇僕のもっとも根底・核心にある密教(真言)の部分、あんまり、他人(ひと)には見せたくなかったのですが... ☆☆☆ ☆ ~~~~  寡聞なわたしの知識によりますと、実在したゴータマ・ブッダの説いた  布咜婆樓経(ポッタパーダ・スッタ)  に、何かそれを匂わせるような記述があるらしいです。  《真のアートマンはあると言えるし、ないとも言える。  ことばでは表現できない。  ヨーガによって感じるしかない》  みたいなことを言っているとか、いないとか....  ~~~~~~~  ★ できましたら ここら辺を解き明かしておきたいように思います。《わたし》とはどういう行為主体としての存在であるのか? だと思います。 ◇《わたし》の行為主体は、《客塵煩悩》を容れた《わたし》だと思います。 サーンキヤは仏教でないので、仏教の唯識的立場で言うと 《わたし》《わがもの》という観念を抱く《自我意識》、すなわち《末那識》にとらわれた現勢態・動態の《こころ》ってことになるのではないでしょうか。 《自性清浄心》は形而上的な存在、《非思考の庭》の存在なので、ひとまず別にして.... 《中論》の18章の別の現代語訳を紹介すると、 「2 我が存在しないとき、いずれに我所(わがもの)があろう....  3 わがものの観念をはなれ、我慢を離れる人は、存在しないのである。    わがものの観念の無と、我慢の無を見る人は、見ないのである」 (中論の頌・大乗仏典 中村元編 筑摩書房) 我慢とは、《末那識》の心作用の一つです。 第八根本識《阿頼耶識》を《真我》と錯誤し、それを《常楽我浄》と思い、《我癡・我慢・我見・我執》の心作用(心所)が発生する。 龍樹は自我意識を心の作用の一つとして捉えたけれど、唯識は、執著性を強調するために、その心作用を《末那識》と名付けて、別建てにした。 そんなところではないでしょうか。 サーンキヤで《アハンカーラ》と呼んだものを、《末那識》と呼んだのではないでしょうか。 布咜婆樓経(ポッタパーダ・スッタ)の現代語訳は http://yusan.sakura.ne.jp/library/buddha_pottapada/ で見ることができます。 現代語訳が正確かどうか分からないので、あくまで参考程度に。 いちおう、四禅・無色四禅の説明もあるようですし.... ☆☆☆  ☆ ~~~~~~~~~~~~~   《無種子三昧》あるいは《無想三昧》といわれる深いヨーガによって、  物質的存在の形成力(サンスカーラ・行)の原因を消滅させないかぎり、《プルシャ》は物質的存在にとらわれたままです。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~    であってよい。無明を《わたし》の内に含んでいても構わない。という《わたし》説です。いかがでしょう? ◇だと思います。《無明》を内包しない《わたし》は存在しえないので。 いたら、それは《人間》ではない!! それに、大乗のめざすべき最高の人格は、悟りを得た《ブッダ》ではありません。 衆生とともに、一緒に泥田を這い回る《菩薩》なので。 そして、誰もがその《菩薩》になれるというのが、大乗の教えだと思うので。 (唯識は違いますけれども....) ☆☆☆ ☆~~~~~~~~~~~~~   《ブッディ》(サーンキヤの学習)と《ヨーガ》によって、《プルシャ》が《プラクリティ》から展開された物質的存在から解放される、それが《解脱》であるとする   ~~~~~~~~~~~~~~~  なる《彼岸》を何ら立てない。という意味です。  これは まさにゴータマ・ブッダが《苦》や《無明》を最初の最初に立てたその説に真っ向から対立しようとする見方になると思います。 ◇はい、この世から隔絶した、どこか遠くにある《彼岸》なんていりません。 わたしの核心部分、密教(真言)なので。 《真如、外に非ず。身を棄てて、何にか求めん。》!! です。 「《身体性》の欠如した仏教なんか、いらない」とさえ思っていますので。 そのため、ゴータマ氏弁護に苦労しています(笑い)。 なかなか、わたしの考え方と繋がらないもので。

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ご返答が遅くなりました。  でも ここを訪問なさる方々は すでに今回のご回答で納得されたものと思います。  空海に通じている方は ここでいままでにお二人知っています。  ぼんのうさん( bonnnou03 )さん と へたのすけさんです。  そのとき《加持祈祷》について本を一冊読んだこともありました。  けっきょく日蓮風に言って 境智冥合なのだと思いました。ただしその実修は分かりませんが。  ▲ 真言密教について-(序の口)   http://www.kurusonzan.or.jp/ShingonMikkyo.htm  ▲ (《わたしたちはおのおの ブッダである》) ~~~  つまり、仏様だけが仏なのではなく、我々も同様に仏であり、本来仏たる資質を備えている。そして、たとえスケールは違っていても、我々も他の人に代わってもらうことのできない独自な仏としての役回りを持っている。  だから、「仏と我々の身体・言葉・心の三種の行為の形態が、不思議な働きによって感応しあう時、速やかに悟りの世界が現れてくる。(三密加持)」と説きます。  ~~~~~~~~~  ★ そう言えば ぼんのうさんさんが 高野山で僧侶が外国人に話をしていて 《 We are buddhas. 》と言っていたことを聞いたと 言っていました。これを思い出しました。  ▲ (《梵我一如》≒《境智冥合》(?)の展開?) ~~~   ▲ 三密加持とは、  以我功徳力=我々の功徳の力  如来加持力=仏の救済の力  及以法界力=両者の出会いの場としての全宇宙のあらゆる力  この三つが融合しあうことをいいます。   ▲ 加持とは、  「加」とは、仏のお力(ご加護)が修行する我々の心に映ることであり、  「持」とは、修行者の心が仏のお力(ご加護)をよく感じること」です。  ~~~~~~~~~~  ▲ (なんぢ 煩悩よ) ~~~~  真言密教では、次のように欲をとらえています。  「この世の中で欲望を捨てることほど大きな罪はない」  「もし、欲が邪魔になるなら、もっと大きな欲で制すればよい」  「例えば、御仏と同じ一切衆生を済度するという大欲が我々に持てれば、  目先の小欲は制することができる、欲の浄化とはそういうことだ」  「将来、大欲があったお陰で今日の自分がある、と言えるようになれる」  ~~~~~~~~~~~~  ★ これに対しては 次のわたしの質疑応答でお応えしたいと思います。    ○ 【Q:なぜ情欲を劣情とするのか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5922822.html    ☆ 《自灯明》は《いま現勢態としてある、ココロとカラダ》と考えたいです。  ★ そうですね。わたくしの場合は 《わたし》になりますが これはいわゆる現存在として《いま・ここなる〈わたし〉》ですから 同じことのように思います。  たぶん ひとことつけ加えれば 《自然本性》が前提になるということですが たぶん《客塵煩悩 自性清浄心》を――間接的に――前提とされるのかも分かりません。  《自然本性》は けっきょく《身と心》であり 心は 精神であり 精神は《記憶・知解・意志》の三つの行為能力を持つというかたちです。その中軸を成す《意志》は 特に身つまり感性の持つものごとにかんするわきまえの能力――これが ココロでもある――にさからってはたらく場合がある。これを 善(感性善)の損傷行為として 悪とよぶ。  ここで自己宣伝のごとく この自然本性のあり方を解釈したものを提示します。《〈かみ〉の似像(にすがた)》としてのヒトなる存在です。  ○ (ひとは カミの似像である。) ~~~~~~~~~    ――ひとと社会の成り立ちについての図式的理解――    ◆ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。  光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)  三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)  ____________________________   スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )  ____________________________  身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)  ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)  [S者/S圏]  個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)  社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)  経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )  政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓   [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓  社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )   〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ◇ 僕のもっとも根底・核心にある密教(真言)の部分、あんまり、他人(ひと)には見せたくなかったのですが...   ★ ちょうど正反対の露出狂であります わたしは。  ☆ 《わたし》《わがもの》という観念を抱く《自我意識》  ★ 正直にしかも唐突に述べますが 《自我》という言葉 これはどうにかなりませんか? と思っているのですが どうでしょう? 《わたし・われ》でしかないと思うのです。  《 das Ich 》というから 漢語を使うというのかも知れません。でもそれなら《わたしなるもの》くらいでいいのではないでしょうか?  一人称のイッヒを使っている意味が 《自我》だと隠れてしまう。(文字では つながってはいますが その慣用からは どうも別の意味合いがつきまとうように感じられます)。  つまり 何か別の意味内容を帯びた概念になった感じをあたえてしまう。いっそ《おれ意識》と言えば早いのかも知れませんし。   ひょっとして 現代人は 《自我》と《われ》とは別だと思っているのではないでしょうか?  《自我の確立》などというのは くそくらえだとすら思います。《わたし》なんです どこまでも。《他我》などとさえ言うようになりました。他人と書いて《ひと》 あるいは 《ひとさま》でしょう。  《自分・自己》でじゅうぶんだと思います。  ・ ナーガルジュナの翻訳 これら二つどちらについても正直に言えば もっとこなれた日本文に出来ないかなと思います。意味は取れますが。  サイトのご紹介のあった《布咜婆樓経(ポッタパーダ・スッタ)》は 参考程度になるのでしょうか 掲げます。  ■ (ブッダ on アートマン) ~~~  「尊師よ、アートマン、即ち、真実の自我、  つまり、真我なるものは、存在するのですか。  それとも、真我なるものは、存在しないですか。」  「行者よ、有るとも言え、無いとも言える。  無我を観じられないと、真我を感じられない。  これは、確めるべきであり、語るべきではない。」     (布咜婆樓経(ポッタパーダ・スッタ) 第五章)  ~~~~~~~~~~~  ☆ ~~~  それに、大乗のめざすべき最高の人格は、悟りを得た《ブッダ》ではありません。  衆生とともに、一緒に泥田を這い回る《菩薩》なので。  そして、誰もがその《菩薩》になれるというのが、大乗の教えだと思うので。  (唯識は違いますけれども....)  ~~~~~~  ★ 《無住処涅槃》と解していいのでしょうか?    これで まとめに入れましょうか?  ただし よいまとめ方が いま考え浮かばないのですが。

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  • MOG777
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回答No.10

あなたたちは思考が過ぎるでしょう・・・ wikiで申し訳ないですが、自灯明の記述をチェックすれば http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6 「比丘僧伽は私に何を期待するのか。私はすでに内外の区別もなく、ことごとく法を説いた。阿難よ、如来の教法には、あるものを弟子に隠すということはない。教師の握りしめた秘密の奥義(師拳)はない。……自分はすでに八十歳の高齢となり、自分の肉体は、あたかも古い車がガタガタとなってあちこちを草紐で縛り、やっと保たれているようなものである。だから、阿難よ、汝らは、ただみずからを灯明とし、みずからを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とすることなくして、修行せんとするものこそ、わが比丘たちの中において最高処にあるものである」 ”修行せんとするものこそ”とありますね。 ですから、自灯明、法灯明とは修行する上での姿勢ということです。 推論する前に資料を確認しましょう。 >★ 無明が晴れたあとの法にそって行動すればいいのです。  ☆ その場合にもなお存在すると思われる《自己》は いったいどういう状態になっていましょうか? 肉体的な《自己》と《自我意識》と《自我への妄執》は全く別物という点はよろしいですよね。 無明が晴れたあとは肉体的な《自己》と生活上必要最低限の《自我意識》は残るというか残すと思われます。 >《法》は 《自灯明》なる生き方を掲げていたときにも 《法灯明》として堅持されているはずです。その法と  ★ 無明が晴れたあとの法  ☆ とは別なのですか? こういう地道な質問はすばらしいですね。 ダンマ(法)の意味は、「秩序」「掟」「法則」「慣習」「真理」など様々です。 《法灯明》が修行する上での姿勢というのは先に資料で示しましたから、修行途中の者が 「真理」を体験的に理解し従うというのは無理な話です。 ですから、《法灯明》の《法》は「法則」、知識的理解に留まる「真理」ではないでしょうか。 無明が晴れたあとの法とは、知識的に理解し、さらに体験的に理解し完全理解した「真理」であるでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  さらにお尋ねしてまいります。  まづ ダルマという語の用法を確認します。  ★ (1) ダンマ(法)の意味は、「秩序」「掟」「法則」「慣習」「真理」など様々です。  ☆ もしよろしければ 次の二つに区分してみます。  ○ (ダルマの中身) ~~~  ( a ) 経験事象を認識したそのもの。《慣習・秩序・掟・法則》  ( b ) 経験事象を超えた――因果関係から自由な――場を想定として捉えたもの。     《主観真実を超えた・そして科学的真実をも超えた真理・摂理・原理・法則》    * 法則や原理やあるいは真理でさえ 経験事象の客観的認識やあるいは理論的真実〔つまり ( a )〕の意味で用いられることがありますので 注意が必要だと思います。  ~~~~~~     そこでですが:  ★ ~~~~  (2) 《法灯明》が修行する上での姿勢というのは先に資料で示しましたから、  (3) 修行途中の者が 「真理」を体験的に理解し従うというのは無理な話です。  (4) ですから、《法灯明》の《法》は「法則」、知識的理解に留まる「真理」ではないでしょうか。  (5) 無明が晴れたあとの法とは、知識的に理解し、さらに体験的に理解し完全理解した「真理」であるでしょう。  ~~~~~~  ☆ このくだりについてさらに問い求めたいと思います。  【Q‐8】 上に仮説したダルマの( a )と( b )との区別は それでよろしいでしょうか?   【Q‐8‐1】 つまりは もしそれでよろしければ けっきょく  ★(5) 知識的に理解し、さらに体験的に理解し完全理解した「真理」  ☆ は それでもなお( b )のダルマではない。それは 経験知でありそれを取り巻く知恵でありさらにはその広い意味での知性や判断力を含む境地ではあっても――つまり( a )のダルマであっても―― ( b )のダルマではない。ですよね?  【Q‐8‐2】 すなわち もしこの(5)の真理が ( b )のダルマであると言うためには この《真理=ダルマ》を 雲をつかむ話ながら 心に受け容れることが必要であり その受け容れたときわが心に成る《非思考の庭》において 現実なのだと想定するときだと思います。つまり 信仰(=非思考)においてである。――こうなると考えますが この点は どうでしょう? (理性による理解をも超えている と言いたいためです)。  【Q‐8‐3】 もし前項がそのとおりだとしますと じつは その《非思考の庭》に抱かれた《真理=ダルマ》は 初めの修行の段階からとうぜんのごとく持たれているのだし そうでなければ何にもならない。  つまり 経験認識としての( a )のオシエとしてのダルマは まさにあとで捨て去るべき筏にたとえられる方便だということになります。  つまり (4)の法灯明は せいぜいが向こう岸に渡す筏として方便であったとしても 最終・最高の明知=さとり にかかわるものではない。  つまり なんでそんな方便としての法灯明なるダルマを頼りとするのか? あいまい極まりないのではないか? 漂流してもおかしくないのではないか?  つまり 【Q‐8‐2】の非思考の庭の成ることをもって――修行の踏み出しのときから―― ブッダの道をあゆむのでなければならないのではないか? それ以外は 《成仏ごっこ》でしかないでしょう。  【Q‐9】 けっきょくこのように考えるなら 自灯明のほうの《自己》も初めから 《非思考の庭》にダルマをいだく《わたし》であるし わたしであり続けるし 最後までわたしであることをまっとうするでしょう。いかに?  【Q‐9‐1】 このときわが心の庭なるダルマは 名称としては《ブラフマン=アートマン》と呼ぶ真理であるからには いまのブッダの道をあゆむ主体であり主役である《わたし》は アートマンにかかわっている。もしくは アートマン=仏性(如来蔵)とするなら 《わたし》は アートマンなる霊をやどしている。  【Q‐9‐2】 おそらく次のようにおっしゃるのは ブッダの道をあゆむにあたっての前史において人びとが経験したその情況であり実際の中身なのでしょう。  ★ ~~~  肉体的な《自己》と《自我意識》と《自我への妄執》は全く別物という点はよろしいですよね。  無明が晴れたあとは肉体的な《自己》と生活上必要最低限の《自我意識》は残るというか残すと思われます。  ~~~~~  ☆ 《客塵煩悩 自性清浄心》なる《わたし》が はじめから終わりまで主体であり主役である。このような後史に立つ大乗の視点に 妄執も自我意識もふくまれましょう。含まれて要らないものは棄てられましょう。いかに?      *  1,2,3・・・と一歩一歩あゆむことは とうといことですが 指針といったものが必要であることも大事でしょう。前史という言い方で捉えざるを得ませんでしたが それは 1,2,3・・・とつづいて n に到り そしてまた n+1、n+2、・・・とさらに道を歩み続ける場合を言おうとしています。  せっかく自性清浄心があるというのにです。せっかく 仏性がやどるというのにです。  それだから 次のように書きました。  ☆☆(No.8お礼欄) ~~~~   ★ 正確に言えば無明が晴れたあとの法に従うと表現されるでしょう。  ☆ この状態・この境地に到った人は いるのでしょうか? それは 言葉で表現され得ないのでしょうか? それとも表現されていましょうか?  要するに 行き先はまったく何ら決まっておらず ばらばらに自由に修行したまえと言っているにひとしいのではありませんか?    要するに 《おさとりごっこ》が二千年も繰り返されて来たに過ぎなくありませんか? おそろしき・心地よき集団催眠なのではありませんか? ゴータマ氏の呪縛であるに過ぎなくありませんか?  ブラフマニズムにさからって 駄々をこねて アートマンに対してはアン‐アートマンだと言い張りつづけ 誰やら(≒梵我一如)の掌の上を孫悟空のごとく飛び回っただけなのではありませんか ゴータマ氏は?  人びとは その旗のもとに心地よいユメを見た。見続けていた。今に到るまで。――ではありませんか?  ~~~~~~~~~  重ねてお尋ねします。  ★ 正確に言えば無明が晴れたあとの法に従うと表現されるでしょう。  ☆ この状態・この境地に到った人は いるのでしょうか? それは 言葉で表現され得ないのでしょうか? それとも表現されていましょうか?  おそらく《境地》そのものの表現は むつかしいでしょう。  ただし その境地に到れば ものの見方が変わってまいりましょう。  ですから たとえばそれが 世界の見方を その前史とそして後史とに分けて見るというかたちになって現われましょう。(それよりさらに高い境地があるかも知れません。いまは この段階についてしるします)。  すなわち 《わたし》は 自己と言おうが我執があると言おうが それらは すでにわが前史であると言えるあらたな段階です。  すなわち 《ダルマ》は オシエ( a )として法則であろうが倫理規範であろうが これらも すでに真理( b )なるダルマの中に包含されてしまったと見ており しかもこの《ダルマ( b )》は おどろくなかれ わが心の《非思考の庭》に抱かれている。  なぜなら 生まれたときから仏性として霊として清浄心としてそなわっていたと見ているのだから。と堂々と宣言するあたらしい後史に人びとは入っていなければおかしい。《われは ブッダなり》とすでに誰もがそれぞれ宣言したところから歩み出しているのでなければ おかしい。  こういう物言いです。いかがでしょう?

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回答No.9

こんばんは。 ☆☆☆ 【Q‐5】 《島》を 灯明として解される説を採らないにせよ ここで《たよりとする自ら》とは 《アートマン》とは別なのであろうか? ☆アートマンは《自灯明》になりえません。 ゴータマ・ブッダの時代、 《アートマン》はただの《享受者》、もしくは《煩悩の奴卑》のような存在と見なされており、救済の対象だったからです。 こうした考え方の典型は(古)サーンキヤ哲学でしょう。 理由は分かりませんが、 真のアートマンと呼べる《神我(霊我)・プルシャ》は、《根本原質(メタ・物質的質料因のようなもの)・プラクリティ》にとらえられます。 そして、その《プラクリティ》→《ブッディ・理性》→《アハンカーラ》→《マナス・意》→…と順次展開してゆきます。 《アハンカーラ》は、《ブッディ》を《アートマン》と誤認します。 正確ではありませんが、 この《アハンカーラ》(我執とか我慢と訳されるのかな?)の《ブッディ》を《アートマン》と錯誤する誤認が輪廻の原因です。 肉体という物質内に閉じ込められた《プルシャ》は、ただ存在するだけで、主体的な活動を何一つしません。単なる、物質の《享受者》に過ぎません。 なので、この《アハンカーラ》の錯誤を解くために、《プルシャ》救出のために、 《ヨーガ》の実修が必要というわけです。 大切なのは《ブッディ・理性》です。これが解脱の主導的な役割を果たします。 《ヨーガ・スートラ》にも同じ思想が見られます。 ヨーガの最終段階、《無種子三昧》において、構成力(サンスカーラ・行)を絶滅し、《こころ》(サーンキヤでは心は物質的存在とされます)は《根本原質・プラクリティ》に帰一し、《プルシャ》の独存を果たす。 これが《輪廻からの解脱》というわけです。 サーンキヤは、キリスト教的グノーシス思想に近い二元論的思考をします。 実在のゴータマ・ブッダが(古)サーンキヤ哲学の影響を受けていたのは疑いえない事実でしょう(たとえば、ベック著・仏教下 岩波文庫)。 仏教の教えサーンキヤの考え方には、多くの共通性が認められますので。 また、仏伝が記すように、ゴータマ・ブッダはアーラーラ・カーラーマとウッダカラーマ・プッタのもとでヨーガを学んでいます。サーンキヤはヨーガの理論的バックボーンですから、ゴータマ・ブッダがサーンキヤをまったく学んでいなったと考えることに無理があります。 そして、ゴータマ・ブッダの仏教と同様に、(古)サーンキヤ哲学は《無神論》です!! なので、 《アートマン》は頼りにならない、《自灯明》になりえない。 頼りになるのは、サーンキヤでいうところの《ブッディ》と《ヨーガ》と言ったところでしょうか。 なので、《自灯明》は修行の成果である《わたし》でしょう、きっと。 bragelonneさんにつられて、 僕はまた危険な橋を一つ渡ってしまった!! 《危険思想》を披露してしまった!!! ☆☆☆ 【Q‐2a 】 鍛冶工チュンダが食べさせた毒キノコ(または 豚肉)によって体調をくづしたことについては ブッダは チュンダをかばっている。咎めていないし 恨み節も言っていない。つまり このチュンダの事件は 事件そのものを予見したのではないが アーナンダの悪魔憑きによって 寿命が縮められたからには チュンダか誰かの食事に当たるといったことは 想定され得たから もう咎めもしない。  ――このような意味なのでしょうか? ☆毒キノコによる死は、すでに、織り込み済みであったということでしょう。 仏教を含むインド教によれば、ヨーガの副産物としてさまざまな超能力が得られるとされています。 そして、その中の一つに未来を予知する《天眼通》(てんげんつう)という超能力があります。 ゴータマ・ブッダは、この《天眼通》を持っていたとされているので、そのことはすでに予見していたということになります。 なのですが、ゴータマ・ブッダが《天眼通》を持っていたとなると、アーナンダの《悪魔憑き》とそれがもたらす結果もすでに予知していたことになり、物語としての首尾一貫性が損なわれます。 物語の内容が混乱していると言ったところでしょうか。 なので、わたしは《ブッダの優しさ》の現われと解釈したいと思います。 「自分の死後、チュンダを責めてはいけない」というようなことを、仏弟子たちに言っていますので。 ☆☆☆ ○ 客塵煩悩 自性清浄心  を基礎として   ○○(趣旨説明欄) 楽が地であって 苦は図であるのだと。逆ではないのだと  と修正すべきだと考えられます。 ☆個人的には、《楽が地であって 苦は図であるのだ》でもいいと思います。 もっと進んで、密教の説く《大楽思想》まで踏み込んでもよかったのでは!! (さすがにこれは行き過ぎか、ポリポリ) 《涅槃寂静》 《涅槃》の境地は、生きている内に獲得できるとしても、これでは、いささか頼りない。もの足りない。 仏教の厭生主義だけが際立ってしょうがない。 事実、「仏教はそのようなものだ」と多くの人に誤解されている。 《苦》の側面だけではなく、《生の意味》を理解可能な形で後世に残すべきだったのでは、 と考えています。 《客塵煩悩 自性清浄心》と言っても、 実際は、お客さんである《煩悩》があまりに強くてご主人様になっていますので、 ある意味、これは仕方なかったのかな、とも同時に思っています。 ☆☆☆ ★ だとしますと 《自灯明》は ただの《元気を出せ》とか《しっかりせよ》というときの踏ん張りや頑張りのことを言っているのみ。となりませんか? それでよいということでしょうか? ☆まぁ、残された(後世の)弟子達への励ましの言葉、エールでしょう。 ですが、 ゴータマ・ブッダは《彼岸》に達した。そして、《彼岸》に至る道を残らず教えた。 その彼岸に至る道が《法灯明》であり、《自灯明》は、その教えに基づいた修行の成果である《わたし》なのですから、 個人的には、これで十分だと思いますが。 ☆☆☆ ★ すなわち 《最高の境地にある》と言っています。でしたら とうぜん《四無量心(慈悲喜捨)》を含むと考えられます。矛盾しませんか? ☆《四無量心》は《最高の境地》に至るための単なるステップ、修行の《階梯》、身につけるべき徳目に過ぎません。 ☆☆☆  ☆ 《煩悩を取り除く》という修行  ★ としては 見ません。修行を超えて(つまり 超えてというのは 修行をしてもいいわけです ですがそれをも超えて)はたらくナゾのチカラという意味で 無縁慈悲ないし《わが心の燈心をともすこと》を捉えます。つまり 非思考の庭におさまるしろものです。ばけもののごとく。 ◇《無縁慈悲》は《空(性)》の別の表現なので、問題はないと思いますが、 《わが心の燈心をともすこと》は文学的な表現でなんとも.... 《自性清浄心》が本来の輝きを取り戻すことを意味するのならば賛成しますが... ☆☆☆ ☆ ~~~~  その活動の本源である《自性清浄心》(と言っても、あくまで今ある《人間の心》です)をブッダと呼ぶことができるのなら、  それが《泉の如く水の湧き出るチカラであるブッダ》ということではないでしょうか。  ~~~~~~  ★ 微妙に違うと見ます。 ◇ご指摘の通り、少し誤魔化しています。 厳密に言えば、 《自性清浄心》は《非経験(?)・非思考の庭》で成立するもので、 現象界で現勢態としてある、《わたし》が今もっている《人間の心》とは別物です。 《自性清浄心》が働く.... 《空性》のもとで成立するのだから、《自性清浄心》が働くと言ってもいいのかな.... 《自性清浄心》の現象界における現勢態として、影(?)として、それを日常的に感得できるのではないか、という意味です。 でも、最終的にはどちらも《空》ですので、《勝義諦》の立場からは、同じことになりますか と誤魔化す。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ☆ 《アハンカーラ》は、《ブッディ》を《アートマン》と誤認します。  ★ でしたら この《誤認》を誤認と見る立ち場にあっては 梵我一如のアートマンをきちんと想定し捉えているはずです。  そしてそのまま 《自灯明》を アートマンと同じと見ているか または アートマンをそなえた《わたし》のことと捉えているはずです。  重ねて確認しますと:  ☆ ~~~  正確ではありませんが、  この《アハンカーラ》(我執とか我慢と訳されるのかな?)の《ブッディ》を《アートマン》と錯誤する誤認が輪廻の原因です。  ~~~~~  ★ であるとすれば そのあとにるる述べられる《修行》は ことさら必須のことであるとも思われません。錯誤を錯誤と認めたならば その認めたわれは すでに輪廻の原因から自由になっているからです。  すなわち  ☆ ~~~  なので、この《アハンカーラ》の錯誤を解くために、《プルシャ》救出のために、  《ヨーガ》の実修が必要というわけです。  ~~~~  ★ とはつねにそうだとはならない。はずです。なぜなら  ☆ 大切なのは《ブッディ・理性》です。これが解脱の主導的な役割を果たします。  ★ と言うときには 実際に中軸となるのは この《ブッディ・理性》なのではなく またそれによるヨーガの実修なのでもなく そうではなく じつにそれらをいま このように捉えて全体を見ている《わたし》 これが当然のごとく《解脱の主導的な役割を果たします》と言わねばなりません。  あるいはさらに 推論を伸ばし得ます。   この《わたし》にわたしが立ち還ったなら その場で即座に このアハンカーラの錯誤にかんするかぎりでは解脱しています。こう来なくっちゃならないのではないでしょうか?     *  ☆ ~~~~  そして、ゴータマ・ブッダの仏教と同様に、(古)サーンキヤ哲学は《無神論》です!!  なので、  《アートマン》は頼りにならない、《自灯明》になりえない。  頼りになるのは、サーンキヤでいうところの《ブッディ》と《ヨーガ》と言ったところでしょうか。  なので、《自灯明》は修行の成果である《わたし》でしょう、きっと。  ~~~~~  ★ 無神論なる信仰と アートマン=ブラフマンなる有神論としての信仰とが まったく同じ類型であることは 何度も触れて来ています。  アートマンをやどした《わたし》が 自灯明である。となりましょう。それなのに《無我》を言うのはおかしい。  上に述べたところから 《ブッディ》と《ヨーガ》が もっぱら人が頼りとすべきそのものだという必然性は見られない。と思います。  ☆ 修行の成果である《わたし》  ★ という見方が分かりづらいです。これから修行するというのに その成果を頼りにするというのは どう解せばよいでしょう?     *  ☆ キリスト教的グノーシス思想に近い二元論的思考  ★ は 《危険思想》ではありません。そこまでの値打ちはありません。二元論は 成り立ちません。法身に二つの異なるものがあるとはなり得ません。  ☆ (古)サーンキヤ哲学  ★ については 詳しくありません。ぼちぼちになります。     *  ☆ ~~~  なので、わたしは《ブッダの優しさ》の現われと解釈したいと思います。  「自分の死後、チュンダを責めてはいけない」というようなことを、仏弟子たちに言っていますので。  ~~~~~  ★ この点は 勘違いする前から受け留めていました。     *  ☆ ~~~  個人的には、《楽が地であって 苦は図であるのだ》でもいいと思います。  もっと進んで、密教の説く《大楽思想》まで踏み込んでもよかったのでは!!  (さすがにこれは行き過ぎか、ポリポリ)  ~~~~~  ★ 《大楽思想》は 保留としつつ 確認いたしました。  ☆ ~~~~   《涅槃寂静》  《涅槃》の境地は、生きている内に獲得できるとしても、これでは、いささか頼りない。もの足りない。  仏教の厭生主義だけが際立ってしょうがない。  事実、「仏教はそのようなものだ」と多くの人に誤解されている。  《苦》の側面だけではなく、《生の意味》を理解可能な形で後世に残すべきだったのでは、  と考えています。  ~~~~~~  ★ という感じを同じくします。  ☆ ~~~~  《客塵煩悩 自性清浄心》と言っても、  実際は、お客さんである《煩悩》があまりに強くてご主人様になっていますので、  ある意味、これは仕方なかったのかな、とも同時に思っています。  ~~~~~~  ★ これは 異を唱えます。《悪は その名でよぶ現象があるのみであって 悪そのものとしては存在していない》という仮説に立ってのことです。  善が存在していて その存在の損傷として――損傷させる意志行為として――負の善すなわち悪が 現象することになる。善は おのれの心(感性および理性。特には 感性)にさからわないことと定義します。(マチガイがあり得るという前提をも含みます)。  これと同じように 《煩悩つまり無明》は 《ご主人様の よ う になっていたとしても あくまで客である》。つまりそのような煩悩現象なる図を 《菩提つまり明知》なる地の上に人は描く。こう考えます。     *  ☆ ~~~  ゴータマ・ブッダは《彼岸》に達した。そして、《彼岸》に至る道を残らず教えた。  その彼岸に至る道が《法灯明》であり、《自灯明》は、その教えに基づいた修行の成果である《わたし》なの ですから、  個人的には、これで十分だと思いますが。  ~~~~~  ★ 法灯明も 彼岸に到ったあとでは捨て去るところの筏なのですよね。  これから修行するというのに 修行の成果である《わたし》を自灯明とするというのが 重ねて 分かりづらいです。     *  ☆ 《四無量心》は《最高の境地》に至るための単なるステップ、修行の《階梯》、身につけるべき徳目に過ぎません。  ★ いえいえ そうではなく   ▲(自灯明) ~~~~   アーナンダよ。今でも またわたしの死後にでも 誰でも自らを島とし 自らをたよりとし 他人をたよりとせず 法を島とし 法をよりどころとし 他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば かれらはわが修行僧として最高の境地にあるであろう。  (中村訳同書 第二章 九 旅に病む 二六)  ~~~~~~~~~~~  ★ ということですから 《自灯明および法灯明》は それだけですでに《最高の境地》であると言っているのではありませんか? そしてそれは 《四無量心》をもふくむはずです。  ◇ ~~~  《無縁慈悲》は《空(性)》の別の表現なので、問題はないと思いますが、  《わが心の燈心をともすこと》は文学的な表現でなんとも....  《自性清浄心》が本来の輝きを取り戻すことを意味するのならば賛成しますが...  ~~~~~  ★ たしかにユメ・マボロシであり ばけもの談義になっていますので ときをあらためたいと考えます。     *  ☆ ~~~  《泉の如く水の湧き出るチカラであるブッダ》  ・・・  《自性清浄心》が働く....  ・・・  でも、最終的にはどちらも《空》ですので、《勝義諦》の立場からは、同じことになりますか  ~~~~~~  ★ じつは これが ばけもの談義の一例だと見るものですが ぎゃくにもっと文学的に表現してみます。  つまり  ○ (わが身と心が つねに水の湧き出る泉となる) ~~~~  身体の臓器がひとつの細胞から再生されるなら これはわれわれにとって《ひかり》です。《ともしび》です。  同じく 人びとの互いの助け合いは トモシビです。  そして これらのトモシビは おおむね《わたし》の外から来ます。(医学者が その医学の知識と技術をもって自分自身の内側からトモシビになる場合もありますが この場合もげんみつに言えば 自分の外なる知識と技術がトモシビです)。  ですから 自分自身・その存在そのものが トモシビとなるということ。いちど灯されたら 二度と消えない火 あるいは心の底で燠のようにちょろちょろと燃えつづける火。  ~~~~~~~  ★ これは 自己を頼りとするという自灯明があらわすこととは微妙に違うと思われます。頼りにならないと思っていたのに わが内なる庭が泉となって水を湧き出させ チカラとなる。(絶対他力を言おうとしています)。  法灯明としてみれば 梵我一如のもとで《わたし》がダルマ〔の一部〕として燃えている。といったことになるかと思います。  以上 どうでしょう?

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  • MOG777
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回答No.8

議論の元になる部分を固めないで推論だけ進めるからわけわかんなくなるのですよ・・・ >【Q‐7】 《われにまつわる執着を解いて 究極の実体なるアートマンは無い(つまり無我)と知る。その解き知る主体としてのわたしは ある。このわたし・この自己をたよりとするべし。ただし他人を頼りとするべからず》ということでしょうか? ・何度もいう様に、自灯明は修行の態度を示しています。 ・無我と完全理解できるのは悟った瞬間です。 ・(禅宗的な意味ではない)悟りを得たならば、修行は終わりです。 ・修行が終わったならば自灯明も不要です。無明が晴れたあとの法にそって行動すればいいのです。 >【Q‐7d 】 つまりは 我執から離れた自灯明としての《自 つまり わたし》は わが知恵と理性とそして意志およびその努力によってブッダとなるというとき 《究極の真理》としての無我ないし法とは どういう関係にあるのか? 自と法とで どちらが優位なのか >【Q‐7b 】 人間はすべからくその理性と意志とで言わばこの世の闇を突き抜けるべしという方針なのでしょうか? ? ・何度もいう様に、自灯明は修行の態度を示しています。 ・わが(!)知恵と理性とそして意志およびその努力はスペースシャトルのブースターロケットのようなものです。最終的には不要・邪魔になるものです。 ・我執から離れた(無我のを完全理解した)状態ならば法灯明絶対でしょう。 ・ただ、法灯明も修行の姿勢ですから、正確に言えば無明が晴れたあとの法に従うと表現されるでしょう。 > ☆ ぢゃあ 次のくだりは 《屁理屈や妄想》なのですか?  ▲ (苦か楽か。涅槃?) ~~~~  ・・・尊師はこのように言われた。   ――アーナンダよ。ヱ゛ーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。・・・     修行を完成した人(如来)は 四つの不思議な霊力(四神足)を修し・・・かれは もし望むならば 一つの劫のあいだでも留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう。・・・ 私が思うに、この神通力が述べられている部分は在家へのサービスです。 ただ、神通力はあるとは思いますし、全くの嘘でもないでしょう。 ただし、「楽しい」は仏陀の言う楽しいである点に注意すべきで、 おそらく、涅槃に近づくものが増えて嬉しいという意味でしょう。 この嬉しいというのも肉体的物理的には苦なのですが、そこまで厳密に言っていたら 会話できないですしね・・・

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  まったく わたしにとっては初めてうかがうご見解です。  ★ ~~~  ただし、「楽しい」は仏陀の言う楽しいである点に注意すべきで、  おそらく、涅槃に近づくものが増えて嬉しいという意味でしょう。  この嬉しいというのも肉体的物理的には苦なのですが、そこまで厳密に言っていたら  会話できないですしね・・・  ~~~~~~  ☆ つまり要するに 人間の生もこの世も 《苦》の世界なのですね?  四苦説に完全に忠実と言いますか ほかに何と言いますか。  この苦の世界をけなげにも生きる姿と言いますか。  あるいは 苦がつねにあって欲しい。苦がなくては生きて行けないという意味では マゾヒズムだと見られても仕方がないと言いますか。  ★ ~~~  「楽しい」は仏陀の言う楽しいである点に注意すべきで、  おそらく、涅槃に近づくものが増えて嬉しいという意味でしょう。  ~~~~~  ☆ ブッダは 《たのしい》のですか? あるいはブッダでもなお苦の中にあるのですか?   ★ 涅槃に近づくものが増えて嬉しい  ☆ これは《楽》とは 別なのですか?  つまり 一般に善因善果・悪因悪果というところを ブディズムでは 善因楽果・悪因苦果と言うと思いますが この《楽》と《嬉しい》とは 別ですか?  ★ 無明が晴れたあとの法に従う  ☆ という状態においても 《苦》の世界にあるのですか?  ですから  ☆☆ (趣旨説明欄)【Q‐3】 ・・・(・・・苦は楽に変えることが出来ると明言しなければいけない。あるいは 楽が地であって 苦は図であるのだと。逆ではないのだと)。  ☆ と問うています。  ★ ~~~  ・ (禅宗的な意味ではない)悟りを得たならば、修行は終わりです。  ・ 修行が終わったならば自灯明も不要です。無明が晴れたあとの法にそって行動すればいいのです。  ~~~~~  ☆ 《自灯明》が不要になったなら 《島 ないし 頼り》は要らなくなるのでしょうか?  ★ 無明が晴れたあとの法にそって行動すればいいのです。  ☆ その場合にもなお存在すると思われる《自己》は いったいどういう状態になっていましょうか?  《法》は 《自灯明》なる生き方を掲げていたときにも 《法灯明》として堅持されているはずです。その法と  ★ 無明が晴れたあとの法  ☆ とは別なのですか?  そもそも 《法》は 自灯明の《自》が簡単に分かるようには 分からないと思われますが いったいそんな《法》を頼りにせよと言っても どうなりましょう? 要するに自分たちがおのおの《法》と思うところにしたがって生きよというおしえでしかない。こう考えられますが 違いますか?    ★ ~~~  ・ 我執から離れた(無我のを完全理解した)状態ならば法灯明絶対でしょう。  ・ ただ、法灯明も修行の姿勢ですから、正確に言えば無明が晴れたあとの法に従うと表現されるでしょう。  ~~~~  ☆ つまり  ★ 我執から離れた(無我のを完全理解した)状態  ☆ と認識する主体は 《わたし》であるはずですが・つまりそれ以外に考えられませんが その《わたし》は いったいどうして《我執から離れた》状態にあると分かりますか?  ★ 法灯明絶対  ☆ と言われても はじめから法灯明は 具体的なあり方が決まらないし 分からないのではないでしょうか?   ★ ただ、法灯明も修行の姿勢ですから、  ☆ この姿勢は 一人ひとりまちまちであって なんら決まっていず けっきょく修行がおのおのばらばらにおこなわれるしかないのではないでしょうか?  ★ 正確に言えば無明が晴れたあとの法に従うと表現されるでしょう。  ☆ この状態・この境地に到った人は いるのでしょうか? それは 言葉で表現され得ないのでしょうか? それとも表現されていましょうか?  要するに 行き先はまったく何ら決まっておらず ばらばらに自由に修行したまえと言っているにひとしいのではありませんか?    要するに 《おさとりごっこ》が二千年も繰り返されて来たに過ぎなくありませんか? おそろしき・心地よき集団催眠なのではありませんか? ゴータマ氏の呪縛であるに過ぎなくありませんか?  ブラフマニズムにさからって 駄々をこねて アートマンに対してはアン‐アートマンだと言い張りつづけ 誰やら(≒梵我一如)の掌の上を孫悟空のごとく飛び回っただけなのではありませんか ゴータマ氏は?  人びとは その旗のもとに心地よいユメを見た。見続けていた。今に到るまで。――ではありませんか?

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  • Tefu_Tefu
  • ベストアンサー率27% (87/322)
回答No.7

こんばんは。 酷過ぎる( >Д<;)  (の´v`の)って屁理屈なの? アートマンとブラフマンは違うし。自我と無我も違う。 苦を無くせば楽になる。そんな訳ないし、苦があるから楽があるのです。中道がいいのです。たとえば、パンダのような人は、苦労を求めそれを解決することが楽しいということです。また、苦労のある人は、それを乗り越えれば楽しみを得られるということ。働いたら遊べということ。 >輪廻からの解脱<ってバラモン教のカースト制度の否定に思えますが。 仏陀の教えは、たとえば、自然界に波があるなら、その波に乗りなさいということです。溺れろということではないし、また、波を消せるという教えでもない。仏陀に十大弟子がいたように、人はそれぞれ才能が違うのです。その才能に従えば、人間として素敵な人生が送れるといっただけです。人間にも猫的な人、犬的な人、その他的な人がいるということ。今の時代、修行好きな人や他人への依存症の人が多すぎるのです、猫や虎的な人が増えるべきでしょうね。 >医学などの科学としての光明や思いやり・愛情としての温かみやは 何も《さとり》を得なくとも 人間の能力と心において得られるものである。<そうでしょうか、人間一人一人が自分の才能を信じて、努力して、「四無量心(慈悲喜捨)」を感じて、と共にあるのです。

bragelonne
質問者

お礼

 てふ_てふさん ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~   >医学などの科学としての光明や思いやり・愛情としての温かみやは 何も《さとり》を得なくとも 人間の能力と心において得られるものである。<  そうでしょうか、人間一人一人が自分の才能を信じて、努力して、「四無量心(慈悲喜捨)」を感じて、と共にあるのです。  ~~~~~  ☆ 四無量心(慈悲喜捨)は あとにして 科学による光明や人間の持つ思いやりとしてのやはり光とそのあたたかさ これらをまづ取り上げます。つまりこれらは 何もブディズムによらなくても 得られるのではないでしょうか?  すなわち  ★ ~~~~  仏陀の教えは、たとえば、自然界に波があるなら、その波に乗りなさいということです。溺れろということではないし、また、波を消せるという教えでもない。仏陀に十大弟子がいたように、人はそれぞれ才能が違うのです。その才能に従えば、人間として素敵な人生が送れるといっただけです。人間にも猫的な人、犬的な人、その他的な人がいるということ。今の時代、修行好きな人や他人への依存症の人が多すぎるのです、猫や虎的な人が増えるべきでしょうね。  ~~~~~~  ☆ と説明されるとき このような人びとのあり方は 《仏陀の教え》による・よらないとは別に ふつうに起こっているのではありませんか?  すなわちつまり  ★ 四無量心  ☆ を取り上げるなら これも まづはふつうのわれわれ人間であれば 成しうることではないでしょうか?  たとえば  ◇ (回答No.2) ~~~  慈:他人に楽を与える。  悲:他人の苦しみを取り除く。  喜:他人の喜びをともに喜ぶ。  捨:苦楽、悲喜を超越し、心の平安を保つ。  ~~~~~~~~~~  ☆ おそらく これらの行為ないしそれをおこないうる境地は  ★ 中道がいいのです。  ☆ という見地によれば およそ人びとはふつうにおこなっているのではないでしょうか?  おそらく――回答No.2への返答でも触れましたが―― 《慈悲》の問題が あとは 残ると思われます。  慈悲には  (1) ふつうの人情や友情 あるいは ふつうの世間の知恵としての助け合いや思いやり これを言う《衆生縁》としての慈悲があり  (2) 次に法縁としての慈悲がある。法を聞きまなぶ人がおこないうる友情ないし思いやりだと見られます。  つまり これらふたつの慈悲は ブディズム如何を問わず 経験され得ます。こういう意味での《法》は 仏法の専売特許ではないでしょう。  問題は 三つ目で最後の慈悲です。  (3) 無縁慈悲。  ▼ (ヰキぺ:慈悲) ~~~  無縁とは   慈悲心の自然(じねん)の働きをいうものであり、それは仏にしかない心であるという。  ~~~~~~~  ☆ つまり もし《仏にしかない心》であるなら 文字通りには ふつうの人間の行為としては成し得ないことなのであり もしそうではなく《われわれは一人ひとりが ブッダである》とするなら 経験世界において成しうることだと見られます。  ただし 後者の場合でも いくら経験行為としてこの生身の人間が成しうると見たとしても おそらくそう簡単には問屋が卸さないと思われます。  結論から行けば この《無縁慈悲》なる愛は わが心の《非思考の庭》から見て あれっ ひょっとしてそのようなおこないが人間に出来たのかな? と思わせるようなユメ・マボロシとして感じられるもの。こういう経験を言うのではないでしょうか?  まとめです:  ブッダのおしえによってもいいけれど 拠らなくても われわれ人間は そのおしえの言っていることがふつうに出来てしまうし 出来ている。  ただし 慈悲のうち 無縁慈悲だけは――これは ゴータマ氏が説いたものではないようですが―― 奇蹟に近い経験事象であると考えられる。  つまり ゴータマくんの出る幕は ない。とまで言えてしまう。のではありませんか?

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  • MOG777
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回答No.6

なるほど。 自灯明と無我説の矛盾ですか・・・ 自灯明は修行の態度を示しています。 一方、無我とは究極的な真理の話の文脈で使われます。 なんら矛盾しません。 例えば、あなたの理屈は、物理を学ぶにあたり、テキストを広げなさいと言うとき 「世界は素粒子でできているといったはずではないか! テキストなんてないはずだ!」という屁理屈と同じです。 あと、生は苦であるですが・・・ 屁理屈や妄想をやめて、ご自身の生きている感覚に注意を注げば苦であることがわかります。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~  生は苦であるですが・・・  屁理屈や妄想をやめて、ご自身の生きている感覚に注意を注げば苦であることがわかります。  ~~~~~  ☆ ぢゃあ 次のくだりは 《屁理屈や妄想》なのですか?  ▲ (苦か楽か。涅槃?) ~~~~  ・・・尊師はこのように言われた。   ――アーナンダよ。ヱ゛ーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。・・・     修行を完成した人(如来)は 四つの不思議な霊力(四神足)を修し・・・かれは もし望むならば 一つの劫のあいだでも留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕一)  ~~~~~~~~~~~      *  ★ ~~~~  自灯明は修行の態度を示しています。  一方、無我とは究極的な真理の話の文脈で使われます。  なんら矛盾しません。  ~~~~~~  ☆ もしそうだとしますと こういうことでしょうか?  【Q‐7】 《われにまつわる執着を解いて 究極の実体なるアートマンは無い(つまり無我)と知る。その解き知る主体としてのわたしは ある。このわたし・この自己をたよりとするべし。ただし他人を頼りとするべからず》ということでしょうか?  ☆ たしかにたとえば次の句は 《自灯明は修行の態度を示しています》に相当するようです。  ▲ (自己を洲とする) ~~~  自己を洲(す:よりどころ)として世間を歩み 無一物で あらゆることに関して解脱している人々  (中村元訳:『ブッダのことば――スッタ二パータ―』 1958 第三 大いなる章 五 マーガ 五〇一)  ~~~~~~~~~~  あるいは 次のように言うからには いわゆる《我執》としての自己ではないはずです。  ▲ (わがものとして執着することなく) ~~~  偽りもなく 慢心もなく 貪欲を離れ わがものとして執着することなく 欲望を持たぬ人々  (同上 四九四)  ~~~~~~~~  このようだとしますと    【Q‐7a 】 意志行為の主体である《わたし》が 無明の縛りを解き 輪廻から解脱し もう再生することはなくなる。ということでしょうか?   ▲ (再生することはない) ~~~~  この無明とは大いなる迷いであり それによってこの永い輪廻が現われ出たのである。しかし明知に達した生けるものどもは再び生存を受けることがない。  (同上 第三 大いなる章 一二 二種の観察 七三〇)  ~~~~~~~~~~~  【Q‐7b 】 人間はすべからくその理性と意志とで言わばこの世の闇を突き抜けるべしという方針なのでしょうか?  【Q‐7c 】 ところが そういう理論および実践で《自灯明》はよいとして こんどは それと では《法灯明》とは どういう関係にあるのか? これが問われねばならないのではないでしょうか? すなわち 《法》というなら   ★ 無我とは究極的な真理の話の文脈で使われます。  ☆ というこの《無我》とかかわっているのではありませんか?   【Q‐7d 】 つまりは 我執から離れた自灯明としての《自 つまり わたし》は わが知恵と理性とそして意志およびその努力によってブッダとなるというとき 《究極の真理》としての無我ないし法とは どういう関係にあるのか? 自と法とで どちらが優位なのか?    【Q‐7e 】 もし究極の真理において 自灯明と法灯明とは一体だというのなら 梵我一如というブラフマニズムと何ら変わらないと言わねばならないのではないでしょうか? 言いかえると 《無我(アン‐アートマン)》と見ている《われ》は 究極において 《アートマンなるわれ》と同じだとなりませんか? なるならそのときゴータマ氏は 血迷っているのではありませんか?

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  • MOG777
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回答No.5

仏典というのが何から何まで正しいわけないのです。 そして、かなりの情報の抜け落ちというのがあって当然なのです。 伝説の類や断片化されたエピソードに関わっても益なし。 それよりも「受」とか「印」とかそう話はできないもんですかね・・・

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  わたしの問い求めは ブッダは――大乗仏教がそのほころびを 梵我一如の理論にもとづき おぎなったと思いますが ゴータマ・ブッダじしんは―― その思想において破綻している。こう考えますと問うています。  自灯明は 無我説と矛盾します。煮詰めた見方としては その《自》と《我》とは どちらも基本的に《アートマン》と重なる。しかも 一方では それに頼れと言い 他方では そんなものはないと言っています。  苦は楽に成る。つまり 苦を人はさとりを得るなら 楽としうる。のであれば 初めのころの《四苦》説は 取り消されたのであり もしそうだとすれば 《苦》は 第一には来ない。はずです。そう言い直さねばならないはずです。  基本的に 人間の自然本性は 楽である。もしくは非苦である。ただ 行為のマチガイやシガラミを自分の中に取り込むことによって 苦がついて来る。というように 修正しなければならなかった。はずです。  《生が 苦である》 この命題は 根本的に狂った人の考えです。  これらは 《エピソード》などの問題ではありません。どうして どうして!  《情報の抜け落ち》どころの話ではないのです。  ニルワ゛―ナ あるいは灰身滅智などというのは 気が違っています。  輪廻からの解脱 こんな命題の立て方じたいが マチガイです。  楽が地であって その上に苦という図がある。それと同じように 人間のふつうの生がある。ただし アヤマチを繰り返すことによって あたかも六道輪廻のごとき悪循環が起きる。というのであって 《初めに苦とその輪廻ありき》 なのではないはずです。  初めに苦とその輪廻ありき。などというのは 精神錯乱に落ち入っている者の言う言葉です。  ことほどかように ゴータマ・ブッダは 世迷いごとを言っている阿呆です。

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  • MOG777
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回答No.4

誰がじゃ~?

bragelonne
質問者

お礼

 ご投稿をありがとうございます。  いまの段階では No.2でのやり取りをごらんください。

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回答No.3

おそらく言いたい事は、 悪を咎め立てするのは間違いだが、お釈迦様はその間違いを犯した。 そう言う解釈でないかい?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  それほど単純な話ではありません。  寿命を縮めるということが 弟子のアーナンダの不注意によって ブッダに起こった。のだそうです。  アーナンダの心を隙をついて 悪魔が忍び入った。それによって ブッダに答えるべき答えをアーナンダが成し得なかった。それで だそうです。  ブッダがそれを直接に咎めているわけではなさそうですが その事実にかんしては 事実であろうということだそうです。    その事件とそれをどう扱うのかについて はっきりしないように思います。  詳しくは No.2のねむりねこさんとのやり取りを参照してください。

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回答No.2

こんばんは。 早晩、この問題が出てくるのだろう、と予想していました(ポリポリ)。 ☆☆☆ ○§ 1 ブッダが実際の死より長生きできなかったのは アーナンダの不明の所為か? ☆はい。仏典を読むかぎり、アーナンダの不明の所為ということになりそうです。 【Q‐1】 悪魔に取り憑かれていたゆえに アーナンダが悪いのか? ☆悪魔に取り憑かれる心のスキがあったわけですから、アーナンダが悪いです。 しかし、これは、アーナンダが結果的にゴータマ・ブッダの寿命を縮めたからではありません。 悪魔に取り憑かれる心のスキがアーナンダにあったから、それが悪いということです。 ☆☆☆ 【Q‐2】 鍛冶工チュンダが差し出した毒キノコ(?)を食べて体調をくづしたとき ブッダはチュンダを咎めなかった。そういう気遣いをしているのに このアーナンダの悪魔憑きについては どう振る舞ったのか? ☆アーナンダを咎めるというよりも、「永遠に近い長い時間、生きられたのに、アーナンダ、おまえのせいで俺の寿命が縮まった」みたいな恨み節に近いことを言っています。 ここに見られるゴータマ・ブッダの姿は、結構、見苦しいです。 恨み節のような繰り言は必要なかった、と言ったところでしょうか。 しかし、わたしは、歴史上存在したゴータマ・ブッダを超越的存在としてとらないので、かえって、この言葉に強い親近感を覚えます。 《お釈迦様もやっぱ人間だ!!》と。 確か、《毒キノコ》ではなく、《豚肉》という伝説もあるという話ですよ。 ○§ 2 人生の四苦説は 最後まで取り消されることはなかったのか? ☆個人的な見解ですが、 《取り消した》 のでしょう。 「 ――アーナンダよ。ヱ゛ーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。・・・」 この言葉にあるように、 本来、厭うべきこの世も、悟りの境地に立ったゴータマ・ブッダの目には、《迷いの世界であるこの世もなんら否定されるべきものではなく、清浄である》と映っていたのでしょう。 (後に開花する大乗の世界観の先駆けともいえる思想がここに認められるような気が....) 出発点は、人生の四苦思想でしたけれども、その苦を克服してしまえば、この世はHappyと言ったところでしょうか。 たぶん、仏教でいう《軽安(きょうあん)》という境地なのでしょう。《身も心も軽やか》!! 《ルンルン》と形容したいところなのですが、これは、たぶん、仏教的には少し問題がある表現なので... なのですが、これは、悟りを得た時に成立することであって、 迷いの段階では《人生の四苦説》は成立します。 一種の二階建て理論と言ったところではないでしょうか。 ☆☆☆ 【Q‐4】 輪廻からの解脱 つまり二度と再生しないことが ブッダのあり方ではなかったか? けれども 《一つの劫のあいだでも留まるであろう》と言っている。  § 3 《われ》としてのアートマンを否定したのではなかったか? ☆ゴータマ・ブッダは、輪廻の主体の存在を否定していません。ただ、「その輪廻の主体がバラモン教などで説かれている《アートマン》とは違う」と言っただけです。大乗・小乗仏教を含めて、輪廻の主体の存在は否定していません。 輪廻からの解脱は、「神の世界を含める現象界に再生しない」という意味です。 解脱後、輪廻の主体が《非経験(?)・非思考の庭》である涅槃界や法界に溶け込もうが、あるいは、きれいさっぱり消え去ろうが、ゴータマ・ブッダにとって、それは瑣末のできごと。 ○けれども 《一つの劫のあいだでも留まるであろう》と言っている。 ☆問題は、ゴータマ・ブッダの表現をどう解釈するかですよね。 仏教の考え方によると、この世に再生した瞬間(たぶん、死んだ瞬間に...)に、既に寿命の上限が決まっています。 (決まっているのはあくまで寿命の上限です。自らの行為によって、寿命を縮めることは可能です) 寿命を感じる異熟業力が尽きてしまうと、神であろうが死んでしまう。 寿命を感じる異熟業力は、過去の行為によって決まっているので、ゴータマ・ブッダといえども、これを変える超能力はもっていないはずなんですが.... 悟りを得たゴータマ・ブッダは例外??? 横道に逸れてしまいました。 実在したゴータマ・ブッダが《一つの劫のあいだでも留まるであろう》と言ったとは考えられず、 おそらく、後世の仏伝作家の創作でしょう。 仏教徒の《ゴータマ・ブッダに会いたい》という切なる願いでしょう。 あるいは、のちの時代につながる《永遠のブッダ》や《法身思想》の萌芽とみるべきか。 《ブッダの教え》は永遠不滅であるという信仰信条の表明ではないでしょうか。 ☆☆☆ 【Q‐5】 《島》を 灯明として解される説を採らないにせよ ここで《たよりとする自ら》とは 《アートマン》とは別なのであろうか? 《無我(アン‐ アートマン)》を説いているのだから その区別を明らかにすべきではないか? ☆《島》あるいは《自灯明》は、現象界にいて現在修行をしている《わたし》という意味なのでしょう。 輪廻の主体である真の《アートマン(=梵)》と考える必要はないと思います。 その都度、その都度、《わたし》という現存在がそれまでになした自身の経験や修行成果に基づいて考え、行動せよ、でいいじゃないでしょうか。 ☆☆☆ 【Q‐6】 けれども 《自灯明・法灯明》説にもとづいて問うとすれば 《自らを頼りとし 〈灯明〉とする》ことは その《わたし》なる自己をただそのときその場での《明かり あるいは 光》とするだけではないのか? ☆だと思います。それでいいのではないでしょうか。 ○ ゆえに 問題は 《みづからの心の燈心を灯す》ことなのではないか? そうでなければ《自己のチカラ》は かなり発揮され得るであろうが やはり程度問題であるにとどまる。こういう主題ないし問題意識が 欠けているのではあるまいか?  ☆ゴータマ・ブッダの説いた《四無量心(慈悲喜捨)》で説明できるんじゃないでしょうか。 慈:他人に楽を与える。 悲:他人の苦しみを取り除く。 喜:他人の喜びをともに喜ぶ。 捨:苦楽、悲喜を超越し、心の平安を保つ。 これは、《悟り》の前に修行(禅定・ヨーガ)によって獲得すべき徳目です。 そして、この《四無量心》がなければ、悟りに至ることはできない。 なので、問題意識は欠如していなかったと思います。 ○みづからが 泉のごとく水の湧き出るチカラとなるのが ブッダなのではないか? ☆わたしは、「ブッダとはそのような超越的存在ではない」と考えます。また、そのように考えるべきでもない。 《客塵煩悩 自性清浄心》《煩悩はお客さん。だから、心はキラキラ輝けるんだよ》という言葉だけで十分だと思います。 あるかどうか、その実在が確かめられない《超越的存在の仏陀》や《梵・我》に頼る必要はない。 《如来蔵》や《仏性》という形而上的存在すら必要ない。 《客塵煩悩 自性清浄心》の確信と信念だけで十分だと考えます。 《煩悩を取り除く》という修行の重要性と、悟りの根拠がこの言葉ですべて説明されていますから。 そして、《客塵煩悩 自性清浄心》は、 他人に何か優しいことをした時に、「俺ってこんなにいいところがあったんだ」という日常的で些細な事実からでも感じられると思います。 その活動の本源である《自性清浄心》(と言っても、あくまで今ある《人間の心》です)をブッダと呼ぶことができるのなら、 それが《泉の如く水の湧き出るチカラであるブッダ》ということではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ☆ アーナンダを咎めるというよりも、「永遠に近い長い時間、生きられたのに、アーナンダ、おまえのせいで俺の寿命が縮まった」みたいな恨み節に近いことを言っています。  ★ もしこうでしたら 【Q‐1】のほうで 次のようにおっしゃっているのは どうしてでしょう?  ☆ ~~~~  悪魔に取り憑かれる心のスキがあったわけですから、アーナンダが悪いです。  しかし、これは、アーナンダが結果的にゴータマ・ブッダの寿命を縮めたからではありません。  悪魔に取り憑かれる心のスキがアーナンダにあったから、それが悪いということです。  ~~~~~~          *  ☆ ~~~~  個人的な見解ですが、  〔人生の四苦説は〕《取り消した》  のでしょう。  ☆ ~~~~~  たぶん、仏教でいう《軽安(きょうあん)》という境地なのでしょう。《身も心も軽やか》!!  ...  なのですが、これは、悟りを得た時に成立することであって、  迷いの段階では《人生の四苦説》は成立します。  一種の二階建て理論と言ったところではないでしょうか。  ~~~~~~~~~  ★ 一点のみ物言いがあります。  もしそういうことでしたら 《二階建て理論》では済まないのではないか? です。  つまり  ○ 客塵煩悩 自性清浄心  を基礎として   ○○(趣旨説明欄) 楽が地であって 苦は図であるのだと。逆ではないのだと  と修正すべきだと考えられます。      *  ☆ ゴータマ・ブッダは、輪廻の主体の存在を否定していません。ただ、「その輪廻の主体がバラモン教などで説かれている《アートマン》とは違う」と言っただけです。  ★ いえ そういう問題ではないと思います。  輪廻があるとするなら その何らかのかたちで主体はいるはずです。ですから そういう問題ではないはずです。  【Q‐4】 輪廻からの解脱 つまり二度と再生しないことが ブッダのあり方ではなかったか? けれども 《一つの劫のあいだでも留まるであろう》と言っている。  では 《再生する》のですか? それとも 再生することはないが 生き続けるということなのでしょうか?  ☆ 輪廻からの解脱は、「神の世界を含める現象界に再生しない」という意味です。  ★ とすれば 《ひとつの劫のあいだでも生き続ける》という意味になるようです。けれども これは おとぎ話ですよね? むろん 《法身》としてなら そのとおりだという想定になるはずですが。    あぁ ええ。ちょうどそのことを次に説明されていました。  ☆ ~~~~  おそらく、後世の仏伝作家の創作でしょう。  仏教徒の《ゴータマ・ブッダに会いたい》という切なる願いでしょう。  あるいは、のちの時代につながる《永遠のブッダ》や《法身思想》の萌芽とみるべきか。  《ブッダの教え》は永遠不滅であるという信仰信条の表明ではないでしょうか。   ~~~~~  ★ 若干の違和感は こうです。  つまり 文章だけから読み取ろうとするなら ブッダは寿命を延ばすことも縮めることも出来る。ところが アーナンダが心に悪魔を取り憑かせたので 縮めることになった。こう言っているように聞こえます。  でも おとぎ話としての脚色であるに過ぎない。こう理解します。     *  ☆ その都度、その都度、《わたし》という現存在がそれまでになした自身の経験や修行成果に基づいて考え、行動せよ、でいいじゃないでしょうか。  ★ これも 違和感という程度の疑問ですが それならわざわざ《自己を頼りにする》という表現を使うのは おかしい。と考えられませんか?  《自分で考えて行動せよ》と言うのと《自己を頼りにせよ》と言うのとでは 意味が違って来ます。前者の場合には しかるべき事情や人間関係があるなら 《他人を頼りにする》ことだってあり得ます。ですから 概念が違って来ましょう。  たとえ《アートマン》そのものではなくても 《自己をたよりにすべし》というのは アートマンをそなえる《わたし》を根拠とせよと言っていませんか?  そして むしろ 梵我一如としてのアートマンであるなら その仏性(如来蔵)とも言うべきアートマンに頼るということのほうが ふつうであり妥当だと考えられます。それは 非思考においてですが。     *  《みづからの心の燈心を灯す》という問題は 《自灯明》においてではなく   ☆ ~~~~  ゴータマ・ブッダの説いた《四無量心(慈悲喜捨)》で説明できるんじゃないでしょうか。  慈:他人に楽を与える。  悲:他人の苦しみを取り除く。  ・・・  ~~~~~  ★ だとしますと 《自灯明》は ただの《元気を出せ》とか《しっかりせよ》というときの踏ん張りや頑張りのことを言っているのみ。となりませんか? それでよいということでしょうか?      *  同じ第二章に 次のような文章がつづいています。  ▲(自灯明) ~~~~   アーナンダよ。今でも またわたしの死後にでも 誰でも自らを島とし 自らをたよりとし 他人をたよりとせず 法を島とし 法をよりどころとし 他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば かれらはわが修行僧として最高の境地にあるであろう。  (中村訳同書 第二章 九 旅に病む 二六)  ~~~~~~~~~~~  ★ すなわち 《最高の境地にある》と言っています。でしたら とうぜん《四無量心(慈悲喜捨)》を含むと考えられます。矛盾しませんか?     *  すなわち  ☆ ~~~~   ○ みづからが 泉のごとく水の湧き出るチカラとなるのが ブッダなのではないか?   ☆ わたしは、「ブッダとはそのような超越的存在ではない」と考えます。また、そのように考えるべきでもない。  ~~~~~~  ★ ということでしたら 問題意識に欠けていると思われますし じつはわたしは《慈悲心 つまりその内の特に 無縁慈悲》は 非経験のことがらだと捉えています。つまり《慈悲》にあっては 問題意識もあれば それとしての答えも用意されているとは思います。でも この涅槃経においては・という意味は 《自灯明》という思想においては 問題意識が浅い。ということになりませんか?       *  ただし 《慈悲》については 衆生縁の慈悲と法縁の慈悲とは おそらく人間の持てる能力で発揮し得ましょうが 無縁慈悲は 人為を超えていて わづかにヒラメキによるか奇蹟としてのごとく現われるものではないかと考えます。  【Q:慈悲は 人間にとって行為しうる経験現実か?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5764972.html     *  ですから 整理しますと  ☆ 「ブッダとはそのような超越的存在ではない」  ★ でもいいわけです。そしてそのときには 人間の行ない得る経験現実とそうではなく それを超えたところに想定されるユメ・マボロシとしてのそれでも大きく《非思考》なる現実とに分けて捉えることが大事である。と見ます。  後者の非思考なる現実として 大乗仏教が 《法縁慈悲》を立てたのは 正解だと見ます。    *  ☆  ~~~~  (あ) 《客塵煩悩 自性清浄心》の確信と信念だけで十分だと考えます。  (い) 《煩悩を取り除く》という修行の重要性と、悟りの根拠がこの言葉ですべて説明されていますから。  ~~~~~~  ★ (あ)の《確信と信念》を 《非思考なる大きくは現実》ととれば 同じことだと見ます。   ただし それは ヒラメキや奇蹟の次元のことですから (い)の  ☆ 《煩悩を取り除く》という修行  ★ としては 見ません。修行を超えて(つまり 超えてというのは 修行をしてもいいわけです ですがそれをも超えて)はたらくナゾのチカラという意味で 無縁慈悲ないし《わが心の燈心をともすこと》を捉えます。つまり 非思考の庭におさまるしろものです。ばけもののごとく。     *  念のためですが  ☆ ~~~~  そして、《客塵煩悩 自性清浄心》は、  他人に何か優しいことをした時に、「俺ってこんなにいいところがあったんだ」という日常的で些細な事実からでも感じられると思います。  ~~~~~~   ★ これが 衆生縁の慈悲もしくは法縁の慈悲だと見ます。法縁と言っていますが これは 仏法ではなくても 一般の思想としても・あるいは世間の知恵としても 実践しうると思います。     *  ☆ ~~~~  その活動の本源である《自性清浄心》(と言っても、あくまで今ある《人間の心》です)をブッダと呼ぶことができるのなら、  それが《泉の如く水の湧き出るチカラであるブッダ》ということではないでしょうか。  ~~~~~~  ★ 微妙に違うと見ます。  ですがもし 如来蔵ないし仏性ないしブッダのチカラを そのように《汲めども尽きない水の湧き出る泉(ないし 灯された燈心そのもの)》だと想定し その定義に従うのでしたら そうだと思います。  わが心においてその燈心に火がともされたその状態 ないし 水の湧き出る泉である状態であるとすれば それでよいと考えます。  微妙に違うと最初思ったのは 《自性清浄心》は 《非思考の庭》が成り動き出すことを含みますが その《活動の本源》は じつは 人間にはなく ナゾの何ものかに拠っている(つまり 無根拠によっている)という但し書きを添えたい気持ちからでした。  そのあたりはまさに微妙です。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄を訂正します。  ☆ ~~~~  悪魔に取り憑かれる心のスキがあったわけですから、アーナンダが悪いです。  しかし、これは、アーナンダが結果的にゴータマ・ブッダの寿命を縮めたからではありません。  悪魔に取り憑かれる心のスキがアーナンダにあったから、それが悪いということです。  ~~~~~~  ★ この箇所を勘違いしていました。  ☆ アーナンダが結果的にゴータマ・ブッダの寿命を縮めた  ★ というのは 事実だという見方なのですね。  ということは 次のように問うべきでした。  《結果的に》ということは アーナンダが意図してそうしたわけではない。そうではないが 結果として 《ブッダの寿命を縮める》こととなった。というわけだとあらためて捉えました。ということで  ☆ ~~~~  アーナンダを咎めるというよりも、「永遠に近い長い時間、生きられたのに、アーナンダ、おまえのせいで俺の寿命が縮まった」みたいな恨み節に近いことを言っています。  ここに見られるゴータマ・ブッダの姿は、結構、見苦しいです。  恨み節のような繰り言は必要なかった、と言ったところでしょうか。  しかし、わたしは、歴史上存在したゴータマ・ブッダを超越的存在としてとらないので、かえって、この言葉に強い親近感を覚えます。  《お釈迦様もやっぱ人間だ!!》と。  ~~~~~~  ★ ということは 次のように問うべきでした。  【Q‐2a 】 鍛冶工チュンダが食べさせた毒キノコ(または 豚肉)によって体調をくづしたことについては ブッダは チュンダをかばっている。咎めていないし 恨み節も言っていない。つまり このチュンダの事件は 事件そのものを予見したのではないが アーナンダの悪魔憑きによって 寿命が縮められたからには チュンダか誰かの食事に当たるといったことは 想定され得たから もう咎めもしない。  ――このような意味なのでしょうか?

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回答No.1

彼が自らの信仰のみには強固な確信を抱いていたとしてだ。 取りすがる者どもがその信仰に矛盾する事を言って支離滅裂な答えを返したとしてもいいじゃあないか。 問いの答えは「無」のみであると言う信条に、それでも何か言ってくださいと取りすがる痴漢が、間違った事を教えられても仕方ないじゃないか。 経典に残っている言葉には、多分彼が機嫌がいい時の割と為になる言い回しと、とりすがりに苦労した苦々しい言い回しがあるのだと思うよ。 哲学者か何かだったと考えれば論理に何か不備があったとしても問題ない。 しかし信仰を語り継ぐ者どもに不備が合ったゆえ、間違いが語り継がれているかもしれない。 それはあるだろう。 無の悟りは、有無を分ける明白な分別をもたらし、信仰による心の通う言葉と、どうでもいいゴミを見分ける事ができる。 ゴミは捨てればいいよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ふたつ問題点がありましょう。  ひとつは ブッダの信仰は 《信じないと信じる》信仰だということです。つまり 無神論としての信仰です。  ですから じつは基本的に言って  ★ 信仰による心の通う言葉と、どうでもいいゴミを見分ける事ができる。  ☆ とはわたしは見ません。   いわばすべてが 《ゴミ》にかかわる議論だと言うべきでしょう。  もうひとつは たぶんご回答の内容はこういうことであろうと まづその理解を示しますが 《いわゆる対機説法であるやり取り》の部分と《割り合いそうではなく 基本的な理論としうる説法》の部分とがあって この質問に取り上げているくだりは ずべてが《対機説法》である。したがって 文脈をしっかりとつかんだ上で議論をしなければいけないのだと。    たぶん そうではないでしょう。  § 1は 《悪い結果を他人の所為にするかどうか》であり ブッダはそうではなく《ひとに対して気遣うことをしている場合が見られる。しかるに アーナンダには 間接的なかたちで どうもそうではないようだ》という趣旨です。なぜそうなのか? という問いですから比較的に文脈にかかわらず 問題にしうると考えます。  § 2は 人生が苦から出発するのか それとも 楽(もしくは 非苦)からか? こういうやはり基本的な理論のもんだいです。  § 3は これもやはり 無我説がつらぬかれているのか。それとも 自灯明の場合には その《われ》に頼ることをするのか? こういう問題ですから 文脈は関係ないと見られるのですが どうでしょう?

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     次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう問いです。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いです。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?  (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

  • ブッダは ブラフマンの掌で暴れまわった孫悟空では?

     ブッダの独自性は何でしょう?  そのむかしアブラハムという人に《信じる》という非思考の場が芽生えました。  神とわたしとの関係がその信じるままであるならば――という意味は 非思考のはたらきとして記憶能力において精神および身体の秩序がととのっているならばということですが そうであるならば―― とうぜんのごとくひとはやわらがしめられている。こころはやすらかである。ひとと仲良くやっていく。  と知りました。  このことは 古代インドでは神をブラフマン(梵)と呼び《わたし》をアートマン(我)と捉えて その両者の一体(つまり 梵我一如)という思想に表わしました。  あるいは同じく神を プラトンでしたかは 世界霊魂(プシュケー・コスムー)と呼びました。ローマ人たちは アニマ・ムンディと訳し換えて使っています。その後ドイツ人らは 同じくヱ゛ルト・ゼーレと言ったりしていました。  ところで ゴータマ・ブッダは 天の邪鬼よろしく 無我(アン‐アートマン)の説を唱えました。(諸法無我)。ほかのものに依存せずみづから成ってあるという存在を――つまり ブラフマニズム(バラモン教)の宇宙霊であるブラフマンのことを言っているのですが これを―― そんなものは無いと言いました。(もしくは 有るとも無いとも言わないと説明しました)。  ですから いわゆる仏性は――あたかも 宇宙霊のブラフマンが 《わたし》としてのアートマンに宿るというそのようなものとわれわれは捉えていると思うのですが その仏性は―― ブッダは説いていません。あくまで後世になって説かれたものです。   ただしそのブッダも あたかもみづからが宇宙霊となって 自分はブッダとして永遠に生き続けており 自由自在に好きなように歴史に即して人間となって現われるのだというようなことを言ったとされています。つまりそのように後世の人びとは 捉えるようになっています。  乱暴にひと言で言ってしまうなら ブッダは ブラフマニズムという思想の中で孫悟空のように飛び回り暴れまわっていたということではないでしょうか。  《成道》を得たブッダに おまえの悟りを人びとに伝えたまえとブラフマンが勧めた(梵天勧請)と自分(ブッダ)では言っていますが 果たして どれだけの独自性があったでしょうか?  (ないと思って言っているわけではないのですが 批判にまわりたいと思っていますし そのことに道理はあると考えています)。  もし仏性という普遍性の定理は別として言えば もはやブディズムは惰性としての仏教しかないのではないでしょうか? 橋から落ちた犬に引導を渡すのは 哲学の役目だと考えます。

  • われわれは各々が ブッダであると何故言わないか

     あらためて問います。  資料を検討しつつ 表題の問いに 最終的に行き着きます。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 2 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 1 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いのかたちで考えてまいります。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(霊我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《有る神》と呼んでもまた《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りているナゾの何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら――ただの程度問題なのだから――余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それも中途半端に触れたりするのではなく すでに初めに大前提としてそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) しかもおそらくは 《非思考の庭》にあって そういう前提ないし想定の理論が成り立っているのであろうか。 つまり そのようなナゾとそしてナゾではなく認識しうる経験世界との――ヒラメキなどをとおしての――切り結びの問題か?  (9) ブッダということは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか?)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないのか? なぜゴータマの代化城なるマボロシから卒業しないのか?

  • スッタニパータのゴータマ批判

     コーヒーブレイクになりますが 二件取り上げて論じ その是非を問います。  ▼ (スッタニパータ・中村 元訳) ~~~~~~    http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  【 第一 蛇の章 】        <1、蛇>  1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。  2 池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。  ・・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 勝手に捨て去ってくださいと言いたくなります。  (2) ほとんどすべては 先行していたブラフマニズムのオシエに対抗し――中で身分制に反対したことは 見上げたことですが――これを否定して 言わば駄々をこねた。に過ぎない。  (3) 主宰神ブラフマンあるいはその神の霊が ひとに生まれながらにそなわっているというその霊我なるアートマン これを否定しました。  いわく。アン-アートマン(無我・非我)と。  (4) ブラフマニズムの内容をアン‐インストールしようとしたわけです。  (5) 《この世》を望まず 《捨て去る》というのは 周知のように出家するというかたちです。自死をえらぶというわけではないようです。そのかわり 生活の糧は ほかの人びとの慈悲にすがっているということになっています。はたらくということをも捨て去ったわけです。  (6) 《かの世》を捨て去るというのは まづ例の身分制によって人びとの生活は その生まれの違いだけで よい暮らしが出来たりもすれば 悲惨な生活を送るしかない場合もあったりして そのように《思うようにならない》という《苦》を人生の前提に ゴータマ氏は 置いたようです。  (7) その結果として この《苦》から《解脱》することを 求めるべき・かつ実現すべき目標としたようで その意味は端的に言って もう低い身分の親の元には生まれて来ないという意味で《かの世を捨て去る》と表現したもののようです。   (8) すなわちこの世の《苦》からの解脱を得たあかつきには 悲惨な暮らしを余儀なくされる低い身分にはもう生まれて来ない。なぜなら われはこの世も かの世も ともに捨て去るのだからと。  (9) ものは言いよう。なのでしょうね。そもそも 輪廻転生などということは 遺伝子が同じ存在が過去にいたということがあり得ないからには ただのまやかしです。文学としての言葉のアヤであり そういうおとぎ話です。  (10) そう言えばいいものを わざわざ徹底していやな人生を送らねばならない身分を嫌って もうおれは 輪廻転生することはない。生命のともしびが 風に吹き消されるかのように――この世も かの世も ともに捨て去ることによって―― 消えてゆくのだ。つまり ニルワーナに到るのだ。と屋上屋を重ねるようにして 説教したようです。  (11) そりゃあ 何でも言えるわけです。ブラフマニズムのほうだってそうですが ゴータマ氏にしたって 生まれる前や死のあとのことなど 誰も知りませんから うまいことを言うのは言ったもん勝ちであるようなのです。  (12) その証拠に この《この世も かの世も ともに捨て去る》といった言い回しをも ひとつの命題として捉え ああだこうだと いまだに《学問も研究も一般市民の探究も》絶えることがありません。  (13) いったい世の中 どうなってるんでしょう?         *  ▼ (スッタニパータ 839 ) ~~~~~~~~  師は答えた、   「マーガンディヤよ。  【A】~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。   『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【B】  それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (14) これを批判しますが すなわち 次のように相い矛盾する発言をならべてみれば済むと考えます。  【A】 『教義によって・・・清らかになることができる』とは、私は説かない。  【B】 それ(教義)を捨て去って、・・・こだわることなく、・・・迷いの生存を願ってはならぬ。〔* という教義によって〕(これが内心の平安である。)〔* と説いた〕  (15) もしこの【B】が 《教義や道徳》ではないと言い張って来た場合には 次のように応答しましょう。  【A】 『教義がなくても、・・・清らかになることができる』とも説かない。  【B】 それ(教義)を捨て去って、・・・こだわることなく、・・・迷いの生存を願ってはならぬ。〔* というふうに教義ではない発言によって〕(これが内心の平安である。)〔* と説いた〕  (16) 《清らかになる》ことと《内心の平安という状態を得る》こととは別だと言って来た場合には・・・。

  • ブッダの性愛観は 間違っていませんか?

      ひとまとまりとなった次の発言をめぐって問います。  ▲ (スッタニパータ§§814-823) ~~~~~~~~~~~~  814  長老ティッサ・メッテーヤがいった、   ──きみよ。性の交わりに耽る者の破滅を話してください。あなたの    教えを聞いて、われらも遠ざかることを学びましょう。  815  師(ブッダ)は答えた、   ――メッテーヤよ、性の交わりに耽る者は教えを失い、邪まである。    これはかれのうちにある卑しいことがらである。  816  かっては独りで暮していたのに、のちに性の交わりに耽る人は、    車が道からはずれたようなものである。世の人々はかれを卑しい凡夫    と呼ぶ。  817  かってかれのもっていた名誉と名声とはすべて失われる。このこと    を見て、性の交わりを断つことを学べ。  818  かれは諸々の(欲の)想いに囚われて、貧困者のように考えこむ。    このような人は、他人のとどろく名声を聞いて恥ぢいってしまう。  819  そうして他人に詰(なじ)られたときには刃(悪行)をつくり、    虚言に陥る。これがかれの大きな難所である。  820  独身をまもっていたときには一般に智者と認められていた人が、    ついで性の交わりに耽ったために、愚者のように悩まされている。  821  聖者はこの世で前後にこの患難のあることを知り、堅く独身をま    もり、性の交わりに耽ってはならない。  822  (俗事から)離れることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のこ    とがらである。(しかし)これだけで自分が最上の者だと考えてはなら    ない。かれは安らぎに近づいているだけなのである。  823  聖者は諸々の欲望を顧みることなく、それを離れて行い、流れを    渡りおわっているので、諸々の欲望に束縛された生ける者どもはかれ    を羨むのである。  と。  (中村元訳:ブッダのことば――スッタニパータ―― 第四 八つの詩句の章 七 ティッサ・メッテーヤ )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  疑問点です。  1. 説くべき理論は 一般の人間関係についてであり 両性のニ角関係については その特定の対(つい)関係に入るときの対話(口説き)のあり方までである。  つまりその中身をまづ別にしてそれでも 要らぬことをブッダはここでしゃべっているのではありませんか?  2. 断り書きです。ブッダの性愛観はその中身も間違っているように考えます。ただしそれは (1)の考えによれば 無記とすることが正解だと見ます。  つまり 回答の中で触れてもらってもかまいませんが そしてそれなりに応答するつもりでいますが そこに焦点を当てようとは思っていません。

  • ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう

     ▼ (ヰキぺ:釈迦) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6  § 3 生涯  § 3.3 成道  そこで(* 難行苦行を要らぬこととして捨てたあと) 釈迦は、全く新たな独自の道を歩むこととする。  ナイランジャナー(nairaJjanaa、尼連禅河、にれんぜんが)で沐浴し、村娘スジャータの乳糜(牛乳で作ったかゆ)の布施を受け、気力の回復を図って、ガヤー村のピッパラ (pippala) の樹(後に菩提樹と言われる)の下で、「今、証りを得られなければ生きてこの座をたたない」という固い決意で観想に入った。  すると、釈迦の心を乱そうと悪魔たちが妨害に現れる。壮絶な戦闘が丸1日続いた末、釈迦はこれを退け大悟する。これを「成道」という。・・・  7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起・十二因縁を悟った。  8日目に尼抱盧陀樹(ニグローダじゅ)の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹(ラージャヤタナじゅ)の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わった。  22日目になり再び尼抱盧陀樹の下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかをその後28日間にわたって考えた。  その結果、「この法(悟りの内容)を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうし、了ることはできないだろう。語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。  ところが梵天が現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われた(梵天勧請)。3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた5人の仲間に説こうと座を立った。釈迦は彼らの住むヴァーラーナシー (vaaraaNsii) まで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  さて 《さとり》の中身は 何でしょう? おしえてください。    つまり 中身はありますか? という問いです。  つまり 何もないのではないか? 何もないのに ただ《目覚めた(ブッダ)》と言ってみただけなのではないか?  つまり 人びとはこれを真に受けて それはとうといものだと 何の根拠もなしに・また根拠がないからこそ 受け留め あたかも正負の正の意味でのいけにえの小羊としてのように受け容れるようになっている。だけなのではないか? これが問いです。   つまり 《さとり》の中身は 何でしょう?  なければ 世界史上まれにみるペテン師であったと考えられます。  集団催眠のごとくであり それは 人びとも自分たちのほうから積極的に(?)その催眠事業に参加して行っている。と分析すべきでしょうか。    自分に対してマインドコントロールをおこなうことは 自由なのでしょうが それによって ものごとを見るふつうの目が曇らされているなら 哲学の問題になります。  たとえば 上に引用したくだりについてなら なぜゴータマは梵天勧請を受け容れたかの理由がさだかではありません。そういう子供だましの話に人びとが乗って行ってしまっていることは 理性も感性もダメにされている証拠だと考えられるからです。――これは 社会公共にとっての問題です。  すなわち人びとは ゴータマ・ペテン宗教によって骨抜きにされ 二千年以上にわたってみづからすすんで たましいまでもふにゃふにゃに成ってしまった。のではないか?

  • ブッダの美女マーガンディヤー事件

     いま得られている資料をかかげます。ご見解をおしえてください。  ▲ 【資料1:求愛をことわる】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・マーガンディヤーの父親が、たまたま釈迦に会い、その説法を聴聞すると父親は釈迦にほれ込んで、この男になら娘を嫁にやってもよいと思う。父親は釈迦に還俗して、婿入りすることをしきりにすすめる。  ある日、釈迦はマーガンディヤーの両親の家を訪問し、両親と娘の3人にむかって説法をはじめた。娘のマーガンディヤーには直接せずに、両親に説法をするのである。内容は次のようであった。    「われは〔昔、悟りを開く直前〕、渇愛と嫌悪と愛欲〔といった3人   の魔女〕を見ても、彼女らと交わりたいという欲望さえ起きなかった。   大小便の詰め込まれたこの女が、そもそも何になるというのだ。われは   この女の足にさえ触れようとは思わぬ」      (『スッタニパータ835』)  「大小便の詰め込まれた女」とは、ほかならぬマーガンディヤーのことである。  釈迦の真意は、娘を溺愛し、盲愛し、執着しすぎている両親をその苦から救うことにあった。いずれ死別はくる。両親が先か、万が一娘が先か、それはわからぬが。であるならば、娘に執着せずに手離しなさいとうのが釈迦の深い諭しである。この説法で両親は真意を悟り、出家を決意する。  しかし、救われないのは娘のマーガンディヤーである。目の前で「大小便の詰め込まれた女」と言われれば、傷つき「許せない」と思ったであろうことは容易に想像がつく。そして彼女は当然、釈迦を憎んだ。  その後、マーガンディヤーはコーサンビー国(* コーサンビーはヴァンサ国の都)の王と結婚し、王妃となる。釈迦がコーサンビ-国に布教に来たとき、彼女は屈辱的な過去を思い出すのである。そこで、釈迦に復讐するために、人々を扇動し、王妃の命令によって托鉢に歩く釈迦に石を投げさせ、罵詈讒謗を浴びせたのである。  このように誤解ゆえの迫害は、釈迦にもあったのである。  (『徒然草2001 法則編』     http://www.melma.com/backnumber_31267_1625651/ )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆【資料2:その後の悲劇】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  瀬戸内寂聴『釈迦と女とこの世の苦』によると。マーガンディヤーが ヴァンサ国王の第三夫人となったあと すでにブッダに帰依していた第二夫人のサーマーワ゛ティーに敵愾心を燃やす。しかも その遠因には かつてブッダに冷たくあしらわれたという過去があずかった。とうとう サーマーワ゛ティーの館を全部 火を放って焼き尽くし 中の侍女たちもろともを焼き殺したと言う。  《このサーマーワ゛ティーのむごたらしい最期は とてもショック無しでは聞けないし うなづけない。世の中は 必ずしもいい人がいい死に恵まれるとは限らないし 悪業を犯した人間が案外この世で栄えていたりするものだ。そういう人の世の不条理を 私たちはどう受けとめたらいいのか》というのは 寂聴の記すところ。  僧たちも ブッダに問うたところ ブッダの答えはこうだったとやはり寂聴が伝える。    僧たちよ 今度の事件で動揺した心を静めよ。この世でたとえいくら   生きても 放逸でわがまま勝手で 道を需(もと)めない人間は すで   に死んでいるのと同じで 生きていても価値がない。それにくらべ い   つでも熱心に道を需め 正しいことをしようと願い 慈悲の心の燃えて   いる者には 永遠の命がさづけられている。現実に肉体の死はあっても   魂の死はない。マーガンディヤーたちは 生きながら死んだも同然で   何の生命もなかった。サーマーワ゛ティーは どんな死に方をしても   永遠に生きつづける。彼女たちは死の瞬間に精神を統一し 祈ったから   すでに聖者の位を得て死を迎えている。    (寂聴:前掲書《第7章 悪女 聖女を焼き殺す》 p.158)  さらに結語として。    人間とはそういう残酷なことの出来るものだということを 今の私は   考える。善業の報い 悪業の報いというのも この世という短い時間で    はかってはならないのだろう。     (同上 p.159)  わたし(=質問者)の考えですが ブッダあやまてり ではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ◆ 【資料3:ブッダに好意的な議論】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【とびらの言葉】その第3回です。  http://www5a.biglobe.ne.jp/~houon/tobira-bk01.htm  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • ブディズムは ブッダターの提示と親鸞のみだ

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第七章 ブディズムの効用は おそらく親鸞のしめした《信》の理論のみ  1. まづ ほかに ブッダター(仏性)の――非思考の庭にとっての――理論があります。けれどもブッダターがすべての人にやどるというこの想定は すでにブラフマニズムが 《アートマン(霊我)》として打ち出している。  2. あと 《空》観がよく引き合いに出される。けれどもこれは けっきょく相対と絶対との――有限と無限との――区別を言ったまで。ひとは 時間的存在だ――時空間としての世界‐内‐存在である――と明らかにしたまでである。  3. それらのメリットは 親鸞の《非知――非思考の庭――》としての《信》の理論におさめられて行く。  ○ 親鸞: 義無きをもって義とす。:非知としてのアミターバ・ブッダ      【Q:親鸞の《義なきを義とす》は 神の依怙贔屓か?】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7894579.html  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場⇒非思考の庭)  ~~~~~   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰   ________________________   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)   ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  4. 非知なる非経験の場は ブラフマニズムにおける神ブラフマンなどのように 全体に対応するひとつの神としておおよそどの民族にあっても持たれている。  A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモ。霊我  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如    無梵:空・シューナター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  C. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》  F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  4-1. つまり ゴータマ氏は ブラフマニズムの非思考の庭のあり方を踏襲し その霊なる神の名前を裏返したのみである。だから 後世の人たちは ブッダターを立てた。これは アートマンのことである。  ☆ 不要およびマチガイを削り 加えるべき認識を加えるようにしてご教授ください。全体についての自由なご批判をも歓迎します。

このQ&Aのポイント
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