• ベストアンサー

宮坂哲文著 「集団主義教育の現代的課題」について

 お世話になっております。  宮坂哲文著 「集団主義教育の現代的課題」の文献を探しております。  雑誌『生活指導』30号に掲載されているという情報を得ましたが、 実際に確認してみましたところ、掲載されておりませんでした。  1965年に亡くなられたそうなので、それ以前の文献だと思うのですが 著書すべての目次を見ることもできず、時間がかかっています。  調べ方などご存知の方は、教えてください。  よろしくお願いいたします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.1

宮坂哲文著作集(全三巻) 明治図書出版 出版年:1968.9 こちらはすでにご覧になっていらっしゃいますか? 第1巻 日本における生活指導の系譜 学校における生活指導 生活指導の本質 ホームルームの指導原理 生活指導と道徳教育 教育科学入門 宮坂哲文略年譜 宮坂哲文著作目録 第2巻 近代教育方法学と生活指導, 近代日本における生活指導概念の形成過程, 生活綴方教育における集団の問題, 生活指導の本質, 集団主義と生活綴方, 集団づくりの探究, 集団づくりと道徳教育, 教科指導と生活指導, 授業と集団, 生活指導運動 第3巻 特別教育活動の基本問題, 戦後日本における特別教育活動, 生徒会指導の基本問題, 学校運営への生徒参加, 学校集会論, クラブ活動論, 学級経営論, 日本近代学校における課外活動の発達, 日本における学級経営の歴史, アメリカ中等学校における課外活動の発達 う~ん、第1巻の「著作目録」で確認するしかなさそうですね。 すでに絶版ですので、お近くの図書館か、図書館の相互利用でどうぞ。

angolic
質問者

お礼

 ご回答いただき、ありがとうございました。 宮坂哲文著作集第1巻の著作目録を取寄せてみましたところ、 該当する文献は掲載されておりませんでした。    恐らく、情報源が間違っていたのだろうと思います。  どうもありがとうございました。

関連するQ&A

  • 《日本人は集団主義的》という通説は誤り!?

     次のような研究成果が明らかにされています。  明証にもとづくご見解・ご議論をさらに広い視野から得られればさいわいに思います。  ▲ 「日本人は集団主義的」という通説は誤り   http://www.u-tokyo.ac.jp/public/public01_200930_j.html      ・高野陽太郎:『「集団主義」という錯覚 ― 日本人論の思い違いとその由来』 2008  §1 心理学的研究  「世界で最も個人主義的だ」と言われてきたアメリカ人と、「世界で最も集団主義的だ」と言われてきた日本人を比較した研究を集めた。  ・集団主義・個人主義の程度を測定するための調査研究が11件。  ・自分の意見を曲げて集団の意見に従うという「同調行動」に関する実験研究が(高野自身の研究も含めて)5件。  ・自分の利益を犠牲にしてでも集団に献身するという「協力行動」に関する実験研究が6件。  これら計22件の研究の結果をみると  ・通説に反して、「日本人とアメリカ人とのあいだには明確な差はない」という結果を報告していた研究が16件、  ・通説とは正反対に、「アメリカ人の方が日本人より集団主義的」という結果を報告していた研究が5件もあった。   ・一方、通説どおり「日本人はアメリカ人より集団主義的」という結果を報告していた研究は、わずか1件(調査研究)しかなかった。  § 2 言語学的研究   日本人論は、日本語の特性に注目して、「日本人の自己は、個として確立しておらず、自分が属する内集団と一体化している」と主張してきた。  これに対して、2人の言語学者(筑波大学の廣瀬幸生教授、カリフォルニア大学の長谷川葉子教授)による共同研究は、日本語の特性が「他者とは明確に切り離された自己」の存在を示していることを明らかにした。  たとえば、「私は寒い」という文の中の心理述語「寒い」は、話し手の心理状態を表すために用いられるが、同じ内集団に属する他者の心理状態を表すために用いることはできない。たとえば、「母は寒い」とは言えない。  日本語は、内集団の中でも自己と他者を明確に区別する特性を備えているのである。  §3 教育学的研究   学校での「いじめ」は、「異質なものを排除しようとする集団主義的な日本社会に特有の現象」と評されることが多かった。  ところが、近年の実証的な研究を通覧したところ、アメリカでも「いじめ」は発生しており、発生率も日本より低いとは言えないことが明らかになった。学校での発砲事件も、「いじめ」への報復として起きたケースが多いのではないかと推定されている。  「いじめ」が原因となる自殺も、欧米諸国の多くで報告されている。したがって、日本の学校での「いじめ」は、「日本人の集団主義」の証拠と見なすことはできないことになる。  §4 経済学的研究   経済の分野でも、「日本人は集団主義的だ」と言われてきた。個々の日本人は企業の中で団結し(「日本的経営」論)、企業は「系列」の中で団結し、すべての企業は政府のもとに団結している(「日本株式会社」論)、と言われてきた。   しかし、そうした議論は専らエピソードやイメージに頼っており、実証的なデータが示されることはなかった。全体像をより正確に反映する経済統計や、経済統計にもとづく実証的な研究を調べた結果、経済の分野での「日本人の集団主義」説は事実とはそぐわないことがはっきりした。  ・小池和男の研究は、「日本的経営」論で言われてきた「終身雇用」や「年功賃金」が事実ではない、あるいは、欧米諸国とのあいだに明確な差異がないことを明らかにした。  ・三輪芳朗とマーク・ラムザイヤーの共同研究は、「系列」にはまったく実体がなかったことを明らかにした。  ・「日本株式会社」論についても、三輪とラムザイヤーによる実証研究は、日本政府の「産業政策」が日本の高度経済成長にはほとんど実質的な貢献をしなかったことを示した。  ・また、国内産業を保護するために政府が設定する関税率を比較したところ、歴史的にみると、日本よりアメリカの方がずっと高かったことも判明した。   §5 エピソード   日本人論は、個別のエピソードを主な論拠としてきた。  そこで、エピソードは日本人論の通説を支持しているのかどうかを検討するために、新聞や雑誌に掲載された集団主義・個人主義に関連するエピソードを調べた。その結果、「集団主義的な日本人」という通説に一致するエピソードと同様に、「個人主義的な日本人」や「集団主義的なアメリカ人」を表すエピソードも多数見つかることがわかった。  このことは、エピソードについても、公平に調べてみれば、日米間にはっきりとした違いは見られないことを物語っている。  日本人論において通説に合致したエピソードばかりが取り上げられてきた理由は、自説に合致した事実ばかりに注意が向く「確証バイアス」という思考のバイアスではないかと推定される。  §6 過去の日本人   日本人は、「アメリカによる占領の結果、アメリカナイズされて個人主義的になった」というわけではないことも明らかになった。文献調査の結果、戦前も、開国前も、日本人が個人主義的に行動した事例は数多く見出すことができたのである。  たとえば、生徒が学校側と対決する「学校紛擾(ふんじょう)」と呼ばれる事件。明治初期に西洋式の学制が定まるのとほぼ時を同じくして発生し、ある教育雑誌には、明治期だけでも255件の学校紛擾が報告されている。こうした事件は、「和を尊重するタテ社会的な集団主義」という従来のイメージとは全く相容れないものである。  §7 オリエンタリズムとしての「日本人 = 集団主義」説   欧米人、とくにアメリカ人は、自らを形容するために、ポジティヴな意味で「個人主義」というレッテルを使うことが多い。異文化に属する日本人に出遭ったとき、その「個人主義」の対極にある「集団主義」というネガティヴなレッテルを天下り的に貼りつけたのではないかと推定される。すなわち、「日本人 = 集団主義」説は、オリエンタリズムの一種として成立したと考えることができる。  §8 「日本人 = 集団主義」説が広まった理由   この通説は、戦後間もない時期に出版された、アメリカの人類学者ルース・ベネディクトの著書『菊と刀』によって世間に広まったと言われている。この時期、「日本人は集団主義的だ」という主張に接したひとびとは、戦時中に日本人がとった、見まがいようのない集団主義的な行動を脳裡に甦らせ、この主張に頷いたのであろう。   しかし、歴史的な状況をみると、昭和初期から第二次世界大戦終結までの時期、日本人は強大な外敵の脅威にさらされていた。外部からの脅威に対抗するために、団結を強めて集団主義的に行動しようとする傾向は、日本人にかぎらず、人間集団に見られる一般的な傾向である。「世界で最も個人主義的」と言われてきたアメリカ人もその例外ではない。第二次世界大戦中の言論統制や敵国からの移民の強制収容、冷戦下の赤狩りといった歴史的事実がそれを物語っている。  §9 ステレオタイプ文化論  しかし、ステレオタイプ的な文化論の危険性は、日米間だけにとどまるものではない。グローバル化が進展する現代の世界では、異なる文化が接触する機会は飛躍的に増大している。それとともに、異なる文化(たとえば、欧米文化にとっての「イスラム」)を異質化する文化ステレオタイプの危険性も増大していると考えなければならない。  文化ステレオタイプについて認識を深めることは、現代の世界にとって重要な課題であると思われる。  今回の研究は、集団主義・個人主義の日米比較という具体的な事例の分析を通じて、「文化差」の認識に潜在するさまざまな歪みとその危険性を明らかにする結果になった。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (あ) 家族のように集団としてあることが自然本性そのままのすがたである場合や  (い) 事業をおこなうとき人びとの知恵とチカラをあつめまとめてそのように《集団志向》――言いかえると 《分業かつ同時に協業》なる形態――において行動する場合や  (う) あるいは単純に野球のようにチームプレイをふつうとするならやはり集団志向になる場合が考えられます。果たしてそのとき 個人はそこに埋没してしまうのでしょうか?  (え) あるいは逆に戦時社会にあっては 集団主義をすでに超えて統一的かつ統制的な全体主義となりますが その事例も 別に日本人ひとりの特徴だとは考えられないということもあります。  日本人とその社会が 《集団志向》を持ち得るのとは別に 《集団主義》であると見るのは まったくの偏見ではないだろうか? ご教示ください。

  • 現代イスラム・・・?

    大学の課題で、いわゆる古代イスラムと現代イスラムの違いを挙げよ、とのテーマが出されています。 現代というと、イスラム原理主義なども含まれるのかと思い、文献やネットで調べまわっていますが、どうしても「古代イスラムとの違い」の答えを明確に表すことが出来ません。 また、クルアーンの解釈は古代と現代では違うのでしょうか。(どういう意味で「違う」のかよくわかりません…) これら2つのことに関して、アドバイスまたは参考になる本などありましたら教えてください。 よろしくお願いします。

  • 現代の教育について。どうかお願いします

    いつもお世話になっております。 現代の小学中学高校の教育について、いくつか質問させてください。 初歩的な質問もあり申し訳ありません。 ひとつにでも回答いただければ幸いです。 [1]教育再生会議について   首相の諮問機関だったと記憶しています。   ここでの決定は国の決め事に直通するんですか? [2]中央教育審議会   今日の新聞に中教審の新指導要領の記事が一面に載っていました。   上記の質問と類似しますが、ここの決定は国としての決定ですか?  政治家の集まりではないのですよね? [3]指導要領   誰が決定するのですか?中教審ですか?   法律ではないのですか?守らなくてはいけないものですか?   10年ごとにかわるのですか? [3]ゆとり教育からの転換について 私の意見を聞いてください。 私はゆとり教育の理念には賛成します。 しかしゆとり教育が今否定されているのは、政府のゆとり教育の導入の仕方がまずかったからでは。 まず、週休2日制、授業内容の削減は何のためなのかわかりません。 詰め込み授業よりも、集団で生活する学校でしかできない、理解を深め応用力を養えるようにさまざまなアプローチの仕方での教育をする。 もちろん必要な計算・読解力を養うこともしっかり。 週休2日制を止め、土曜日も授業をする。 文部省は週休2日で地域との時間を、とか書いていましたが、この時世に非現実的。地域との時間を求めるなら学校として機会をつくるべき。 受験の形態も理念にあわせる。 ゆとり導入後も受験勉強が変わらなかったのはおかしい。 大改革をするのは不可能なのですか? ・・書いているうちにわからなくなってきました。。 でも上記の内容を実現するにはいい先生がなによりも必要ですよね。 ゆとり教育の総合学習の時間を有効活用された先生もたくさんいらっしゃいます。 日本中そんな先生を増やすことは事実不可能でしょうか? こんな頭がぐちゃぐちゃになってしまった小娘にどうかご意見をください。 乱文申し訳ございませんでした。 よろしくお願いいたします。

  • 佐藤亜紀著の「ミノタウロス」の書評が雑誌、新聞に掲載されてたか知りたい

    情報集めてます 佐藤亜紀著の「ミノタウロス」雑誌か新聞で書評されてたかご存知ないですか? 掲載されてたのを見かけた方は、掲載されてた雑誌名&刊号又は新聞名&日付教えて下さい。

  • 個人主義について書かれた本を探しています。

    学校の課題のレポートで、個人主義や、集団の中での個人の生き方について、書こうと思っています。そのため参考となる本を探しています。そのレポートの参考文献とする本は、全て1970年以前に、出版されたものでなくてはいけません。夏目漱石の『私の個人主義』を読んだので、後もう1,2冊良い本を探しているのですが、ご存じの方教えてください。

  • この文献のページ(緊急!)

    お世話になります。 臨床心理学体系16『臨床心理学の先駆者たち』金子書房の本の参考文献に載っていたのですが、 空井健三氏の「ロールシャッハ」という論文が『教育心理』という雑誌の25巻12号(1977年)に掲載と出ていました。 ただページ数が書いてありませんでしたので、何ページから何ページに載っているか知りたいのですが、どなたか分かるでしょうか。 また調べる方法はありますか。 よろしくお願いします。

  • 集団主義教育

    やたらと、集団の力は大事だ、協調性は大事だ、友達が多いことはいいことだ、そんな価値観が蔓延しているようです。しかも、時とともにその価値観が普遍性を強化している気がします。 その発信元があるのかないのかわかりませんが、どういう価値観や根拠でもってそういうこ、とを言うのでしょうか? 個人がそれぞれ感じたことを享受しあう、そして、時として反発しあう、と言う姿勢こそ、本当なのではないでしょうか?絶対個々は心から交われるなんてありませんから。そいつを殺して均して人の中に埋没させろ、ということと、現代ますます価値観が高まる集団主義とは遠くないところにある気がします。

  • 実技教科の教育

    こんにちは。 いつもお世話になっています。 日本の学力低下の原因のひとつに、 ゆとり教育が考えられますが、 これは音楽や美術や体育の授業とは無関係なのでしょうか? 最近小4の男の子と話す機会があり、 「算数国語理科社会以外はいらないんだ、音楽や図工や体育は無駄!だからどんどん無駄な時間に勉強だできなくなるー、学力低下の原因だよ。選択にすればいいんだ」と言われて、 反論したいのになぜ実技の科目が必要なのかよく言えなかったことにあります。 ただ、ゆとり教育は促進される方向で現代は動いていますね。 そんななかで勉強しろと考えている人は多くいないんじゃないかと思います。 その後自分なりに考えたのは、感性は個性をつくるものだから、 困難な状況でもそれをのりこえようとする想像力、楽しく乗り越えようとする感性、 人生を明るく生きれるようにするために学ぶのではないでしょうか? 感性の教育って何でしょうか? これを日本の公教育について考えるとするレポートの課題にしたいのですが難しいでしょうか? よろしくお願いします。

  • この文献を見たい

    お世話になります。 標題:『気の育成 集中力の問題(提言)』 著者:上憲治 雑誌名:「探究」[特集「気」と気による教育](清哲道徳教育研究会)第10号 1991.3 p.10-12 上記の文献を見たいのですが、見つかりません。 清哲道徳教育研究会に連絡を取ろうと思うのですが、調べてもまだ分かりません。 連絡先をご存知の方いましたらお願いします。

  • 恋愛至上主義の風潮について

     こんにちは。たびたびお世話になっている20代前半の彼女いない暦=年齢の男です。タイトルどおり恋愛至上主義にたびたび疑問に思っており質問させていただきました。  世の中テレビ、雑誌、歌など恋愛だらけですよね。僕は学生なんですが学校、バイト先、飲み会などで彼女いないの?今までどんな女の子と付き合った?と良く聞かれるんですが付き合ったことないとか言うとえ~とか、女に興味ないの?とか言われますし・・・そんなおかしことなのかと自分で思います。  付き合うことがステータスと感じている輩も多くて現代では付き合うことが希薄化している感じがするんですよね。次々に相手が変わる人を見ると彼女ってそんなモンなのと思ってしまいす。恋愛ってゲームみたいなモンなんですかね。俺にはできそうにありません。  なんか彼女いないとおかしいとか欠陥品扱いされる風潮が世の中にはあるような気がします。恋愛は自由だという割には世間が恋愛至上主義を押し付けているような感じがします。恋愛はしたい人がすればいいと思うし、したくない人にこういう価値観を押し付けるのは疑問です。  質問としては1、恋愛至上主義となる原因は何ですか?2、なぜ、このような風潮が定着したのですか?3、恋愛って人生を生きていく中で重要ですか?宜しくお願いします。