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旧国名というときの「国」
nako007の回答
- nako007
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邪馬台国は、一つのポリス国家としての「クニ」であったと同時に、いくつかの小さなクニを束ねる存在でもありました。 つまり、緩やかなポリス連邦国家としてのクニもあったようです。 旧国名というときの、信濃国、武蔵国、越後国・・・等は、元々、山や川などの自然の境界でくくられた地方を、古代に行政区にしたものです。 大化の改新以前は「国造」が統治し、律令時代に入ってからは国司が置かれました。 中世以降は、律令制の行政単位としての「国」は有名無実になり、武将が群雄割拠する勢力圏ができましたが、それでも「××の国」という地方の呼び名はずっと残りました。 「藩」は江戸時代の行政単位で、一定の大名家が預かりましたが、改易も頻繁に行われました。 分家による「支藩」はありましたが、藩をまたぐ上位の行政組織として「国」があったわけではありません。 「大岡越前守」とか「柳沢出羽守」とかいうのは、朝廷の官職としての名目上の肩書きであって、越前国全体を統括する行政官だったわけではありません。紛らわしいですね。 元々「こしのくに」だったところが、京都に近い側から「越前・越中・越後」に分割されるなど、時代とともに国の分け方も変わったようです。 大修館の図録で調べたところ、明治時代になってから「出羽」が羽前と羽後に、「陸奥」は陸奥・陸前など4つにというように、さらに細分化されたそうです。 廃藩置県が行われた当初は、今よりずっと県の数が多かったみたいですね。 なんで旧国名を県名にしなかったのか? う~ん、「人心一新」したかったんじゃないですか? 長野の田中知事が、県名を「信州」にしたいと言っているのも、やっぱり「世の中を変えた!」ってムードを出したいからでしょう? 日本人は、社名や地名、芸名なんかを変えたりするのが好きですから。。。 ちなみに、#1さんがおっしゃっている「奈良は朝鮮語から来た」との説は有名ですが、平城京は徹底的に中国を模倣した人工都市ですよね。 それ以前の、日本の目が朝鮮半島に向いていた時代の都なら、納得がいくが、遣唐使時代に入ってから突然朝鮮語が登場したとは考えにくい・・・という説もあるようです。
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補足
私の調べたことも混ぜて書きます。 >大化の改新以前は「国造」が統治し、律令時代に入ってからは国司が置かれました。 大和政権は、各地の豪族を服属させ、「国造(くにのみやつこ)」の地位を与えて、地方を支配させたんですね。 そして、改新の詔で 国・郡・里を置くことにしたんですね。 国司っていうのは、中央から派遣された役人のことですね。 そういう流れからすると、(もともとはクニとか地方の豪族かもしれないが)「国」とは大和政権という中央の都合で定められた、と考えるべきなんでしょうね。 >中世以降は、律令制の行政単位としての「国」は有名無実になり、武将が群雄割拠する勢力圏ができましたが、それでも「××の国」という地方の呼び名はずっと残りました。 実質的な機能は失っていたが、地名としては存在していた、ということですね。 >廃藩置県が行われた当初は、今よりずっと県の数が多かったみたいですね。 廃藩置県とは、藩をなくしてその代わりに県を置くわけですから、もともと藩がたくさんあれば県がたくさん出来るのは当然であり、 そのときに古代・中古に定められた「国」を考慮してどうこうとはならなかった、 ということですね。