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源頼朝はなぜ征夷大将軍として力を持ったのですか?

Uncle_Johnの回答

回答No.6

失礼な表現、記載、誤記等ありましたらご容赦ください。 小生、歴史の専門家ではありませんが歴史物は好きです。 年を重ねてその裏側を考えるようになりました。 以上の様な訳で 『歴史的な言葉の誤り、ご認識が沢山あるかもしれませんが大筋をくみ取ってほしいと思います。』 また、歴史用語や言葉の誤記、語弊など訂正いただければ勉強になります。 あくまで素人で個人の私見です。 最近、「一世王」「二世が源」「三世以降が平」という言葉を覚えました。 徳川家康も源とか?(改ざんした後でしょうが、苗字は徳川、姓は源、名は家康?三河の守時代は藤原だったとか?) 本筋に戻して、鎌倉時代以前は天皇の側近の貴族または、源氏、平氏、藤原氏の武術担当など、天皇の末裔とするものが国内の内乱を平定に当たっていた様に思います。 平安時代の後期、鎌倉幕府成立の少し前は、源平が武力の主力だったと思います。 少しそれますが 明治時代に天皇から賜った姓名を名乗るようにといったら、藤源平橘が公家、武家の80%を占めたとか? ゆえに、平安時代末期の日本の各地は、天皇家ゆかりの有力者や天皇の末裔の上級武士がその土地の実力者、統治者になるとか、その子息や孫が地方の実権を掌握し支配したことになったと思います。 また、朝廷から恩賞と言う形でその土地(国)か違う土地(国)を任されたと思います。 いいかえると日本全国、天皇の末裔か、近い側近の末裔ので家柄の高い武家だったと言えると思います。 一方、天皇にとっても、源氏や平氏は天皇の末裔の証であり、征夷大将軍を与える家柄の証とも判断できます。 天皇の権威に頼らない政権を樹立しようとして、一時的に地域を掌握しても、平将門の乱のように中央よりつぶされる。 さて、天皇家ゆかりの有力者ばかりの日本国を効率よく統治するには武力や人望などあっても、中央をいきなり無視した形ではその時点ではいずれ潰される。 よほどの武力、経済力がなければ朝廷を丸ごとひっくり返すことは難しいかと思います。 当初は朝廷に寄り過ぎず、離れすぎず世渡り上手に頭角を現したのが頼朝であったと考えます。 当時は「征夷大将軍」でなくても何でもよかったのでしょう。地方には奥州藤原氏とかあっても全国的な武家政権の前例がない訳です。 頼朝にいつの時点で武家政権の野望が芽生えたかは解りませんがそれを目指し始めた時どうするべきか考えたのではないでしょうか? また、征夷大将軍が全面的に政治、政(政)を行った前例はその時点では無い訳です。 頼朝には平氏、奥州藤原氏などいい意味で見本が、頼朝の生きていた時代にあった訳です。 また、現状のままではいつ奥州藤原氏のように討伐されるかもしれません。 最終的に官職、官位など在京(京都)を余儀なくされる官職は辞任し、結果的に征夷大将軍の座を得て名実ともに鎌倉で中央に影響されない形で政治を行う権利をも朝廷から得ることに成功した。 征夷大将軍に任ぜられたことではなく、その権限に武家政権を認めさせたことにあると思います。 小生は1192年鎌倉幕府と習いましたが他の方の回答にもあるように最近では1185年と言う話が昨今の歴史でもあるようで実権はすでにこのころから頼朝がもっていたわけです。 征夷大将軍になったから政治を行えたわけではなく、特定地域では既に実権を握り、掌握していた。そのままでは東国支配の、下手をすれば奥州藤原氏と同じになってしまいます。 全国的に、武家を統括しなくては「平将門」や「奥州藤原氏」のようにいつ潰されるか解りません。 その時点で武力と言う訳ではないでしょうが、それなりの圧力や貢物をしたか知りませんがそれらで1192年は征夷大将軍となり最後の天皇のお墨付きを得てかつ将軍が政治も行えるように認めさせたと考えるべきだと思います。 征夷大将軍になったことで一応、北から南まで号を発せられる武家の棟梁になった。 そして、西国にも幕府の力の及ぶ国づくりを行った。 この辺は苦手ですが 手法は色々でしょうが武家に都合のいい裁定をするとか、側近を守護とかにして西国に送るとかあった様な記憶です。 これが、現在我々が普通読んでいる武家政権を担う意味での幕府の始まりだと思います。 後には御恩とご奉公という事を盾にして北条政子が中央の介入をも排除してしまった。 何せ、武家にそれなりの守護?か受領?か支配地なり与えたのは朝廷ではなく鎌倉政権であった。 このことが征夷大将軍でなくとも平氏末裔の北条が執権で鎌倉幕府を存続できた。と考えます。 平たく言えば、当初は天皇の権威を背景に平氏を滅ぼし(義経かもしれませんが)、ある程度掌握し、平将門のように潰されない実権を一定地域で得た。その時点では奥州藤原家の様な関東圏の王にしか過ぎなくなる訳で仕上げに征夷大将軍を賜り、かつそこに武家政権をも加えることに成功し、北は東北、南は九州まで徐々に掌握したということではないですか? 以上

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